フォリロス広場は見送る人と見送られる人とでごった返していた。
見送るのは在校生、見送られるのは卒業生。
字面だけ見れば卒業式と錯視してしまうけれど、式自体は3日前に終わっている。
今日はその卒業生たちが、この町、ラ・エリツィーノを出て大人の町、ファータ・モンドに行く日だ。
空は旅立ちにふさわしい快晴。
とは言え、この時期は雨が少ないから毎年晴れているように思う。
別れを惜しむにも荷物を運ぶにも適した天気だ。
傘をさしては抱き合うこともできないし、鞄を積み込む作業も晴れているほうが早く済む。
雨のほうが情緒があるかもしれないけれど、もう2度と会うことがないとくれば、湿っぽい別れはしたくない。
そう。もう2度と彼ら《卒業生たち》には会えない。
進級したらそれまでの学年ではいられないように、最終学年を終えた学生はもう此処《ここ》に居場所などないのだ。
僕らは巣立つ。子供から大人へ。
此処《ここ》は学園都市ラ・エリツィーノ。”子供だけ”の楽園。
「そっ……れにしてもっ」
僕《マーレ》は人込みを掻《か》き分けながらあたりを見回していた。卒業生に向かう流れに逆らってさまようのは肉体的にも精神的にもつらいが、そうも言っていられない。
バスの発車時刻まであと15分。
最後の別れが言いたい相手は監督生――通称”レトの学徒”――をしていただけあって群がる人数も半端ない。
なのにずっと同級生探しに明け暮れて挨拶すらできていない。
「何処《どこ》行ったんだよノクトぉ」
呼べど暮らせど探し人は現れない。
呼んでもいない刻限《タイムリミット》はドヤ顔で追いかけて来ると言うのに!
件《くだん》の”レトの学徒様”とは、僕とノクトが6歳で入寮して以来、ずっと面倒を見てくれた先輩だ。
新入生に対して大抵の先輩は親切に教えてくれるけれど、中でも彼の面倒見の良さは格段で……あれは持って生まれた性格がなせる技なのだろう。
寮でのルールから、わからない課題、果ては授業の合間に抜け出して買って来られる美味《おい》しいサンドイッチの店まで教えてくれたのは彼だけで、兄のようなと言っては失礼になってしまうかもしれないけれど、他の先輩たちより抜きん出て親しみを抱いていたことだけは確かだ、と断言できる。
ノクトにとってもそうだろう。
我が儘《まま》と中ニ病が服を着て歩いているようなヒネクレた奴《やつ》だけれども、彼の忠告だけは大人しく聞いていた。
だから別れの挨拶くらいするべきだし、しなかったらきっと後で後悔する。
そう思って連れて来たのに、どれだけ見回しても頭ひとつ高い同級生の姿はない。
よもや卒業生と間違われてバスに乗っているのでは!? なんてことまで脳裏をよぎった矢先。
「マーレ!」
声が聞こえた。
「……フ……ローロ、」
声の主は生憎《あいにく》と探し人《ノクト》ではない。
それどころかノクト探しを優先させるあまり最後の別れを放棄しようとしていた先輩《フローロ》だったりするから、ばつが悪いったらない。
襟元に飾られた花飾りが歪《ゆが》んでしまっている。
彼《フローロ》も僕を呼び止めるために人混みを掻《か》き分けて来てくれたのだろうか。集まっている皆を置いて?
