勇者は山の中腹にそびえ立つ古城を見上げていた。
鬱蒼《うっそう》と茂る木々のさらに向こうだというのに、その存在感と威圧感は半端ない。
いや、これはきっと自分の心の持ちように拠《よ》るところが大きいのだろう。なんせあの城は「悪魔の城」。全人類の敵・悪魔の親玉――つまり魔王が住んでいる。
それを知ったのは初めて冒険者として登録した冒険者組合のおネェさんからだった。
いかにも異世界RPGチックな、上半身はおっ〇いを隠しているだけの「それで外歩くのかよ。腹出してたら冷えるぞ」とツッコミを入れたくなるような衣装のおネェさん。はっきり言って受付事務の格好じゃない。
お〇ぱいを隠している布のサイズが小さいのはおっ〇いを大きく見せるためなのか……いや、おっぱ〇は大きさじゃない。揉《も》んだ時の感度と触り心地が……と初対面ながら持論を熱く語ってしまいたくなるのを我慢したのは我ながら紳士と言えるだろう。
ああ、受付嬢のお〇ぱいの話は置いといて。
その組合の壁一面に貼られていた難易度別冒険MAPの最上段「マスターランク」に貼られていたのがこの「悪魔の城」だ。
ラスボスである魔王の居城。未《いま》だに制覇した冒険者はいない。
その城に挑戦する冒険者は総じて「勇者」と呼ばれるらしい。
勇者、素晴らしい響きじゃないか。いかにも世界を救う救世主といった感じで。
昨今《さっこん》は別世界から召喚され、あれよあれよとおだてあげられて勇者の道を歩むという、成り立ちがどうにも後ろ向きな勇者が多いらしいが俺様は違う。
村人Aから体を鍛え、何処《どこ》ぞから召喚されて来た「モブ気質で引き籠《こも》りニートだったんだけど|何故《なぜ》か召喚されてからは女の子にモテモテで、どうしてだか知らないけれど剣も魔法も最強」な自称勇者どもを実力でねじ伏せ、王の謁見をもぎ取った。
旅の途中で料理人とマッパー《地図作成士》と剣士と狙撃手、それに医師と大工と学者という一見烏合《うごう》の衆《しゅう》にしか見えない仲間も集めた。何故《なぜ》この面子《メンツ》がいいのか知らないが、最強を目指すには必要であるらしい。
その全てをピチピチのおネェちゃんで揃えたのはただ単に趣味だが、召喚されて来た「ニートのくせに最強」な自称勇者どもはひとり残らずおネェちゃんで固めていたから今の流行《はや》りなのだろう。女どもとは今のところは仕事の話しかしていないが、いつかは打ち解けて恋心を抱いてくれるに違いない。
なんせ「ニート(以下略)」な連中がモテまくっていたのだ。それより強い俺様がモテないはずがない!
いざ!
故郷に錦《にしき》を飾るため! 勇者の頂点に俺はなる!
勇者は鼻息も荒く、悪魔の城を見上げた。
「去れ」
それなのに。
俺様《勇者》は床に突っ伏している。体勢からいって炎天下のカエルみたいなガニ股で倒れているようだが、カッコよく倒れ直す気力も体力も残ってはいない。
鎧が重い。ラスボス用に、と数時間前に奮発して買ったミスリル銀のフルアーマーは、今やその重みで床に貼りついている。
何故《なぜ》だ。買った時はこんなに重くなかったのに。
ああ、そうだ。きっと床全体が磁石でできているからに違いない。だって金属だから。金属は磁石にくっつくものだから。
畜生! ラスボスのくせにこんな小細工を! 正々堂々と戦えば負けるからって!
この鎧を勧めてきた防具屋はこのことを知らなかったのだろうか。
いや、城下町で何十年も営んでいれば近場ダンジョンの攻略方法など知っているのが当たり前だ。
俺様も村人時代には「あの洞窟は途中で水没するから水中装備を持って行ったほうがいいですよ」という台詞《セリフ》を伝える担当だった。
それじゃ何か? あの防具屋は悪魔の手先だったのか?
