ルチナリスが新しい主《あるじ》と奇妙な生活を始めて数ヶ月が経った。
経験はおろか見たこともない「城の召使い」という立場ではあったが、実際になってみても何処《どこ》か間違っている気がしてならない。
まず、部屋。
主曰《いわ》く「部屋が余っているから」とあてがわれた私室は、彼が使っている部屋に比べれば段違いに狭くはあるけれど、どう見ても召使いのそれではなく。虐《しいた》げられた女主人公が押し込まれる薄暗い部屋を想像していた身としては、「間違っています」とさえ言いたくなる。
ベッドにクローゼットに小さな机。そして用途不明の飾り壺。
今だもってその壺の使い道はわからない。雨が降った時の雨漏りを受け止めるのには最適な大きさだが、多分、違うだろう。
着の身着のままで来たルチナリスにとって私物なんてものはないに等しかったから、ベッド以外はほぼ使っていない。天板が可動式になっているライティングデスクも蓋を無意味に開け閉めするだけだし、羽根ペンは飾りと化している。
今まで「自分の部屋」というものを持ったこともなかった以上に、こういう「いかにもお金がかかっています」風の部屋は落ち着かない。
次に服。
召使い、と言われていただけあってメイド服も用意されていた。
クローゼットを開けると同じデザインのものが5着。雨の日が続いても洗い替えを心配する必要はなさそうなのだが、その服というのがまたひらひらとフリルが多く、襟元のリボンもやけに大きい。
あの主の趣味なのだろうか。
「いらっしゃいませご主人様ぁ」というのを期待されているのだろうか。
ああいうものは綺麗なお姉さんの仕事だと思っていたのだが、幼女でも需要はあるのだろうか。犯罪の臭いがするのだが。
……世の中には知らないお仕事ってたくさんあるのね。
フリルに飾られた服を前にしてルチナリスはしみじみと思う。
が、しかしそこは女の子、かわいげの欠片《かけら》もない服を着せられていた今までを思えば、頬が緩むのは止められない。
さらには他の使用人。
恐ろしいことに、この城にはルチナリスと青藍以外は誰もいないようなのだ。
正確に言えば通いでやって来る賄《まかな》いの女性、という人がもうひとりだけいるのだが、彼女は朝から晩までずっと厨房に籠って3人前とは到底思えない量の料理を作り、作り終えると帰ってしまう。
料理をしたことのないルチナリスと厨房に入ったこともないであろう主のふたりだから、料理担当がいるのは素直にありがたい。が、コミュニケーションは取れない。
最初の頃は、他の使用人はまだ到着していないだけで後からやって来るのだろうと思っていた。
だが、待てど暮らせど誰も来ない。
と言うことは召使いってあたしひとり?
この広いお城に、あたしひとり!?
数ヶ月経った今、その事実にルチナリスは卒倒しそうになっていた。
人生は5年と短いが、召使いなんて仕事はしたこともない。
教えてくれる人も、指示してくれる人もいない。子供に期待などしていないのか主もなにも言わないし、それどころかほぼ放置されている。
しかし、何をしていいのかわからないことと、ボーっとしていてもいい、と言うことは別だ。もしかしたらどれだけ使えるのか試しているのかもしれない。今だって隠れて採点しているのかもしれない。
使えない奴、と思われるわけにはいかない。
ここを追い出されたら自分には行くあてがない。
親に甘やかされるような育ちでなかったのが幸いした、と言うべきだろうか。
子供ながらに何かしなければ、という焦燥感に駆られ、散々考えた結果……ほとんど汚れることもない廊下を毎日黙々と掃除する日々が続いている。
これでいいのだろうかと思いながら。
「あの、ほかに召使いの人っていないんですか?」
しかしあまりに何もない日々が続きすぎた。
主の執務室に押しかけ、問い詰める幼女を前に、何の仕事をしているのか日中はこの部屋に籠って大量の書類と格闘している主は、今もペンを握ったままきょとんとした顔で目を瞬かせている。
他に誰もいないことを全く気にしていない。
いや、もしかしたらルチナリスがいることすら忘れていたかもしれない。そんな顔で。
「……賄《まかな》い」
目を瞬かせて、それから沈黙が続くこと数分、やっと口を開いた彼の台詞《セリフ》にルチナリスのほうが絶句する。
待って。
あの料理製造マシンみたいな人以外には誰も来る予定はないんですか?
