「此処《ここ》に来てはいけないと言われているでしょう?」
ふいに後ろから声をかけられた。
「……グラウス、様……?」
振り返ると、執務中なのか書類綴《バインダー》を抱えたままの執事《グラウス》がそこに立っている。
銀髪がわずかな光を弾く。ここのように真っ暗な場所では、そんな光でも目に留まりそうだ。
階下で蠢《うごめ》いている化け物たちに見つかりやしないかと、ルチナリスは視線をホールに向けた。あの中の1匹にでも見つかれば後はない。
それと同時に奇妙にも思う。
この人はこんなところでなにをしているのだろう。こんな、悪魔が普通にうろついている場所で。
人間なんて捕まったら最後、頭から食べられてしまうのに、この人は声をひそめるどころか隠れようとすらしていない。
上背があるから目立つのよ、隠れなさいよ。……とは面と向かって言える雰囲気ではないけれど。しかしこれでは灯台が突っ立っているようなものだ。まさか自分の身長が標準より上だと言うことに気づいていないとは言わせない。
「知らなければ幸せだったものを」
諌《いさ》めるような目を向け、執事は口を開いた。
「真実を知ろうとすることがいつも正しいとは限りませんよ。誰かを守るための嘘もある。あなたの行為が誰かを傷つけることもあると言うことを覚えておきなさい」
淡々と諭《さと》す喋り方はいつもと同じ。
誰かに声を聞きつけられたら、と、ひそめる様子も全くない。
……何よそれ。
此処《ここ》に来ちゃ駄目だって言われているのに来たのは悪いと思うわ。でもどんな悪魔がいるんだか知っていたほうが自衛できていいじゃない。
そりゃあ奴らに食べられちゃう危険もあったかもしれないけど、あたしはまだ見つかっていないし、奴《やつ》らが飛び掛かって来るより先に逃げ出せるように出入り口も確保しているし。
そんな言い訳が次から次へと頭の中に並ぶのは「自分ひとりじゃない、執事がいる」という安心感もあったのかもしれない。
執事だって無防備なくせに|何故《なぜ》あたしばっかり言われなきゃいけないの? と、思ったのかもしれない。
その目に執事は言葉を止めた。
かすかに開いたままの唇はまだなにか言いたげに動いたけれど、それだけだった。
「……人間の小娘とのままごと遊びも、これでおしまいですね」
彼は少しだけ遠くに視線を向けた。
人間の小娘?
何? その自分たちは違うみたいな言い方。
口を開きかけたルチナリスより先に、執事は彼女の肩に手を置いた。宥《なだ》めるため、と言うよりも彼女の動きを封じるためのようなその手の冷たさに、ルチナリスは身を|竦《すく》める。
力を込めるでもなく置かれているだけなのに動くことができない。肩から足まで一瞬のうちに凍りついてしまったようだ。
この男の手はこんなにも冷たかっただろうか。
氷を乗せられている、と言われても今なら納得してしまうかもしれない。
少し前に廊下で肩を叩かれた時は、そんなこと感じなかったのに。
執事の体で半分ほど遮られた視界の端にあの紅い目の人が見える。ホールにいる化け物たちと動くこともできない勇者一行を黙って見下ろしている。
その硝子《ガラス》細工のような横顔に、僅《わず》かに憂いた色が見えたような気がした時、ふ、と執事が小さく息を吐《は》いた。
思わず見上げると、彼もルチナリスの肩に手を置いたまま、同じようにその人を見つめている。
何時《いつ》でも化け物たちから逃げられるように様子を窺《うかが》っているのかとも思ったが、違う。
何処《どこ》か苦しげで。
何処《どこ》か切なげで。
それでいて、何処《どこ》かで見た。
この厳しい執事がこんな目をする時。……何処《どこ》だっけ。
黒い布をまとった人が、再び身を翻《ひるがえ》す。
顔に当たっていた光が、頬へ、髪へと移動していく。その黒の中で一瞬、別の色が揺れた。
「あ……!」
あれは。
あの、青い色は。
思わず発した声に、去りかけたその人がルチナリスたちのほうを見る。
布の下で紅い瞳が、大きく見開かれた。
ああ、そうだ。義兄《あに》を見る時の目だ。
背を向けて去っていく義兄《あに》を、執事はいつもこんな目で見ていた。
紅い瞳がゆるりと揺れる。
燃えるような紅玉《ルビー》が紫水晶《アメジスト》に、そして懐かしい蒼玉《サファイア》に変化していく様《さま》はまるで黄昏時《たそがれどき》の空のようで。
「……る……ぅ? どうして、」
あの冷たかった声はどうしようもなく義兄《あに》の声色に似て……。
――その時。
「油断したな魔王。勇者は剣士だけを言うのではないわ!!」
ホールのほうから鋭い声がした。
見ればガーゴイルの手を振り払ったのであろう弓使いが、上半身だけ起こして弓を構えている。弦が弾かれた直後のように小刻みに震えている。ちゃんと立ち上がることもできないくらい消耗しているのだろうに、弓使いは満足げに口元を緩ませ、それからぐらりと倒れ込む。
放たれた矢尻の先は弧を描くようにしながらも、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「……勇者のくせに、」
絞るような声がルチナリスのすぐ近くで聞こえた。庇《かば》うように抱きしめている腕はすぐ近くにいた執事のものではない。
知っている。
あたしは、この腕を知っている。
「女子供に弓射るのが勇者のすることか?」
義兄《あに》に似たその人は片手でルチナリスを庇《かば》いながら、もう片方の手で矢を掴《つか》んでいた。
掴《つか》んだ手から紅《あか》い筋が伝う。手首から滴り落ちていく。
紅《あか》いんだ。
目の前を重力のままに落ちていくものを、床に溜まっていく紅《あか》を、ルチナリスはただ見ていた。
あたしと、……人《・》|間《・》と同じ色。
「貴様の相手は俺なんだろう?」
「そうと、も。だがその女も悪魔の仲間だ。城まで誘導して、それも全部罠だったってわけだ! 殺してやる! 悪魔に組する者は全て! その女も、あのババアも、いや、町の奴《やつ》ら全部、」
弓使いが全て言い終わるより早く、彼は矢を掴《つか》んでいた手を握り込んだ。
硬い音と共に羽根のついた軸が――矢尻のない軸だけが――床に落ちた。
カラン、と矢が床で音を立てたのと同時にその手から炎が揺らめいた。炎は弓使いに向かって躍り出る。渦を巻き、身をくねらせる様はまるで深紅の竜のよう。
「……そうか」
その竜によって描き出された渦は、弓使いと入り口付近にいた他のふたりをも巻き込み、瞬く間に数段下に広がるホールそのものを呑み込んだ。
ルチナリスはその光景に目を疑った。
今のなに?