いや、防具屋だけじゃない。武器屋も小間物屋も宿屋も、だいたい悪魔の城の目と鼻の先に住んでいるというのに何も被害がないのがおかしい。
「俺は……騙されたのか」
町の住人などNPCだと思って油断した。主人公に益《えき》になる情報を教え、金やアイテムを無償で提供してくれて、場合によっては仲間になる便利な連中だと思いこんでいたのが仇《あだ》になった。
「あー、よくいるんすよねぇ。実力のなさを他人のせいにする奴~~」
頭の上から降ってきた声に、勇者は視線だけを向けた。
城に入る時に正門にずらりと並んでいた石像と同じ姿形をした異形の化け物が、剣を抱えたまま見下ろしていた。
「ああ! それは俺の!」
何と言うことだ! 化け物が手にしているのは聖剣ジーザスフリード。
冒険者になりたての頃、ビギナーランクの「夏休み中の学校花壇の水やり」というくっそつまらない依頼を何度もこなして貯めた金で買った俺様の愛剣ではないか!
武器屋からは「まず先に装備品を揃えたほうがよくないですか?」なんて嫌味を言われ、低レベル冒険者時代に何度も「その剣売ってご飯代にしようよ」という女どもの誘惑から守り切った命より大事な……。
「刃を研ぐのは専門家に頼んだほうがいいっすよ。すっげぇピカピカに磨いてあるけど、こんな切れ味じゃマグロの刺身作ったって主婦の包丁に軍配が上がるって」
「そんなことはどうでもいい! 返せ!」
「はいはい。威勢だけはいいっすねぇ」
化け物は剣を抱えたまま、次々と床に散らばっている俺たちの武器を拾い上げていく。
「それはあたしのMAP!」
違うところから仲間の悲鳴が上がった。
あれはマッパー《地図作成士》のカリンの声。俺様が冒険者になる時に無理に頼んで仲間になってもらった幼馴染みの声だ。
心密かにカリンに惚れていた俺様は、彼女が就職先を迷っていると聞いて冒険に誘った。
長い旅路で仲間の男女がいい仲になるのはよくあること。武器も魔法も使えない彼女ははっきり言って連れて行くだけ無駄なのだが、俺様の目的は彼女のマッピング能力などではないからどうでもよかった。
彼女も旅をしていれば将来有望そうな勇者に出会えるかもしれない、という思惑があったから誘いに乗ったのだと聞かされたのは、ほんの数日前。料理人のリドが教えてくれた。
そのリドも何処《どこ》かに転がっているのだろう。料理の腕は中の上だが美乳だった。彼女謹製のおっ〇いパンの出来と言ったら、女どもが目の前にいなければ頬ずりしてパフパフしてしまいたいくらいに柔らかくて……いや、それもどうでもいい。
「待て! カリンに手を出すな! カリンだけじゃない、この女たちはみんな……」
俺様は残った力を振り絞って立ち上がる。
女たちはきっと今頃、俺様を羨望《せんぼう》の眼差しで見上げていることだろう。
ピンチから「|何処《どこ》にそんな力が!」なんて謎パワーで立ち上がり、敵を完膚《かんぷ》なきまで叩き潰すのはヒーローもののセオリー。だったら最初っからその謎パワーを使えよ、と俺様も村人時代には思っていたが、今ならわかる。
女は、ピンチから助けだされるのに弱いのだ。
自分を命がけで守ってもらいたいものなのだ。
だから世の勇者は1度はピンチに陥《おちい》ると相場が決まっているのだ!
「みんな! 俺のもんだ!!」
くらえ! 必殺……と手を握りかけて、俺様は手ぶらであることに気づく。
そうだ。聖剣ジーザスフリードは敵の手に落ちていた。
ならば、ならば、素手でもいい。主人公パワーでその辺はどうとでもなる! はず!
べしゃり。
その数秒後、勇者は床に這いつくばっていた。
畜生! 床が磁石だったってことを忘れていた! なんて卑怯な! この床がただの床なら今頃俺はカッコよく立ち上がって……っ!
「銀は磁石にくっつかないっすよ?」
頭上から、またしてもあの異形のものであるらしい声が降る。
「そんな心配しなくたって、後でちゃあんと返してあげるっすから」
同情か?
