春。
ポカポカと暖かく、蝶が舞い、花が咲き乱れる。そんな季節。
つい先週まで凍りつくような風が吹いていたとは思えない。そんな気候は人をも浮かれさせるようで。
ルチナリスが窓を磨いていると、ボロボロになった鎧を数個、門の外に投げ捨てているガーゴイルたちの姿が見えた。
あぁ、また勇者様が来たのね。と、鎧を足蹴《あしげ》にしている彼らを見ながら思う。
今日はもう2組、ああして捨てられている。
昨日も一昨日も――春の陽気は勇者をも浮き足立たせるらしい。暖かくなったからと一斉に芽吹く新芽のように、と言えば文学的にも聞こえるが、まるで流行《はや》りに乗り遅れるのを恐れて我先にと同じものを買い求める女学生のようでもある。……そう言っては女学生に失礼だろうか。
重くて冷たい鎧を着込んでいるのだから、勇者だって寒風吹き荒ぶ冬より春のほうがいい、というのはわからなくもないけれど。
少し前までは閑古鳥が鳴いていたこの「悪魔の城」も今は満員御礼。
裏の顔と言うか表の顔と言うか、魔王をでもある義兄《あに》も当分は目が回るほど忙しいだろう。思い返せばこの季節、彼とまともに会った記憶がない。
ルチナリスはそんな感傷的な気分で眼下を見下ろす。
春は嫌いではないが、嫌いかもしれない。
「あ~いたいた、る~ぅぅ~~」
そこに春の日差しよりさらにホワホワと間延びした声が聞こえて来た。
聞いただけで脱力しそうなその声のほうを見ると、今まさに当分会えないと思っていたはずの人がヒラヒラと手を振っている。
「久しぶり~」
さっき捨てられていた勇者を叩き潰してきた帰りなのだろうか。黒いベストとリボンタイが心なしか埃《ほこり》っぽい。そのすぐ後ろに義兄《あに》の上着を手にした執事の姿も見える。
「久しぶりって昨日も会ったでしょう」
「そう言うけど、昨日だってその前だってすれ違っただけだよ? 時間に換算すると50時間で2分。だけ! だよ?」
執事の呆れたような口調に、義兄《あに》はふくれた顔で口を尖らせる。いつもなら屁理屈を言うんじゃありません! とばかりに上から責められるところだが、今日の執事は少し目を細めて微笑《ほほえ》むだけだ。
この男がこんな顔をすると下心でもあるのではないかと邪推したくなるのだが……春の陽気のせいだ、ということにしておこう。深く追及すると蛇が出てくる気がする。
「あ、それよりさ、お花見に行かない?」
義兄《あに》は嬉しそうに口元で手を合わせ、さらに小首を傾げてみせる。後ろで結んだ髪がさらりと流れる。
かわいい。男のくせに。これも春の陽気のせ……いやいや、彼は年中こんな感じ。
こういう仕草を「わかっていて」やってくるのが義兄《あに》の悪いところだ。魔王というのは決して「顔が怖い」とか「ガタイが良すぎる」とか「鎧がゴツイ」とかいうビジュアル面ばかりを指すわけではない。義兄《あに》は見た目だけなら良家の坊ちゃんでしかないけれど、あたしは、他の誰よりも魔王だと思っている。腹黒さ、と言うか、本人にその気がないというのが1番厄介だ。
この顔には女のあたしでもノックアウトしかねないのだから、後ろに控えている執事など何十回と屈しているのではないだろうか。今だって素知らぬ顔をしているけれど、ふたりきりになったら……いや。薔薇が飛びそうな光景は決して想像するまい。
「大《お》っきい桜の木があるんだ」
そんな義妹《いもうと》の心、義兄《あに》知らず。
目を輝かせてそんなことを言った彼は、くるんと振り返ると「ねー」と執事に目配せしてみせた。
一瞬目を点にした執事が、困ったように頬を緩《ゆる》ませる。
嗚呼《ああ》! 正真正銘悪魔だこの人。
何ですかそのアイコンタクトは! あなたには男としてのプライドというものはないのですか!?
と言うか、義妹《いもうと》の前だというのに妙に距離近くないですかお二方!
だがしかし。そんな日常茶飯事にいちいち目くじらを立ててはいられない。
お花見?