その力仕事なんて全くしたことのないような手で、全部自分でやってきたとか言うんですか?
違うでしょ?
あたしの記憶が確かなら、こういうお城に住んでる人って服を着替えるだけでも召使いが数人がかりで着せ付けたりするのよ。ご飯食べる時もお皿持った人が何人も並んで運んでくるのよ。掃除と洗濯は……あたしがやっているけれど、でもこのお城の大きさならもっと大勢いてもいいと思うのよ!
「それ以外は!? たとえば爪のお手入れする人とか」
「爪?」
しまった。つい口が滑ってぇぇえ!!
彼は不思議そうに首を傾げると自分の爪を見た。見て、それから「これが何?」とばかりの視線をルチナリスに投げかける。
「爪くらい自分で切れる」
「そ、そうですよねっ!」
頭の中で薔薇が飛ぶ。
違う、そんな想像しちゃ駄目! 駄目なのに!
大人は、子供らしい子供が好きなのよ。かわいげのある子供が好きなのよ!
「失礼しましたっ!!」
踵《きびす》を返す。部屋を飛び出す。
背後でバタン、と大きな音がした。
ああ、扉は音を立てて閉めちゃ駄目なのに。
でも戻って締め直すことなんかできない。足は止まらない。
慌てたように部屋を飛び出していくルチナリスを黙って見送っていた青藍の後ろで、何もないはずの空間が揺らめいた。薄い靄《もや》だったようなものが徐々に固まり、色も濃くなっていく。
「子供とは思えない気の遣《つか》いかたをする子っすね」
1、2、3体。
それは城の前庭に置かれている石像と同じ形になると、扉に目を向けたままの青藍を覗き込んだ。
「まぁ命の恩人でご主人様なわけだし。年上だし男だし、気を遣うなってほうが無理かもしんねーけどさ」
「坊《ぼん》、もうちょっと他人に興味持ちましょうよ」
「一緒に暮らしてんでしょ?」
妙に馴れ馴れしく騒ぎ立てる異形の化け物の頭をそれ以上近づいて来ないように手で押し戻しながら、青藍は宙に浮いている彼らを見上げた。
「爪って自分で切ったら駄目だった?」
「いや……多分そこはそんなに問題にするところじゃないかと」
その異形の彼らはガーゴイルという。
普段は石像の姿を取っているが、勇者がやってきた時などは実体に戻って戦う、魔王配下の低級魔族だ。
魔王が交代すれば彼らもその新たな魔王の下につく。
魔王でなくなればそれはもう彼らの主ではない。
人間であるルチナリスの前には現れないが、この城にはそういった城に付いている魔族や精霊が他にもいる。そのせいで召使いというものがいなくてもそんなに不便はない。
ルチナリスが自分でやっていると思っている掃除や洗濯にしても、実際のところはひとりでやっているわけではない。彼女ひとりが知らないだけの話だ。
「他に召使いはいないんですかーって、やっぱ寂しいんじゃないんすかねぇ」
「暇そうにしてますもんねー」
ルチナリスの前には現れないが、見ていないわけではない。むしろ興味津津に見守っていると言ってもいい。
魔族である以上、人間は「食べるもの」という認識が先に来るのだが、下級に位置する彼らは人間の血肉を口にすることなどほとんどない。
主である青藍に止められていることもあるのだが、つまみ食いして魔王から怒りの矛先を向けられる恐怖よりも、見たことのない子供の言動を観察することのほうが楽しいようだ。
動けるのは城の中だけの、自由に外の世界を見て回ることができない彼らだからかもしれない。
「放ったらかしじゃないすか。仕事のひとつも言いつけられなくて何のためにいるんだろう、って悩んでるっすよ? るぅチャン」