敵に情けをかけられるなど勇者の俺のプライドががががが。
「……煩《うるさ》い」
化け物とは違う別の声が響いた。
しん、と静まり返る。
その中を靴音がする。誰かが近付いてくる。
靴音が止んだ。
勇者は顔を上げた。
自分を冷ややかな眼差しで見下ろしているのは、戦闘の初《しょ》っ端《ぱな》から火の雨を降らせてきた黒衣の魔王、その人だった。
「うっそ、イケメン!」
カリンが小さく叫んだ。
ああ、カリン。きみはこんな悪魔がいいというのか。俺様というものがありながら……とよくよく見れば、黒いフードの下にあるのは端正な顔立ちの美丈夫。白い肌と切れ長の紅《あか》い瞳は女と偽っても通用するだろう。
うん。薄暗い酒場でお酌してくれたら、有り金全部胸元にねじ込んでしまいそうだ。
これが、魔王?
何処《どこ》ぞのホストクラブにでもいそうな顔じゃないか。こいつが熊王カイザーベアーや紅蓮の聖剣士ウィンドショットを再起不能にした、と、そう言うのか!?
「……恥ずかしい名前っすね」
あの異形の失笑が聞こえる。
ああ、そうだとも。俺だって厨二《ちゅうに》病全開の恥ずかしい異名だと思ったさ。
でも名前はともかく奴らが群を抜いて強かったのも事実。そして彼らがこのマスターランク「悪魔の城」の攻略に失敗してプライドをずたずたに引き裂かれ、剣を置き、田舎に引き籠《こも》ってしまったことも事実。
奴らをそうさせるなど魔王というのはどれ程のものかと思ったら、まさかまさかの「綺麗なお兄《姉》さん」。はっきり言おう。出会ったのが此処《ここ》でなければ大好きだ。
いや。
この顔、何処《どこ》かで見なかったか? 何処《どこ》か、つい最近。
ノイシュタインという|此処《ここ》の近くにある田舎町に到着し、女どもを引き連れて町に入って。人々にそれとなく悪魔の城の情報を聞いて回って。
それで……。
「忘れろ。お前たちは何も見なかった。ただ、負けた。それだけだ」
魔王の双眸《そうぼう》が紅く光る。
駄目だ。この目は見てはいけない。俺様《勇者》は必死に目を閉じる。視界が暗闇に閉ざされる。
そうだ。この顔は――
暗闇の中で、何処《どこ》からともなく音が近づいてくる。
砂が流れるような、いや、これは波の音だ。
そう言えばあの町は海が近かった。そのせい……違う。此処《ここ》は悪魔の城。海どころか山の中腹にある城。津波が来たって、この城まで波が寄せることはない。
それじゃ。
それじゃ、この音は。
暗闇の中を近づいてくる音は、あっという間に勇者を呑み込んだ。
「おや、悪魔の城の攻略に失敗なさったんだね」
声が聞こえる。
勇者が薄目を開くと、木漏れ日の中で自分を見下ろしている中年男が視界に入った。肩から薪《たきぎ》が無造作に詰められた籠《かご》を背負《せお》っている。木こりだろう。
きっと此処《ここ》で敗退した冒険者に話しかける役割を担っているに違いない。
身を起こすと、同じようにぼんやりとあたりを見回しているカリンの姿があった。
が、他の仲間は誰もいない。
「あれ? みんなは……」
「他のおネェちゃんたちなら10分くらい前に町に下りて行ったよ。俺のものとか何時《いつ》の間にそうなったんだよ。テメェの脳内超キメェ、って言ってたなぁ」
なんと言うことだ。
女たちはあっさりと俺を見限ったのか!? 長い付き合いだったのに薄情すぎないか!?