そんな優越感が一瞬、頭の中でステップを踏み……その先輩を放置していたくせに、と自分の浅ましさが嫌になる。
兎《と》にも角《かく》にも、彼のほうから来てくれたおかげで挨拶ができずに終わる最悪の事態は回避できたけれど、その挨拶もせずに通り過ぎようとしていた僕が思うことではない。
あんなに世話を焼いた後輩に素通りされて、彼は何を思っただろう。
そんな、話をしたい気持ちと後ろめたさで逃げ出したい気持ちが混ざり合って身動きが出来なくなってしまった僕に、駆け寄ってきたフローロはと言えば、そんなことを気にしている様子もなく、むしろ立ち止まって待っていくれて嬉しいと言わんばかりの喜色を浮かべて抱きついてきた。
「ああよかった。会えないかと思った。さっきヴィヴィとチャルマには会えたんだけど」
……花飾りにとどめを刺したのは僕かもしれない。
胸元で小さく、しかし確かにクシャリ、と鳴った音にいたたまれない気持ちがぶり返す。
けれどこうして接することももう一生ないのだと……そんな感傷がこみあげて、フローロを拒《こば》むことなんてできなかった。
明日からは、僕の世界にフローロはいない。
それどころか僕らが最上学年として振る舞っていかなければならない。
こんな”いかにもなお別れシーン”真っ只中にいるのに、その自覚が全く芽生えて来ないのが不思議だ。
「マーレひとり?」
どのくらいそうしていただろう。
暫《しばら》くしてフローロは子犬みたいな目で僕を見上げて来た。
公然で抱きついたことを周囲がどんな目で見ているか、なんてあたりは全く気付いていないのがフローロの天然なところと言うか良いところだけれども、僕の心臓には良くない。
けれども今はフローロよりも気になることが。
「ノクトはこういう湿っぽいのは嫌いだったっけ」
「ち、違うよ! 一緒に来たんだけどはぐれちゃって、それで」
弁解を続けながらも僕の目は人混みの中をさまよい続ける。
でもいない。これだけ探しても見つからないということは帰ってしまったのかもしれない。最後だからと無理やり引っ張ってきただけなのだから、隙あらば逃げ出されてしまっても不思議ではないけれど、これはノクトのためでもあったわけで。
なのにノクトはそれを全然わかろうとしない。
いっそのこと正直に「ノクトは挨拶するのが嫌で帰っちゃいました」と言ってしまいたい。
でもそんなことを言えばフローロを傷つける。今だって、顔に「ノクトに会えなくて寂しい」と書いてある。
フローロにだけは懐いていたノクトが此処《ここ》に来たがらなかった理由はわからないでもない。
僕と違って、彼はフローロとの別れをしっかり自覚できているのだろう。
だから別れを認めたくない、が半分、もう半分は――
「――フローロ。遠くにいくんじゃない」
「……僕の勝手だろう?」
同じように人混みを掻《か》き分けてやって来たもうひとりの卒業生――イグニにフローロは素っ気なく返事を返す。
嫌っているのかと思うほど冷たい返しだけれども当のイグニは全く気にする様子もなく、さも、そうするのが当然と言わんばかりの顔でフローロの隣を陣取った。
――これが見たくないから、かもしれない。
僕は人混みを見回すふりをして、目の前のふたりから、いや、イグニが首にかけているセルエタから目をそらした。花の縁取りが見慣れたセルエタは本来、イグニのものではない。
セルエタとはこの町に住む学生ひとりひとりに与えられる携帯端末のことだ。
片手で握り込んでしまえるほどのいわゆる大ぶりのペンダントにしか見えないそれは、この世界を治める人工知能・レトと僕ら《学生》をつなぐもの。小さな見た目に反して、レトや学校からの連絡、通話、個人の体調管理から居場所の特定まで、あらゆる機能が集約されている。
初等部に入学する際、全員に与えられるそれは、一様にツルンとした虹色の卵型。
それを各々《おのおの》が自分の好みに合わせてカスタマイズする。
色を変える者、装飾を加える者、ぬいぐるみの皮を着せてマスコットのようにする者と千差万別。
装飾を専門にする店も多く、それぞれがオリジナルデザインを展開しているから滅多なことでダブることはない。
つまり、イグニが下げている花枠のセルエタを持つ者は、僕が知る限りひとりしかいない。
それを何故《なぜ》イグニが持っているのかと言うと……まず、僕らの体の仕組みから話さねばならない。
僕らは16歳を過ぎて性徴《せいちょう》が現れるまで性別というものがない。
ほとんどの学生の一人称が”僕”なのも、三人称が”彼”なのも暫定《ざんてい》的なもの。
遥《はる》か昔は”僕”も”彼”も男性に使うものだったらしいけれど、今は違う。
性徴《せいちょう》が現れた後《のち》、僕らは初めて男性と女性に分かれる。
そこに自分の意思は介入できない。
そして運命だの赤い糸だのといった何の根拠もない直感ではなく、レトが膨大なデータに基づいて選び出した最も適した相手を伴侶とし、家庭を作る。
運に左右されることも、性格の不一致も、価値観の違いも起きない最良の相手と最良の家庭を作り、最良の人生を送る。それが今のシステムだ。
でも中には運命を重視する者もいる。「いつか王子様が」なんて思考はあまりに子供だけれども、子供だからこそ、そんな愚かさも至上に見えるのかもしれない。卒業する時期になるとセルエタ交換なるものが流行《はや》りだすのはこのためだ。
セルエタの機能のひとつである居場所特定機能――持ち主から離された時に持ち主の居場所を指し示す――を使えば、どれだけ姿が変わろうともセルエタ本来の持ち主と再び巡り合うことができる。つまり、レトが決めた相手ではなく”その人を選ぶ”約束の証。それがセルエタの交換だ。
けれど性徴《せいちょう》が現れる前に将来の相手を決めるのはかなりの博打《ばくち》。
元々性別がないせいで僕らは中性的な顔立ち、体つきをしているのだけれども、それでもやはり個体差はある。
少女と見紛《みまご》う顔《かんばせ》と細い手足を持つ者もいれば、筋肉質で全体的にがっしりした印象を受ける者もいる。
前者の例としてはフローロ。
後者の例としてはイグニ。
しかしあくまで外見であって、内面までそうとは限らない。
例えば、噂ではイグニは無類のかわいいもの好きらしい。
けれどもその容姿から買い集めることを躊躇《ちゅうちょ》しているのだとか。
そこで考え出したのが「フローロに似合いそうだから」と言う言い訳だ。
あまりに頻繁《ひんぱん》に炸裂《さくれつ》するせいで、周囲から半公式カップル認定されるほどになってしまった。
そのせいで、今更フローロのセルエタをイグニが持っていても誰も冷やかしすらしない。
けれども!