「るぅちゃん?」
「坊《ぼん》、反応するところ違うっす」
勝手に付けられているあだ名をおうむ返しに聞き返す主に、ガーゴイルたちは頭を抱える。
自分たちが言いたいのは名前のことじゃない。
「だいた、」
「”ル”は”聖なる”、”ティナ”というのは”一番最初の聖女”の名前らしい」
ガーゴイルの声を遮るように青藍は呟いた。
「ル」は「聖なる」、
「ティナ」は「始まりの聖女」の名、
「リイス」は「光」「永遠」
人間たちの間では、信仰の象徴として「聖女」というものがあると言う。名付けの際にどこまで考慮したのかは知らないが、聞き慣れない名だ。全く意味もなく付けられたとは思えない。
「誰が付けたか知らないっすけど、随分重い名前っすねぇ」
それは普段から何も考えてなさそうなガーゴイルでも思ったらしい。
「そういうのは名前負けする奴が多いっすよ?」
「俺に言うな」
最初に聞いた時、変な名前だと思った。
しかしきっと祝福を込めた名前なのだろう。
人間は魔族と違って生まれた時に付けた名を一生背負っていくのだと聞く。適当に端折《はしょ》っていいものでは……。
「じゃ、やっぱ”るぅチャン”って呼ぶのがベストっすね!」
「名前負けしたら可哀想っすよ!」
……そうなのだろうか。
もともと呼び名を重視しない魔族の悲しさ、断言されるとそんな気もしてくる。
そう断言しているガーゴイルたちにしても、魔族の、しかも個々で呼び名すら分けないような種族。名前負けするか否かなど、考えたこともないと思うのだが。
「しかしまぁ、そこまで調べておいて、なんで本人にはそんなに無関心なんすかねぇ」
ガーゴイルは羽根をぱたぱたと忙《せわ》しなく動かす。
「そう?」
無関心でいたつもりはないのだが、なんせ就任に際しての手続きが多すぎて後回しになっていたことは認める。こういったあたり、執事なり事務方《じむかた》なりがいれば違うのだろうが。
急きょ決まった使用人第1号が年端もいかない人間の娘、と言うことで、本家側で用意していた使用人リストは白紙に戻った。
第二夫人――青藍の母であり、前当主の妻――が決めたこととあっては、無下《むげ》にもできなかったのだろう。
そして、なるべく早く用意する、と言う本家執事長の申し出を保留にしているのは自分。
なんせ人間だ。
他の「魔族の」使用人たちに、あの幼女が食べられてしまう心配も多少はあるが、些細なことから正体がバレるかもしれない、ということへの懸念のほうが大きい。
基本的に石像でいることのほうが多いガーゴイルや姿を見せない精霊とは違って、自分や他の使用人は人《人間》として彼女の前にいることになる。何処でどんなボロが出るか知れない。
それならいっそのこと全て自分でやったほうが楽ではないか、という考えに至りつつもあったのだが……その結果「無関心」と言われ、思われるようになるとは。
母も面倒を押しつけてくれたものだ。
「るぅチャン、メイド服着てくるくる回ってたっすよ」
「ベッドにダイブもしてたな」
「チェストの取っ手が硝子《ガラス》製だったのに目ぇ輝かしてたっす」
ガーゴイルたちが口々に言う。
よく見ているものだ。ほとんどプライバシーなんてものはないかもしれない。青藍はそんなことを思う。
しかし、彼らが言うどれも「自分」は見たことがない。
彼女が喜んでいるらしいメイド服は母の指示だと聞いているし、調度品は備え付けのもの。雇い主である自分が選んだわけではない。
そんなふうだったから、無関心だと言われても仕方はないのかもしれないのだけれども。