魔法?
この人が使ったの?
暗闇に紅く炎の花弁《はなびら》が舞う。
それはとても幻想的で、……とても忌まわしい。
これは、魔法、だ。
勇者と呼ばれて旅をする人たちの中には稀《まれ》に魔法を使える人がいるけれど、彼らは杖などの媒体と、導き出すための呪文を用いる。間違っても人の手から直接出したりはしない。
でも、それならこの人は。
だってこの腕は。
悪魔と呼ばれて、化け物に指示を出して、矢を手で受け止めて、魔法を使って、勇者一行を火だるまにしたこの人は……。
「相容れないものだな。きっと、永遠に」
彼は溜息をつくと腕を緩め、ルチナリスを離した。
離れてしまった体温に、つい今しがたのことが夢だったような、目の前の人が「何処《どこ》かで見たことのある顔をしただけの他人」でしかないような、そんな不安を覚える。
この人は。
忘れては駄目。この人は――。
「青……藍、様……?」
しかし彼は答えるでもなく背を向けた。不快もあらわな目で周囲を見回す。
「誰だ! るぅをここに入れたのは」
「いやぁ、るぅチャン足速くて」
声に呼応するように、未《いま》だ煙が充満しているホールの端からガーゴイルが1匹顔を出す。
その声には聞き覚えがある。
あたしに何度も話しかけてきた、あの姿の見えない声。
だとしたら、あれが今まで話しかけて来ていたの?
あたしの隣にいたの?
腕からは早々に解放されたもののその場に突っ立ったまま、ルチナリスはそんなことを思う。
「足が速かろうと止めるのがお前の仕事だ」
彼は舌打ちをすると矢を握っていた手のひらを広げた。折れた矢尻が突き刺さっている。
息を呑むルチナリスの前で、彼は無言のまま矢を引き抜いた。
「ひ……!」
痛みはないのだろうか。
その顔は踊り場で勇者を見下ろしていた時と同じで、何の感情も見えない。
お兄ちゃんよね?
ルチナリスは目の前の人の左手を凝視する。
矢尻とともに噴き出した血が、その左手を紅《あか》く染めていく。先ほど滴《したた》っていた時とは比べ物にならない速さで。
お兄ちゃん、なのよね――?
紅《あか》い、綺麗な目だと思った。
異形の化け物に指示を出していたけれど、この人は紅《あか》い血が流れているんだとも思った。
だ、けど。
噴き出す血がどくどくとその手を染めていく。
紅《あか》く。
紅《あか》く。
その色は、ルチナリスの視界と心をも浸食していく。
『人間狩りだ。お前は逃げなさい』
そう言った養父の顔が、
『逃げ、て……』
と呟きながら倒れていった女性の影が、ルチナリスの脳裏にフラッシュバックのようによみがえる。よみがえって、そのまま紅《あか》に呑み込まれていく。
「いやあああああああ!!」
悲鳴しか出ないルチナリスを執事が押し退けた。
紅に染まった手を掴み、ハンカチを取り出す。
その白い布も、執事の白い手袋も、見る間に紅く染まっていく。
「無謀にもほどがあります!!」
紅《あか》く染まった手にハンカチを巻きつけながら、執事がその人の顔を覗き込むように身を屈める。
正面から見据えられて、初めてその人の顔に表情が浮かぶ。怯えたような、戸惑ったような、親に叱られた子供のような、とにかく今までの無表情からは想像もできない表情が。
それと同時に、さっきまであたりを包んでいた重圧感があっという間に霧散していく。
「……だってこんなの刺さってたら邪魔じゃ、」
「そう言う問題じゃありません! あなたはご自分を軽く考えすぎなんです!! 何処《どこ》の世界にこんな人間の小娘の盾になる魔王がいますか!!」
「だってあれは向こうが悪いよ!」
ものすごく見たことのある光景だと思うのはどうしてだろう。
魔王と呼ばれたその人は、あたしを抱えたまま、頭から執事に怒られていた。