冗談ではない!!
フローロからは「イグニから贈り物なんて1度も貰ったことがない」と言質《げんしつ》を取っている。
あれはイグニがフローロをダシに使っているだけ! なのに!
卒業して手が届かなくなる前に諸悪の根源《イグニ》を吊るし上げたいくらいだけれども……この件に関してはいくらでも脱線できてしまうから、このあたりで止めておく。
ともかく僕たちは今の姿のまま大人にはなれない。
極端な話、性徴《せいちょう》が現れた後はまったく逆の見た目になってしまうこともある。
実際、セルエタを交換しておきながら、姿が変わったら好みではなかったと逃げてしまうケースもあると聞いている。
「そうやって誰彼《だれかれ》構わず抱きつくのはやめないか? マーレも困ってる」
イグニは苦笑しながらフローロを諫《いさ》めている。
このふたりはどうなのだろう。
言質《げんしつ》は取ったが、よもやセルエタを交換するほど親しいとは知らなかった。
今でもフローロにその気はないように見えるけれど、「そうあってほしい」と思う僕の目が現実を歪めて映しているだけかもしれない。
「誰彼《だれかれ》構わずじゃないし、マーレは困ってないよ。ねぇ」
「……ソウデスネ」
「ほら困ってる」
「困ってないって言ってるじゃない。イグニは目も耳もおかしい」
半公式だか何だか知らないけれど、そのせいでイグニが何かにつけて我が物顔で出てくるのには腹が立つ。
叶うことなら双方とも男、もしくは共に女になってしまえばいい、なんて思ってしまう程度に、僕はイグニが嫌いだ。
なのにこんなにベタベタとーー!
「フローロ、」
言いかけて、僕は声を詰まらせた。
何を言うつもりだ。
「正直に言ってイグニは嫌いです。フローロには釣り合わないと思っています」なんて告白、本人たちを前にして言えるわけがない。
しかし”レトの学徒”と呼ばれる最終学年で5人しか選ばれない監督生にもなったフローロに対し、イグニは寮長ではあるけれど、成績も中の中で目立つ特技もない。
「ちょい悪《ワル》兄貴のようだ」と後輩の中に熱狂的な信者がいるだけだ。
在学中に付き合っていた相手も両手の指では足りないほどの”不誠実の権化”で、清廉《せいれん》なフローロの真逆を行く。それがイグニだ。
そうこき下《お》ろす反面、僕が此処《ここ》までイグニを嫌うのは、大好きな兄(もしくは姉)に恋人ができた時の弟が抱く幼い感情と同じなのだろう、とも思う。
「なぁに?」
「……何でもない。良き旅を」
だから「どうしてイグニなんだ」なんて聞けない。
僕はフローロを押しやる。
上手《うま》く笑えているだろうか。
心配性の彼がファータ・モンドに行ってまで案じることなどないくらいに。
「ファータ・モンドでまた会おう。絶対に。ノクトもヴィヴィもチャルマも、もちろんマーレもみんな僕の大事な弟分だよ。僕は、」
「もういいよ」
「マーレ」
「僕だってもう子供じゃない。フローロはこれから、イグニのことを1番に考えて生きていくんだ。そう決めたんでしょ?」
フローロは一時《いっとき》の熱情で将来を決めるような愚は冒《おか》さない。
性差が決まる前に相手を選ぶことがどれだけ早まった行いか。一般学生だって知っているそのことを、どんな手管《てくだ》で口説かれたとしても”レトの学徒”である彼が忘れるわけがない。
今のふわふわした綺麗な彼ではなくなって愛想を尽かされるかもしれないのに、今でもイグニは簡単に相手を変えるような奴《やつ》なのに、それでも彼はイグニを選んだ。
イグニが将来を共に歩むに値すると判断したからだ。
そう思いたい。
思わなきゃ、今この胸の奥底でマグマのように沸き立っている感情に蓋《ふた》をすることができない。
思っていることが伝わったのか、フローロはわずかに眉を下げる。
「イグニとはそんなんじゃないよ」