「どことなーく、坊《ぼん》の子供の頃に似てるっすね」
「……俺はお前らに会った覚えはないが」
「本家にもいたでしょ? 俺らの仲間。俺らは一心同体っす! 身も心も!」
ガーゴイルたちは胸を張る。
要するに本家にいた石像と記憶を共有しているらしいのだが……名前どころか記憶まで一緒の連中にルチナリスの名前をどうこう言う資格などあるのだろうか。という疑問も逆に浮かぶ。
「で、俺にどうしろと」
「坊《ぼん》にはるぅチャンの気持ちがわかると俺らは信じてるっすよ!」
「わからないから聞いている」
どこからが本題なのかわからないお喋りにいい加減飽きながら、青藍は口を挟んだ。
彼らがルチナリスに好意的なのはいいことだが、だからといって「かわいいるぅチャン」を延々と聞かされるほど暇ではない。
「興味は持ってるみたいっすから、それを態度で示しましょうよ」
「あのお年頃は”自分のもの”が増えるのが嬉しい頃っす。なんかプレゼントでもして、放ったらかしじゃないんだよアピールを、」
結局なにがしたいのかよくわからない提案に、青藍は黙ったまま背を向けた。それを慌ててガーゴイルが囲み直す。
「これから何年か顔突き合わせることになるんすから!」
「それを見るたびに、”青藍様はあたしのこと忘れてないんだから”とか勝手に思ってくれるっすよ」
「坊《ぼん》だって今まで貰った中で忘れられないものとかあるっしょ?」
たった3匹だというのに、烏《カラス》の群れの中に放り込まれたようだ。ここは早めに話を終わらせよう。
ギャアギャアと喚き散らす声の中で、青藍は彼らが満足しそうな答えを探してみる。
忘れられない、もの。
水に濡れたまま差し出された手のひらと、金色の――。
「痛《つ》、っ」
その途端、頭に尖った痛みが走った。
「坊《ぼん》!?」
「……大丈夫だ。なんともない」
突然の頭痛にこめかみを押さえたまま、青藍は一瞬だけ見えた絵を思い返す。
何だったのだろう、今のビジョンは。
からりと晴れたある日、その来客は突然やって来た。
ガン! ガン! と叩きつけられる大音響に眉をひそめた青藍が席を立つ。
その場で待つように、と言われ、ルチナリスはひとりで取り残された。
新しい人がやっと来たのだろうか。
おそるおそる廊下を覗いたが、そこは小さいながらも城の悲しさ、来客がいるらしい玄関が見えるはずもない。
あの音はきっとドアノッカーの音だろう。玄関扉にあった重そうな金具をルチナリスは思い浮かべる。
重そうだったが古そうでもあった。あんなに力任せに叩いたら壊れてしまうのではないだろうか。
「大丈夫っすよ。勇者が叩きつけても壊れないのが自慢っす」
「だれ!?」
背後で声らしきものが聞こえて、ルチナリスは飛び上がった。
振り返るが、そこには誰もいない。
なんだ今のは。
空耳? にしては随分明瞭に聞こえたけれど。
誰もいない室内に目を凝らす。
窓は閉まっている。白いレースカーテンから差し込む光が、絨毯を四角く切り取っている。
……そう言えば、あのカーテンは誰が開け閉めしているのだろう。
主《あるじ》である彼か? いや、普通に考えればそれは召使いである自分の仕事。
それだけじゃない。待てと言われてそのまま待ってしまっているが、来客の応対も本来なら自分の仕事のはず。
あたしは。
役に立たないといけないのに。
「誰だかわかんねー客に、小《ち》っさい子を応対には出しませんって」
「ここは思ってるよりずっと怖いところっすよ?」
「ひっ!」
また。