「ま、次は頑張んな」
木こりはそう言ってバシバシと俺様の肩を叩く。
怪力だ。この力、熊王カイザーベアーに匹敵する。彼が仲間だったなら、もしかしたら勝てたかもしれない。
そうだ。次はもっと強い防具を買って、回復薬も大量に持って。仲間もおネェちゃんじゃなくって剣士や魔法使いのような定番を揃えて。武器も、
「そうだ! 武器は! 俺の聖剣ジーザスフリードは!?」
「……此処《ここ》」
カリンがのろのろと剣を拾い上げる。彼女のMAP帳も無事らしい。
『そんな心配しなくたって、後でちゃあんと返してあげるっすから』
耳の奥でそんなガサガサしたダミ声がよみがえった。
そうだ。俺たちは負けたのだ。
悪魔の城に。
魔王に。
そして命も取られないまま武器も揃えて返されて。
それって。
「ねぇ、これからどうするの?」
「そ、そうだな。これからは」
ざっくりと魔王を倒して王から褒美を貰って、そんな俺にカリンが惚れ直すという人生設計だったのに。
いや、リドをはじめとする他の女たちが去っても彼女だけは残っていた、ということは少しは脈があると思っていいんじゃないのか!? この長旅で俺様に対する恋心が芽生えても何らおかしくはない。
そうだ。他の女とは違う。
カリンは俺の幼馴染みだったわけで。
幼馴染みとゴールインするカップルは結構な確率でいるわけで。
「カリ、」
「やあ、そこのお嬢さん。良かったら僕たちと冒険の旅に出ないかい?」
何てタイミングだろう。
こんな人気《ひとけ》のないド田舎の山道を、光り輝く鎧に身を包んだ冒険者の一行が通りかかるなど、どう考えたってあり得ない!
しかもその冒険者は、よくよく見れば平凡な顔をしているにもかかわらずパッと見、イケメンに見える。
これはオーラのせいだろうか。
それとも何故《なぜ》か乗っている白馬のせいだろうか。
話しかけて来た先頭の剣士を見れば、襟元を飾っているのはマエストロランクの認定バッヂ。それも8個。この地方だけではなく、世界中に散らばる冒険者組合に登録して、それぞれからマエストロランクと認められた証だ。
ちなみにマエストロランクとはマスターランクのすぐ下。俺様も1個だけはバッヂを持っている。
「ちょうど召喚されたばかりでこの世界には疎《うと》いんだ。そのMAP帳からするにマッパー《地図作成士》だね? 優秀なマッパー《地図作成士》がいてくれると助かるんだが」
「そんなァ、優秀だなんてェ」
冒険者の声に、カリンは俺の前では1度も見せたことのないようなくねくねした動きを見せる。声も裏返っている。
どうした? 腹でも壊したのか?
悪魔の城でトイレだけ借りることはできるのだろうか。
「カ、」
「じゃ、あたしも行くわ。じゃあねー!」
腹痛を心配されているとは露知らず、彼女は剣士の馬にひらりと乗ると、笑い声と共に走り去って行ってしまった。
「カリ、ン……?」
後に残されたのはかつて勇者と呼ばれたこともある男ただひとり。
と、木こり。
「あれって今|流行《はや》りのニートだったんだけど云々《うんぬん》っていう勇者だよな。やっぱ意味不明に女にモテるって噂は本当だったんだな」
で、ニートってなんだ? と木こりのオッサンに聞かれたが俺様だって知らない。
そういう職業じゃないのか?
もしかしてそのニートとやらになってから勇者を目指さなかったから負けたのか?
ニートじゃなかったからカリンも女たちも去ってしまったのか?
「ま、気ぃ落とすな。女は他にもいるからよ」
「はあ」
木こりはまたしても肩を力任せに叩いてくる。
いい加減、肩が脱臼《だっきゅう》しそうだ。このまま叩かれ続けていれば剣士生命どころか村に帰って鍬《くわ》を持つのも危《あや》うい。
「で、魔王ってどんなだったんだ? やっぱデケェのか? なーんか誰に聞いても覚えてねぇって、」
木こりのオッサンは興味津々に聞いてくる。
そうやって尋ねるのも台詞《セリフ》のうちなのか、単にオッサンの個人的興味なのかは知らない。
俺様は魔王を見た。
見た。けれど。
ザザ。
波の音がする。
「……思い……だせねぇ……」
「兄ちゃんもかよ!」
あの波に全て流されてしまった。この城に入ってから、出るまでの記憶を。
勇者はそびえ立つ城を見上げた。
「負けた、んだよな」
負けた。
だが城の中がどうなっていた、とか敵の数は、とか、まして魔王の顔なんて全く記憶に残っていない。
ただ、これだけは言える。どうしてだかはわからないけれど心が叫べと言っている。
「俺、イケメンは嫌いだ!」
山道に、ただ勇者の叫びだけがいつまでもこだました。