「いいって」
見せびらかすように首から下げているイグニとは逆に、フローロはイグニのセルエタを持っていない。けれどそれがフローロの言い分を肯定する証拠にはならない。
他の皆からやいのやいのと言われて、内ポケットにしまい込んでいるだけだろう。
「それにっ、ど、どうせ姿が変わってしまうから見つけられっこないし!」
姿の変わったフローロを唯一見つけ出せる手段を、彼はイグニに託した。
それがフローロの答え。外野が口を挟む権利なんてとうにないんだ。
「ねぇマーレ」
フローロは微《かす》かな笑みを僕に向ける。
「イグニはね、共犯なんだ。きみが思っているような間柄ではないけれど、でも、必要なんだよ」
「……共犯」
「そう、共犯。僕はファータ・モンドに行ってからやりたいことがあるんだ。それにイグニも協力してくれるからセルエタを預けてあるだけ」
やりたいこととは何だろう。
”伴侶を得て家庭を作る”以外に選択肢があるのだろうか。
「もしきみが将来の道を決めかねているのなら、僕を追って来てくれる?」
「え?」
フローロが僕を必要としてくれる。
それは嬉しいことだけれども、でも、共犯って何だろう。
どうしてはっきりと「これこれこういうこと」と教えてくれないのだろう。
「でも他に選ぶ道があるのなら、その道を行って。約束だよ」
そう言いながら小指を絡める仕草は何処《どこ》となく子供っぽくて、それでいて何処《どこ》か悲しげで。
「フローロはいったい何を、」
「追いかけたくなったら図書館のクレアを訪《たず》ねて」
なのにすることはと言えば準備万端すぎる。
何処《どこ》までも僕に決定権があるような言い方をしておいて。
追いかけて来てほしいのなら、協力が要るのならそう言えばいいのに。
先を見越して用意して行ってくれるのがフローロなんだけれども、でも、僕は何時《いつ》だってフローロの望むようにして来たのに。
「……そこまでお膳立てされたら追いかけるしかないじゃない」
「そうなの? そんなつもりはなかったんだけど。うん、本当に自分の好きなようにしてくれていいんだ。僕が頼んだからとかじゃなくて」
「わかってる」
将来なんて全く決めていなかったけれど、僕も来月には最終学年だ。
考えなければいけない時期はすぐそこまで来ていて、僕の選択はひとつしかない。
ふいに唸《うな》るような音を立ててセルエタが振動し始めた。
此処《ここ》に集まっている全ての学生のセルエタが。
これはバスの発車5分前の合図。
乗り損なうわけにはいかない。
周囲の人混みも名残惜しげに卒業生と在校生とに分かれていく。
イグニがフローロの肩を叩き、軽く手を振ってバスに向かう。
その背を目で追い、それから改めてフローロは僕に向き直った。
「本当に。ファータ・モンドで会おうね。姿かたちがどう変わってもマーレはマーレだ。僕にはわかるよ」
イグニにもそう言われたのだろうか、フローロはフローロだと。
そんな口先だけでどうとでも取り繕《つくろ》えそうな軽い台詞《セリフ》を。
フローロはそれを共犯レベルの相方《あいかた》と受け取ったけれども果たしてイグニはどうだろう。
下心がないとは言えない。
協力すると言ったことだってフローロに取り入るつもりで――。
駄目だ。
それを言ったら彼が先ほど言葉に込めた想いをも否定することになる。
奥歯を噛み締めて否定を呑み込んだ僕に、フローロはただ微笑《ほほえ》む。
その笑みはいつもよりずっと柔らかくて、それも全部イグニのせいなのかと思ったら……何だかちょっと悔しかった。
巻き上げられた砂が、遠ざかるバスの姿を覆い隠す。
必死に目で追う僕らの前で無常にも門《ゲート》は閉じていく。
うら寂しい余韻《よいん》を漂わせながら、在校生たちはひとり、またひとりと帰路につく。
僕も同じように踵《きびす》を返しかけた。
その時。