この部屋には誰かいる。自分以外の誰かが。
その「誰か」が、ここは「怖いところ」だと言う。
ルチナリスは後ずさった。
先程青藍が出て行った扉が背に当たる。そのノブを後ろ手のままそっと握る。
怖い、と言われて思い浮かべるのは悪魔のこと。
しかしこの城にいるのは主である青藍と、そして自分。悪魔はいない。
怪しいのはむしろ誰だかわからないこの「声」の主。
大丈夫。いざとなれば、あの人は助けてくれる。玄関に行ったのはわかっているのだから、そっちへ向かって走ればいい。
あたしには全然関心がないみたいだけれど、きっと……。
窓辺にぶら下げられた真鍮製のモビールが、ゆらり、ゆらり、と動いている。
周囲を回る星と、左上で揺れる月。真ん中に太陽。
その太陽のパーツがくるりと動く。
三日月のような口で笑うその顔が、ルチナリスのほうを向いて……
ルチナリスの体はいきなり後ろに引っ張られた。
今まで視界にあった笑い顔の太陽が真っ逆さまに沈む。続いて天井が通り過ぎ、後ろにあったはずの扉が口を開く。その先に出迎えているのは廊下の窓。
扉が開いたせいで掴んでいたドアノブごと引っ張られたのだ、ということに気が付いたのは、ひっくり返った体を抱きとめられてから。
知ってる。この手。この温もり。
「せ、」
見上げると青藍の顔があった。
顔は逆光でよく見えなかったが、その背後から光がこぼれているように見えた。
「おや、領主様のお子さんですかな?」
青藍の後ろにいた恰幅《かっぷく》のいい中年男性がそう言って笑う。
さらにその後ろに眼鏡をかけてひょろりとした白髪混じりの人と、紙袋をひとつ下げた中背《ちゅうぜい》の人が立っているのが見える。
先ほどのドアノッカーの音は彼らだったのだろうか。
簡単な名乗りによると彼らは城下にある町の町長とその部下の人たちであるらしい、のだが。
……領主、様?
ルチナリスは青藍に半分抱えられたままの状態で彼らを見比べた。
どう見ても客である面々のほうが何倍も年上だし偉そうだ。そんな人たちがまだ20代そこそこにしか見えない主に頭を下げている様は、何処《どこ》か奇妙に見える。
執務室の端にある応接セットから笑い声が聞こえる。
と言っても、笑っているのも喋っているのも町長と名乗った中年男性ひとり。
お茶を出すルチナリスに彼は目を細め、「うちにも似たような歳の女の子がふたりいましてね」と、懐から似顔絵まで取り出す始末。
町長の家族構成になど興味がないのであろう。主は笑みを浮かべてはいるが右から左に聞き流しているようだ。
「噂では聞いておりましたが、これはまたかわいらしい親子ですな。ええ、ちょうど領主様がたの馬車を見たという者がおりまして。いやはや、ご挨拶が遅くなって。え? 気にしていない? そうでしょう、引越しというものは荷造りも荷ほどきも手間がかかりますから、来客など邪魔なだけでしょうし。ましてやこんなお城、うちの何倍……ああ、領主様は貴族様なんでしたな。庶民と比べては不敬罪に問われてしまいますか。ああ、それも気にしていない? それは良かった」
体型だけ見れば腹から生まれて来たようにしか見えないのだが、きっと生まれたのは口からだろう。町長の口は止まることを知らない。
連れのふたりも馴れているのか、目を伏せたまま何も言わない。寝ているのかもしれない。
「いや、放っておくと若者はどんどん都会に流れていくもんですから後に残されるのは老人ばかりで。うちはまだ列車の線が通ってますが、周辺は厳しいものがあるようですわ。そこにこんな若い方が越して来るとは。そんな風で若いもんが少ない町ですから働き手は引く手数多《あまた》で……あ、いや、領主様なんでしたな」
