その城は、険しい山道を越えた先に突如として現れた。
ノイシュタイン城と同程度の小ぶりな造りだが、こんな人気《ひとけ》のないところに建てるのでは労力も格段にかかるだろう。
しかし、見れば色とりどりの草花が雑多に咲き乱れ、庭木も刈り込んだばかりと言わんばかりの整然とした形で揃っている。とても長い間放置していたようには見えない。
ここはアーデルハイム侯爵の別邸。
主な魔族は、人間界ではこのように離れた|辺鄙《へんぴ》な土地に居を構えるのが普通とされている。
自分たちの素性がばれた時の身の安全と、そして狩る対象――人間と同じ場所には住みたくない、同じ空気を吸いたくないという差別的な理由で。
「これではノイシュタインに帰るのは明日の昼になってしまいますね」
乗って来た馬車が去っていくのを見送りながらグラウスは空を見上げた。先ほどまで空を染めていた鮮やかなオレンジ色は、既に紺青に変わりつつある。
城を出たのは午前中。そんなに長く馬車に揺られていたつもりはなかったのだが。
「大丈夫。この空は幻覚だから」
懐中時計の蓋をパチン、と閉めた青藍も執事に倣《なら》うように空を仰ぐ。
「……幻覚?」
グラウスは自分の時計を見た。午後6時半。空の色に見合った時刻と言えよう。
馬車に揺られている間に眠りでもしようものなら、まず疑うことなどない。針はそんな時刻を示している。
現に眠っていなくても疑わなかった。それなのに青藍はこの時間どおりの空を幻覚だと言う。
「ヴァンパイアには朝の日差しも昼の太陽も不要なものだからね。ここには夕暮れと夜しかないんだ」
訝《いぶか》しげに空を見上げたグラウスに、青藍は懐中時計を弄《もてあそ》びながら説明を加える。
夜だけが繰り返される世界。
こんな機械仕掛けのものにまで作用するとは……、知っていなければ、ずっと明けない夜を待つことになるのだろう。
「普通の時計は役に立たない、と」
グラウスの呟きに、青藍は鎖を外すと自らの懐中時計を差し出した。
あたり一面、城を取り囲む木々に沈んでいった夕日が残していったオレンジ色に満ち溢れている。その光が、彼の差し出す時計の蓋に反射した。
蓋に彫り込まれた両翼を広げた鳥のようにも見える紋章は彼の家のもの。特殊な細工を施してあることは、家の紋章を頂いているところから見ても明らかだ。
――あの紋章と同じ。
グラウスは気づかれないようにそっと上着のポケットを押さえる。
「交換しよう。正確な時間はお前が知っていた方がいい」
手を出さないグラウスの手を取り、その手のひらに青藍は自分の時計を握らせた。
紋章が存在を示すように鈍く光る。
鳥、か。
グラウスは握らされた懐中時計に見入った。
あの日、目の前の彼から託されたのも同じ鳥の紋章だった。
この時計は、正確な時を刻む。
正しい道を指し示してくれる。
彼が託してくれた鳥のように、自分を導いてくれるだろう。
だが。
「それでは青藍様が」
正確な時を知ることができるのはこの時計のみ。それを自分が持ってしまえば、彼は時を知る術を失う。
「帰り支度《じたく》をしておいて。9時になる前に此処《ここ》を出ないと、幻覚に囚われて戻れなくなる」
見てごらん、と青藍は城の屋根の先端を指差した。
尖った屋根の先端に黒い霧のようなものが見える。それは触手のように幾筋かに分かれ、周囲の空の色を絡め取っていく。
空の色とは端から変わっていくものではなかったか? 何故《なぜ》あんな位置から……。
「あれはヴァンパイア一族が作る夜の結界。ああして少しずつ広がっていくんだ。あの速度なら、9時頃には城全体を覆ってしまうだろうね」
ただ時間がわからなくなるだけでなく、止まった時に閉じ込められてしまう。
齢の長い魔族ならまだしも、もしただの人間がこの城に彷徨《さまよ》い入ってしまったら白骨化するまで出ることは叶わないだろう。
しかし。
そんな「何処《どこ》かの誰か」のことなどどうでもいい。
グラウスは受け取った時計を握りしめる。
「そんな危険があることを知っていて、何故《なぜ》誘いに乗ったりしたんです」
戻れない、なんて。
まさかこの城に閉じ込めるつもりで呼び出したわけではない、と思いたい。
だが青藍は言い切った。帰り支度《じたく》をしておけ、と。
それは言いかえれば、いつでも出られるように待機していろと言うことだ。楽観視などできない。