閉じていく門《ゲート》が何かを引き摺《ず》っていることに気がついた。
紐状のものに握り拳《こぶし》大ほどの黒い塊。
此処《ここ》の学生なら真っ先に思いつく形状のそれは、此処《ここ》の学生なら失くしたら絶対に駄目なものだということも知っている。
拾おうと駆け寄ると、町外脱走者と見なされたのか警備兵が飛んできた。
数人がかりで押さえ込まれる。
「違うってば!」
叫んでも押さえ込む手の力が弛《ゆる》まることはない。
そうしている間に門《ゲート》は完全に閉ざされた。
「マーレ!」
騒ぎを見たのだろう、ヴィヴィとチャルマが走って来るのが見えた。
先ほどフローロとの会話でもちらりと話題に出た彼らは同じ寮の学生で同学年。
僕のことを”フローロ過激派”と冷やかすヴィヴィのことだから、「彼《フローロ》との別れを悲観してとうとう脱走にまで至ってしまったか」なんて思っているかもしれない。
彼らが来たことと、門《ゲート》が完全に閉じてしまったことで、警備兵たちはやっと僕を解放した。
押さえつけられたせいで背中が痛い。
「何やってるんだよ。レトに通報されたら減点じゃ済まされないだろ!?」
「違うよ」
頭上から降って来る声に僕はよろよろと立ち上がり、門《ゲート》が引き|摺《ず》っていたものを拾い上げる。
間違いない。これは、
「セルエタ?」
「……ノクトのだ」
セルエタは初期デザインのままでは誰のものか見分けがつかないので、飾り付けて個性を出すことが推奨されている。
装飾を専門にする店も多く、学生もそういったことに不得手な者のほうが多いから大半が職人に依頼する。
そんな中、ノクトは自分で塗ると言ってきかなかった。
とは言え子供の画力《図工能力》など推《お》して知るべし。
フットボールチームのエンブレムを|模《も》したというそれは色がはみ出したり混ざったりした見るからに稚拙《ちせつ》なもので……何も言わなかったけれど本人も酷《ひど》いと思ったのだろう。1年も経《た》たないうちに黒一色に塗り潰していた。
引き摺《ず》られたせいで擦《す》り傷まみれの上にストラップも切れてしまっているけれど、こんな地味なセルエタは他にない。
これは。
ノクトのだ。
「卒業生が捨てて行った、じゃなくて?」
ヴィヴィは眉を寄せる。
セルエタを必要とするのはこの町でだけ。
交換するわけでもなく、記念に取っておくわけでもないのなら捨てる、という選択肢もある。
でもこれは違う。
稚拙《ちせつ》な色ムラが間違いなくノクトのものだと主張している。
けれど、何故《なぜ》これがこんなところに。
さっきから僕の頭の中で最悪な想像が浮かんでは消え、浮かんでは消える。
此処《ここ》、ラ・エリツィーノは周囲を高い壁で囲まれている。
外に勝手に出ることは許されていない。
上空もひらけているように見えるけれども透明な屋根で覆《おお》われ、外界から完全に遮断された形。これは他の町もほぼ同じ仕様だ。
でもこの造《つく》りは僕たちを守るため。
町の外で待ち構えているのは夢でも希望でもなく砂嵐と熱射。
容赦なく照りつける陽《ひ》の光のせいで大地は荒れ、動物はおろか虫もいない。
温室育ちの子供が遊び半分に出歩ける場所ではない。
にもかかわらず此処《ここ》、ラ・エリツィーノでは、レトの統制を支配と勘違いした学生が数年に1度の割合で脱走を試みる。
砂嵐の荒野に興味はない。
目指すのはその先にある楽園、ファータ・モンドだ。
彼《か》の町だって彼《か》の町なりに規則や罰則があるだろう。
けれど、新たな未来に胸躍らせて旅立っていく卒業生を何度も見送っていれば、此処《ここ》よりも夢や希望に満ちた地に見えるのは仕方がない。
最もたるものは”セルエタの携行が義務ではない”ことだ。
人体から離れたセルエタは、1時間後に持ち主の失踪をレトに伝える。