こんなに一方的に喋られたのでは、他人に関心を持つことがなさそうな主が聞き流してしまっても仕方がないだろう。聞いている顔を作っているだけでも善処していると言っていい。
あの不愛想な受け答えをこの町長にしたらどうなるのだろうと思わなくもなかったが、口を挟む余地がないのはかえって良かったのかもしれない。
やっぱり貴族様だったのか。しかも領主様だとか。
ルチナリスはトレイを胸に抱えたまま、青藍の横顔を窺う。
古ぼけているとは言え城に住めるのだから庶民ではないと思ったが。
『なにトロトロ歩いてんだよ、クソ餓鬼《ガキ》ゃあ!』
その貴族様がどうしてあんな場所にいたのだろう。
どうやってあの化け物を追い払ったのだろう。
ルチナリスが考え事をしている間も話は一方的に弾んでいる。
「で、娘さんは今おいくつで?」
「いえ、彼女は」
よく見ようよ。普通、自分の子供にメイド服着せてお茶運ばせないでしょ? あたしだってパパなんて呼びたくないわよ。
ルチナリスは心の中で抗議する。
「ああ失礼、まだご結婚なさる歳ではありませんでしたか。妹さんですな」
妹にもメイド服は着せない。
「いやあ、かわいい妹さんですな。歳が離れていると余計にかわいいでしょう。うちの子たちもよく手伝いだといって珈琲《コーヒー》を運んで来てくれたりしますがね。あのこぼさないように緊張しながら歩いてくるのがかわいいと言うか、真剣な顔もかわいいと言うか。ああ、今度個人的に遊びにいらっしゃって下さい。実際に見て貰ったほうがうちの子たちのかわいらしさもわかるというものです。なんせ私は口下手で、」
「……はあ」
下手に説明でも入れようものなら倍以上になって戻って来る。それが面倒になったのか、主は途中から町長に言われるまま相槌を打つ係に徹《てっ》し始めた。
付き合いは短いがなんとなくわかるようになった。ご主人様はとんでもなく面倒くさがりだ。
しかし。
こういうことは適当に流したら駄目なんじゃないの?
さすがに子供心にも心配になってくる。
彼が言い出せないのなら自分が訂正すべきだろうか。あの町長さんは子供には甘そうだし。
だが、思い返せば昔、大人の会話に子供が口を挟むものじゃない、と言われたことがあった。ただのお喋りにしか見えないけど、これでも一応は「町長さん」と「領主様」の会話なんだし……。
「そう、出しゃばるのは良くないっす」
またどこからともなく声がした。
目の前の大人たちには聞こえないくらいの小さな囁き。
「るぅチャンの行動ひとつでお兄ちゃんの躾《しつけ》がなってないとか言われるっす。ああ見えて、あの狸は狡猾《こうかつ》っすよ? 坊《ぼん》に隙ができるのを狙ってる」
狸。
うまい表現だ。いかにも腹鼓《はらづつみ》が上手そう。
ルチナリスは視線だけを隣に向ける。しかし、予想通り、そこには誰もいない。
「ここの領主は今までずっと町政になんか関わって来なかったっすからね。あの狸としちゃあ坊《ぼん》に出て来られたくないんでしょ? だから牽制しに来たってとこかな」
「ちょうせい? けんせい?」
いったいこの声は誰なんだろう。
透明人間? それともお化け?
前の領主様のことも知っていそうな話しぶりだし、このお城に長くいるのだろうか。何十年も……もしかしたら何百年も、何千年も。でもそんなの、人間とは言わない。
あたしの隣にいるの、なに?