魔王がいなくなれば狩りどころではないことくらいわかっているだろうが、なんせ魔族というものは享楽的だ。したいと思ったことを優先するきらいがある。「魔王」にはいくらでも代わりがいるが、「青藍」はただひとり。そう簡単に手放してはくれないかもしれない。
そうでなくても魔族は寿命が長い分、時間の観念が薄い。積もる話が尽きなくて、と言う程度で何年も縛られる羽目になったのでは堪らない。
もし期限までに城を出ることができなければ、ノイシュタインに残してきた義妹の顔だって2度と見ることはできない。次に解放された時には彼女はもう墓の下だ。それだって推測できただろうに。
「だからさ、アーデルハイム侯爵からのお誘いじゃ断れないって言ったでしょ?」
「侯爵がなんですか! 現に今までだってこの手の誘いは断ってきたでしょうに」
不審の目のまま見下ろすと、ご主人様は委縮して目を逸《そ》らした。
「……るぅの情報が漏れた」
見下ろすこと数分、目を逸《そ》らしたままのご主人様がぽつりと漏らした。
だからか。
今まで魔族の集まりになどあまり顔を出さなかった彼が、迎えの馬車を寄越されたくらいで行く気になったのは。
グラウスは空を仰ぐ。先程より確実に暗くなっている空を。
「かわいがっていらっしゃる人間のお嬢さんも。お越し頂くことが叶わないのであればお嬢さんだけでも|是非《ぜひ》に、ってどういう意味だと思う? メイドとしてかな、義妹《いもうと》として連れて来いってことかな」
青藍の問いに、グラウスは暫《しば》し視線を宙に彷徨《さまよ》わせた。
メイドとして連れて来いと言っても、あの娘の不器用さを考えれば皿を割りに行くようなものだ。それにいくら別宅だとしても上級貴族の屋敷。メイドは足りているだろう。技量を見ると言うならそれこそどんな権限で? と聞きたい。
とは言え、義妹《いもうと》として出せるほどに行儀作法が身についているわけでもない。間違っても貴族の娘には見えない。
下手をしたら、気づかない間に食糧庫に放り込まれていることだって……いや、むしろそれを狙っているのかもしれない。連れて来なかったのは賢明な判断だと言えるだろう。
「……隠しているわけではないのですから、いつかは知られる日も来ると思いましたが」
現に町長をはじめとするノイシュタインの人々の間では、ルチナリスは「領主の妹」として定着している。
魔族がどれほど人間に関心がなかったとしても、魔王が人間の娘を育てていることくらい伝わっているだろう。今まで放置されてきたのは人間界に住まう魔族――爵位を持つ魔族が人間を使用人として手元に置くことなどさして珍しくもなかったからだ。
だがその人間を義妹《いもうと》として扱っている、というなら話は別。
青藍が上級貴族のひとりであることや魔王役を盾になかなか出て来ないことも相《あい》まって、侯爵の興味を引いてしまったに違いない。
ぎり、と奥歯が鳴った。
あの娘のせいで青藍が不都合を被《こうむ》ることになるのなら、何時《いつ》でもあの娘を破棄できるようにしておく必要がある。彼が何と言っても、こればかりは聞けない。
「俺はきっと時計なんて見てる暇ないと思うし」
そんな執事の心の内を知ってか知らでか、ご主人様は屈託なく笑う。
何も問題などない、心配することではない、と言いたげな素振りが余計に腹立たしい。
魔王役を理由に招待を断れば、それなら妹君だけでも、と来るのは目に見えている。しかし青藍がルチナリスをひとりで差し出すはずがない。
ルチナリスを魔族の表舞台に出して、やれ珍獣だ、食糧だと好奇の目に晒《さら》すぐらいなら自分が行けば済む、と、それも夜だけなどと限りを付けずに相手をすれば侯爵も気が済むだろう、と……そう思うところまで読まれている、と言うことか。
アーデルハイム侯爵という人物は、そこまで青藍のことを熟知しているのか?
油断できない。
グラウスは懐中時計を握り締める。
「……あなたは、」
『るぅの味方にもなってくれるね――?』
あの娘のために。何故《なぜ》。
「まぁ、ちょっと雑談に付き合えば満足するでしょ? だから、」
気付かないうちにまたしても睨《にら》んでいたのだろうか。青藍の言葉に弁解の色が見える。
だが。本人は最良の判断をしたつもりなのかもしれないが、こういうことは事前に相談してほしい。
――私は、それにすら値しませんか?