伝われば捜索隊が出動し、場合によっては更生と称して何処《どこ》かへ連れて行かれる。
何故《なぜ》1時間の猶予があるのかと言うと、着替え、入浴から装飾加工まで、外さなければならない機会が結構な頻度《ひんど》であるからで、僕らはそれを若干の皮肉も込めて”レトの温情”と呼んでいる。
1時間はそれらを行うのに十分すぎる時間。
そして町の外に出たところでそう遠くへは行けない時間。
しかしこの束縛が管理社会への反発を生んでいることも確かなこと。
少し考えれば、庇護《ひご》が必要な子供だから管理されているのだとわかりそうなものなのに。
現に大人になればどんな危険も自己責任となるため、レトに連絡は行かない。
卒業生がセルエタを交換しても大丈夫なのはそのためだ。
そしてその”セルエタのない楽園”は存外に近い。
視認できるほどには近い。
卒業生はバスを使うけれど、実際、飲み水や陽射し対策をきちんとしていれば徒歩で辿《たど》り着くのも不可能ではないと――命がけではあるけれど、それでも命が尽きる前には辿《たど》り着けると――そう思える距離にある。
なのに脱走に成功したという話は聞かない。
ファータ・モンドの情報が全く入って来ないということもあるけれど、ゴールすれば脱走《罪》がチャラ《ご破算》になるなんて示しの付かないことをレトはしないはずだから、きっと向こうで罰を受けているのだろう。
もしくは途中で力尽きたか。
外の世界に放置されれば、僕らの体は風と熱砂《ねっさ》でカリカリになるまで乾燥し、崩れて砂に|還《かえ》る。
でもそれは全て脱走した本人の自業自得。同情の余地はないけれど――。
「ノクトは?」
「いないんだ。ずっと探してるんだけど」
「だから脱走したかも、って? ……まぁ……ノクトじゃあ、あり得ないことじゃないけど」
ヴィヴィは言葉を濁し、閉じられてしまった門《ゲート》を振り返る。
僕たちの年頃にはよくあるらしい管理社会への反発をノクトも持っている。
ただ、多くの学生は心の中で思うに留《とど》めるけれども、ノクトは行動に移しかねない――要するに”数年に1度の割合で脱走を試みる学生のひとり”になりかねない。
もしノクトが外に出たところでそれは先ほども言った通り自業自得だけれど、僕らが気に病むべき問題は別にある。
脱走の罪は、本人だけでなく周囲にも及ぶということだ。
共同責任と言えばいいだろうか。
さすがに学年全員に罪を問うことはないけれど、同室の学生は間違いなく監督《監視》責任を問われる。
「で、ノクトは何処《どこ》に?」
「半径500メートル圏内……なんだけど」
「は?」
ヴィヴィは僕が手にしているセルエタを覗《のぞ》き込み、口元を歪めた。
「何これ。ノクトの場所わかんないじゃん」
ノクトのセルエタに浮かぶ情報は距離だけ。方角も目印になる建造物もない。
持ち主から離されたセルエタは持ち主の居場所を指し示す。
親切な誰かが拾って届けてくれることを想定している、なんてほのぼのとした理由ではなく、共同責任が問われる者(この場合は僕)に探せ、と言っているのだ。
けれど何の因果かノクトのセルエタは彼が何処《どこ》にいるのかを教えてはくれない。
わかるのは此処《ここ》からどれだけ離れた場所にいる、と言うことだけ。
引き摺《ず》られた拍子に壊れたのかもしれない。
けれど、考察している時間はない。
真っ黒な表面に赤く点滅する30。
これはレトに連絡が行く《共同責任が発生する》までの残り時間が30分しかないことを示している。
「どうしよう」
セルエタが掌《てのひら》の中で滑る。
500メートル圏内、且《か》つ30分以内にノクトを見つけるなんて無理だ。
ダイレクトに居場所を教えてくれないにしても、せめて行き先の予想がつけばワンチャン《ワンチャンス》あっただろうのに。
どうすればいい?