悪魔は人間の中に紛れているんだ、って誰かが言っていた。
ミバ村があんなに山奥なのに襲われたのは、村に紛れ込んでいた悪魔が反撃もできない村だってことを仲間に知らせたからだ、って。
その話が出た時のみんなの目が怖かった。
あたしも捕まっているのに、その捕まえられている人たちの中でもあたしだけが敵みたいな目で見られていた。
村全部が家族みたいな小さな村で、たったひとり余所者のあたし。
あたしだけ助かって……今頃みんなは「やっぱりあの子は悪魔の仲間だったんだ」って噂しているのだろう。
でも、本当は。
悪魔は、こんなふうに姿を消していられるのだとしたら。
姿が見えなければ紛れるのも容易《たやす》い。こうしてすぐ隣にいたって気づかれない。
あたしの隣にいるのは、もしかしたら。
大丈夫よ。すぐ近くにあの人がいるんだもの。ルチナリスは視線を青藍に戻す。
助けて、って言えば……ううん、言わなくてもまたあの時みたいに助けてくれる、よね?
おぼろげな記憶。
砂埃の中に見えた、白いシャツと、黒い、長い髪。
あれ。変だな。
あたし、なんで最近知り合ったばかりの人をそんなに頼りにしてるんだろう。
じっと領主を凝視しているメイド姿の幼女に、町長は目を向けた。
目尻が下がると本当に優しいおじさんに見えるのだけれども、でも、狸。あの声を信じていいのかすらわからないけれど、この町長にも気を許すわけにはいかない。
「うむ。どことなく領主様に似ていらっしゃる」
これは社交辞令だろう。子供にだってわかる。
どこがどう似ていると言うのだ。あ、もしかしてあたしを利用しようって魂胆なの?
ルチナリスは先程の声を思う。きっとまだ隣にいる。
『行動ひとつでお兄ちゃんの躾《しつけ》がなってないとか言われるっす』
隙を見せちゃ駄目。
それがお兄ちゃんのた……………………お兄ちゃん!?
や、やだ。つられてなに考えてるのよ。あの人はあたしのご主人様。間違ったってお兄ちゃんじゃないわ。
隙を見せない。
隙を見せなぁぁぁい!!
「利発そうなお嬢さんだ。将来が楽しみですなぁ」
心の中で何やら念じ続けているルチナリスに何をどう感じたのか、町長はうんうんと頷《うなず》く。うちの子たちも賢いんですよ、と相変わらずのうちの子自慢になだれ込みながら紅茶を一口|啜《すす》り、今度は盛大にむせ込んだ。
「め、珍しい茶葉をお使いですな」
「そうですか?」
始終退屈そうに話を聞いていた青藍だったが、むせ返る町長の様子に首を傾げると、口をつけないまま放置していた目の前の紅茶を手に取った。ちらりとルチナリスに視線を送り、すっかりぬるくなってしまっているであろうカップを口に運ぶ。
かすかな苦笑いが浮かんだ。
なんですか、その顔。
初めてちゃんと言いつかったお仕事だもの、腕によりをかけて淹れたんだから!
これでも毎日神父様にお茶を淹れていたのよ? なんて言ったって、あたしのお茶は神父様を笑顔にするお茶なんだから。
神父様は毎日美味《おい》しいって、違う、最初のうちは珍しい味がするね、とか新鮮だね、って言って。それからだんだん飲むたびに笑うようになって……あれ?
「もう1杯如何《いかが》ですか?」
主はこんな顔もできるのかと目を疑いたくなるような満面の笑みを浮かべてポットを手に取る。
領主様が手ずからお茶を注ぐことに対してなのか、それとも別の意味なのか、町長は慌てて両手を振った。
「あ、いや、ええと。ああ! 随分と長居してしまいましたな! 私としたことが!」
町長はそそくさと席を立った。
動く様子のなかったお付きのふたりも、少し遅れて慌てて後を追う。
町長さんも今、珍しい、って言ったよね?
青藍様、お茶飲んで笑った、よね?
……それって。
「すげぇ。るぅチャンのお茶、あの町長を追い出したっすよ」
隣から感嘆の声が聞こえるが褒められているようには聞こえない。
もしかして美味《おい》しく、なかった?
もしかして……神父様は、いつもあたしのお茶を不味《まず》いと思いながら飲んでいたの?
ただ、その事実だけがルチナリスに重くのしかかる。