棘《とげ》だらけの言葉を無理やり呑み込む。
ちくちくと腹の底に痛みが落ちていく。
また営業用の笑みを浮かべて、お偉方の相手をするつもりなんだろう?
足繁《しげ》くやって来てはくだらない雑談をして帰っていくノイシュタイン城下町の町長を思い出す。
見た目の若さや魔族故《ゆえ》の整った顔立ちと、年齢不相応にしか思えない知識量。そのギャップが気に入ったのか、青藍は町長のお気に入りだ。菓子折りひとつ下げて頻繁に訪れる中年男の存在をグラウスが苦々しく思ったことなど、もう数えきれない。
そして、その町長を前にこの主《あるじ》が浮かべる微笑がまた気に入らなかったりする。ガーゴイルからはただの嫉妬《しっと》と揶揄《やゆ》されるけれど、それでも無駄に笑顔を振りまくのはやめてほしい。
あの顔を、侯爵の前ででも。
機嫌を損ねないようにするのが帰るための最短だとわかってはいるけれど。
「ですが、」
「青藍様――!!」
グラウスがさらに文句をつけようと口を開きかけた時、甲高い声が青藍を呼んだ。
声のするほうを振り返ると、柵から身を乗り出すようにしてひとりの少女が手を振っている。
「……アイリス嬢」
青藍が、わずかに緊張がとけたような顔をした。
知り合いですか? と目で問いかけてみても気づかないあたり、彼も決して表情どおりの平静を保っていたわけではないらしい。
その間にもアイリスと呼ばれた彼女は長いドレスの裾をものともせず、ひらりと柵を飛び越えてやって来る。
長い金髪は黄昏《たそがれ》の光を受けて豪奢《ごうしゃ》に輝き、アイリスの名を表わす青みがかった紫の瞳も印象的だ。ヴァンパイア一族の蝋《ろう》のような白い肌に合わせれば、その髪もその瞳も妖《あや》しい美しさを醸《かも》し出すのだろう。犠牲者が自《みずか》ら血を捧げてしまいたくなるほどに。
しかし、夕陽の赤に染まった頬と今の言動を眺めている分には普通の少女と変わらない。
ルチナリスのような、人間の、普通の少女と。
「何故《なぜ》此処《ここ》に?」
「叔父様に連れて来て頂きましたの。だってそうでもなければこちらの世界に来ることなどないでしょう?」
軽やかに駆けて来たアイリスは青藍の前で立ち止まると、つい、と右手を差し出した。
「キスは頂けませんの? 私、これでも社交界デビューは終えていましてよ?」
「……失礼」
こましゃくれた態度に、苦笑しながら青藍が彼女の手を取る。
少しわざとらしい、と思うほど恭《うやうや》しく取られた手に、アイリスは満足そうに目を細めてみせた。
「青藍様がいらっしゃると聞いて待っていましたのよ? 最初の御挨拶は私が頂きたいんですもの」
甲高い笑い声を上げながら、アイリスは青藍にまとわりつく。まとわりついていた、と思いきや、急に不快そうに顔を歪ませた。
「なんて地味な格好をしてらっしゃるの!? やっぱり衣裳係がいないから無頓着になるのかしら」
特に困ってはいないけれど、と思ってしまったのは性別の違い故《ゆえ》だろうか。話をしに来ただけなのだから殊更《ことさら》華美に装う必要もないと思っていたのだが。
目の前のふたりが内心そう思っていることなど気にもせずに、アイリスはまくしたてる。
「ああ、叔父様の服を借りるにしたって青藍様ってば細すぎるんですもの、手直しが必要だわ。でも任せて! 夜会までには間に合わせてみせますから!」
「……夜会?」
予想外の言葉に青藍とグラウスは目を見合わせた。
そんな彼らにはおかまいなしにアイリスは続ける。
「一曲目のワルツは私と踊って下さいましね。今日はお友達も呼んでいますけれど、私が最初よ? ああ、もちろん全員と踊って下さるまでは帰しませんことよ!」
夜会に出席しろとは聞いていない。催すというのだって寝耳に水。
他に招待客がいるのか? ただ会って話をする、というだけではなかったのか?
しかしここまで来て帰るわけにもいかない。
本当に……貴族様というのは自分勝手な。
アイリスに手を引っ張られるようにして門をくぐっていく青藍を、グラウスは呆れたように眺める。
しかし思えば侯爵と面と向かって歓談するよりは、不特定多数が入り混じる夜会のほうが抜け出すには好都合だろう。
預かった時計をポケットに滑り込ませ、グラウスも青藍の後を追った。