気ばかり焦るのに足が動かない。
点滅する数字が29に変わる。
飲み込んだ息がカラカラに乾いた喉を傷つけながら落ちて行く。
「どうしよう、って、探すしかないじゃない!」
忙《せわ》しなく周囲を見回したヴィヴィは、
「此処《ここ》にはいない。手分けして探そう。僕はあっち、チャルマは寮、マーレは右!」
一息にそう指示するとチャルマの腕を掴《つか》み、広場を飛び出していく。
呆気《あっけ》にとられるほどの行動力だが、残り時間を考えればぼんやりしている場合ではない。
それに指示されたことで何も考えられなかった真っ暗闇の中に一筋の光が見えたと言うか、足が動く気になってくれたようだ。
ヴィヴィが向かった広場の正面には商店街が、チャルマが向かった先には寮がある。
そして右手の坂道を上れば星|詠《よ》みの灯台がある。
町で最も高台にあるこの灯台は、砂嵐が吹き荒れる外界からこの町を見つけ出す目印。
そしてこちら側からすれば、町全体を取り囲む塀より高い位置にあるおかげで門《ゲート》が閉じていても塀の向こうを覗《のぞ》き見ることができる唯一の場所になる。
ゲームや買い物で気を紛《まぎ》らわせているか、部屋でふて寝しているか。
それとも視界から消えるまでバスを見送っているか。
外に出ていないとすればノクトが行くのはこの3箇所、と踏んだのだろう。
この予想が吉と出るか、凶と出るか……商店街と寮は任せることにして、僕は右手の上り坂を駆け上がった。
走って、走って、走って。
本音を言えば上り坂を走るなんて死んでもやりたくない。
早々に息は切れ、立ち止まったら最後、膝から崩れてしまいそうだ。
ガクガクと意味不明に震える膝のせいか、重力のせいか、進んでいる感じがしない。
普通に歩いて上ったほうが早かったかもしれないけれど、もう遅い。
ノクトのセルエタは僕の手中にある。
ヴィヴィやチャルマが彼《ノクト》を見つけたところで30分では本人に返すのは無理。
だが町の何処《どこ》かにいるのならまだ誤魔化《ごまか》しようもある。
少なくとも脱走の意思はないと証明できる。
「何処《どこ》で落としたのかわからなくてずっと探してましたぁ」とでも言っておけば連行されることはないだろうし、本人が連行される罰でなければ僕も”口頭での厳重注意”くらいで済むだろう。
でももしセルエタを故意に置いて行ったのだとすれば。
身につけている限り居場所はレトに筒抜けだから、脱走者は大抵セルエタを置いて行く。ノクトがそれに準じたとしたら。
せめてセルエタを持って行ってくれれば良かったのに。
そうすれば僕はノクトの失踪を知らずにいられた。
突然捜索隊がやって来て監視責任を問うまで安穏としていられた。
どうせ門限までには帰ってくるだろうと思う程度で済んだ。
好転どころか絶対に悪いほうにしか転がっていないけれど、心の平穏を思えばそちらを願ってしまいたくなる。
息を切らしてこんなに探して、それでノクトの代わりに捕らえられるなんて、いったい僕が何をしたんだ?
前世で徳を積まなかったからとでも言うのか!?
最後の曲がり角を抜けると木々の向こうに灯台が見えた。
薄暗くなってきた景色の中で、白く浮かび上がっている様《さま》はいかにもゴールと言わんばかり。
実際、到着したところで誰もいなければとんぼ返りしなければならないのだけれども、今の僕には終点にしか見えなかった。
ヴィヴィからもチャルマからも連絡はない。
きっともう時間もない。
足掻《あが》いても無駄だ。
もうお終《しま》いだ。
だったらもう此処《ここ》で止まってもいいじゃないか――。
そんなやけっぱち気分で前を見ると、上り坂の終点あたりに柵に寄りかかっている人影が。
ひとり。
丸まった背中が哀愁を誘うけれども、何のことはない、ただの猫背ーー!!!!
僕は駆ける勢いのまま、その背を殴りつけた。
「おわっ!」
奇声を発し、よろけて柵を乗り越えかけたが知ったことか。
ヴィヴィが提示した3つの選択肢から当たりを引いた喜びよりも、怒りの沸点がMAXだ。
心穏やかに話しかける余裕なんてない。
へたり込んだノクトを無視し、僕は息を整えがてら、柵の向こうに目を向ける。
先ほどまでいた広場と、横に長く続く壁と、その向こうの世界を覆い隠す砂嵐。
その全てが薄闇色のヴェールに覆われている。
その中を一筋、灯台の灯りが照らす。
ノクトは此処《ここ》でひとり、バスを見送っていたのだろうか。
でも黙っていなくなることはないじゃないか。
それもセルエタを置いて!
その時だった。
握り締めていた右手から甲高い警告音が鳴り始めたのは。
セルエタを見る。
表面で赤く点滅する数字は0。小数点以下が刻々と減っていく。
「まずい!」
僕はセルエタをノクトの首に掛けようとし……ストラップが切れていることを思い出した。
仕方がないので掴《つか》んだまま鳩尾《みぞおち》のあたりに押し付ける。
「なん、」
「動くな!」
そうこうしているうちに、震え続ける振動と押さえ込まれてくぐもった警報音は、やがて、どちらも止まった。
「……間に合った」
「えっと、これは……?」
安堵《あんど》の溜息を吐いた僕の耳に、ノクトの戸惑《とまど》った声が聞こえた。
「これはぁ!?」
一度は鎮《しず》まりかけた怒りが再沸騰し始める。
こっちの苦労も知らないで何を寝ぼけたことを言っているんだ。
あの一蓮托生システムがなければ、町の外で干乾びようが放置できたものを!
握った拳《こぶし》が震える。
ノクトのせいで僕はフローロと話す時間が取れなかった。
彼《フローロ》のほうから見つけて呼び止めてくれなかったら、僕は彼《フローロ》への罪悪感を抱えたままいもしないノクトを探し続け、そして時間切れになっていただろう。
「で、お前誰?」
「はあああああああ!?」
なのに、さらに続いたノクトの台詞《セリフ》が怒りに塩を塗りつけてくる。
ばつが悪くて記憶喪失のふりでもしているのだろうか。
そうでなくても「探してほしいと頼んだわけじゃない」なんて普段のノクトの常套句《じょうとうく》。
”同室者脱走の恐れあり。動向に注意されたし” なんて通達がレトから来ていることも知らないで!
「それがセルエタ捨てて勝手にいなくなった奴《やつ》が言う台詞《セリフ》なわけ!? 言っていい冗談と言ったら駄目な冗談があるってわからない?
と言うか、それ以前に冗談で誤魔化《ごまか》せると思ってるって最低だよね。いい加減わかってほしいんだけど、勝手なことをすると僕の責任になるんだ。迷惑なんだよ!」
フローロに最後の挨拶すらしないで。
鼻の奥がツンとなる。
そんな顔を見られたくなくて、僕はノクトから顔を背《そむ》けると立ち上がった。
どれだけ目を凝らしても、もうバスは見えない。
フローロだってもう僕らのことなんか忘れて新たな町での生活へと心を躍らせているに違いない。……イグニと。
あたりは次第に暗くなっていく。
眼下に見える街に、ぽつり、ぽつりと灯りが|灯《とも》る。
ひとつ大きく息を吐《は》くと、僕は未《いま》だに座り込んだままのノクトの腕を掴《つか》んだ。
気を取り直して、と言えるほど簡単に鎮《しず》まる怒りではないけれど、鎮《しず》まるまで待っていたら明日の朝になってしまう。
そしてその間にもこの空気を読まない馬鹿は、ふらりといなくなってしまうのだ。
「……帰ろう。ヴィヴィとチャルマにもちゃんと謝ってよ? 探してくれてるんだから」
制限時間をとうに過ぎているのにヴィヴィたちから何も言って来ないのは、「連絡がないのは見つかった証拠」と思ってくれているからか。
それとも「時間切れだね残念」と思っているのか。
それはわからないけれど、とにかくこのヒネクレ者には謝らせないと。
ヴィヴィなら虫の居所しだいで土下座だって強要するからいい薬になるだろう。
腕を引っ張られ渋々《しぶしぶ》といった風情で立ち上がったノクトは、だがしかし、困惑したように眉尻を下げたまま僕を見下ろした。
「で?」
「何が?」
この期《ご》に及《およ》んでまだ何か言うつもりだろうか。
睨《にら》みつけはしたものの、下から見上げたところでそれほど凄みは出ない。現にノクトはうんざりしたような顔で口を開いた。
「だからお前は? そんでもって此処《ここ》は何処《どこ》だよ。普通はエンカウントした時に名乗るもんだし、世界の説明とかどんな能力を持っているかとか言うだろ?」
「は?」
記憶喪失が転じて、今度は異世界から来た転生勇者にでもなったつもりか?
どうやらまだ妄想語りを続けるつもりでいるらしいが、本当にうんざりしているのはこっちのほうだと言いたい。
ノクトと同室にならなければ。
いやこの際ヴィヴィでもチャルマでもそれ以外でもいい。
中二《ちゅうに》じみた考え方をしない普通の学生が同室だったのなら、学生生活はもっと楽だったろうに!
「……いい加減にしてくれない?」
「いい加減って、俺は、まだ」
いつもは相手の反応が悪ければすぐに妄想語りをやめるのに、未《いま》だ続ける気でいるのは、よほど現実世界から逃げたいのだろうか。
そうすれば誤魔化《ごまか》せるとでも思っているなら教育を間違えたとしか言いようがない。
「記憶喪失ネタかと思ったら今度は転生? 言っておくけどそういうのって寒いだけだから」
夢見がちと言えば言葉がいいが、ノクトは昔から物語の中身に憧れているところがある。
本棚にもそういった類《たぐい》の話が並んでいて、そのどれもが”何の取柄《とりえ》もなかった学生の自分が、突然異世界に召喚されて勇者になった”だの”王族の生まれ変わりだった”だのと……読んで楽しむ分には口出ししないけれど、自分もそうだと思い込んだり、まして、ごっこ遊びに付き合わされるのは迷惑でしかない。
「違う。本当に、」
ノクトはわしわしと髪を掻き《か》むしり、それから、はた、と思いついたような顔をした。
「いいかよく聞け。俺は能登《のと》大地《だいち》。ノクトなんて名前じゃない」