ルチナリスは聞き慣れない言葉を口の中で反芻《はんすう》した。
お花見というと桜を見ながら宴会をする、異国の春の風物詩でもあるアレのことだろうか。
話には聞いたことがあるが、桜というものには生まれてこのかた縁がない。
ミバ村やノイシュタインで生えているところを見たことがない、というばかりではなく、この国、もしくはこの大陸には存在しないものだと思っていた。此処《城》に桜があるということ自体、初耳だったりする。
「裏のほうだからちょっと歩くけど」
「歩くのは大丈夫です。毎日働いて鍛えてますから!」
それは本当に桜なのだろうか。もしかして全く別の木なのではないだろうか。との疑問も首をもたげるが、考えてみれば「お花見」とは「花を見る」行為なわけで、花の種類まで限定するのは野暮というもの。
この時期に義兄《あに》と何処《どこ》かへ出かけられるのなら(おまけ《執事》がついてくるのは必至だけれども)花なんて何でもいい。No problem《ノープロブレム》、Welcome《ウエルカム》ですお兄様。
と、自分のことはさておき。
心配なのはむしろ義兄《あに》だろう。こうひっきりなしに勇者が沸いて来る現状で、花見をする暇などあるのだろうか。
「大丈夫だよ。2、3時間なら待っててくれるでしょ?」
だが。
綿菓子のような笑顔のまま、義兄《あに》は義妹《ルチナリス》の危惧《きぐ》を軽々と蹴り飛ばして下さった。
少し前にも長期休業していたのにこの言いよう。10年もやっていると、こうもいい加減になるのだろうか。
魔王が留守だからと言って、勇者が大人しく帰りを待っているはずがない。彼らだって遠路遥々、武器と体のコンディションを整えて、「この日!」と決めてやって来るのだ。彼らが魔界に帰っていた数日間も、正門に休業の貼り紙がしてあるにもかかわらず侵入しようとする猛者《もさ》はいくらでもいた。
中からもおいそれと出ていけないほど強力な結界を張って行ったのだとしても、それでもあたしは生きた心地すらしなかったのだ。
「門を閉めて、罠を多めに仕掛けておけば、ガーゴイルたちが相手してる間に戻って来られますよ。そう遠い場所でもありませんし」
いつもなら魔王の業務に穴をあけるわけにはいかない、と言ってくる執事までもが義兄《あに》に同調する。
今日の執事は何処《どこ》かおかしい。何をやっても許してくれそうなこの寛大《かんだい》さは何だ? これも春の陽気のせ……いや! 長年連れ添いすぎて義兄《あに》の適当さが感染《うつ》ってきただけに違いない!
これはマズい。暴走する義兄《あに》を執事が止めないとなると誰が止めればいいのだ。
あたしだ。
嗚呼《ああ》思い出すオルファーナの悪夢!
あたしに暴走する義兄《あに》を止めるなんて無理無理無理無理!
まぁそれは置いといて。
ガーゴイルたちがいると言っても、彼らは所詮《しょせん》、前座。
今まではデキる勇者がたまたま来なかったから無事だったけれど、この気の緩《ゆる》んだ数時間の間に史上稀《まれ》にみる超強力なハイパワー勇者が来たらどうするのよ。そしてそういう大穴的な奴《やつ》ほど、こういう時に出て来る率が上がるのよ。そうよ、だから大穴なのよ。本命でも対抗でもなく!
「い、いっそのこと夜のほうがよくないですか?」
営業時間外に強行突破しようとする勇者が多いとは言え、やはり大半の勇者は営業時間内に来る。つまりは営業時間外のほうが多少留守にしてもどうにかなる。
通常業務をこなした上で出歩くのは疲れるかもしれないけれど、やはり魔王は城にいるもの。それに、世のお父さんたちだって、宴会は仕事が終わった後の夜、って相場が決まっているじゃない。
ルチナリスは放っておくと勇者が来ていようがお構いなしに花見を強行しそうなふたりに目で訴える。
しかしその意見はあっさり覆《くつが》された。
「ルチナリスを連れて夜桜ってわけにはいきません」
言うに事欠いてあたしをダシにしてくるとは!
何だ? 子供は18時以降は遊んじゃいけませんって遊戯施設の法律であったような気がするけれど、悪魔の城も含まれるわけ!?
だが、思い返せば勇者の中に子供はいない。
知らなかった、悪魔退治にも年齢制限があったなん……いや違う。おかしいでしょ、法律を守る悪魔って。
「で、でもね。遊戯施設だって保護者がついていれば18時以降も入っていいのよ、子供」
こんな時ばかり自分を子供扱いするのも癪《しゃく》に障《さわ》るが仕方ない。
昔から「子供」というのがルチナリスだけだったからか、彼らはルチナリスを子供扱いし過ぎるきらいがある。
きっと種族の違いというものもあるのだろう。魔族の寿命からすれば16歳はまだまだ子供。それでもその歳で(もしかするとそれよりずっと若く)社交界デビューする者もいるのだから、大人扱いしてくれたっていいと思うのだが。
あれか? やっぱりおっ〇いが小さいとか、そういう見た目から!?
そんな頭の中を見透かされたのか、執事が鼻で笑う。
「大人の女性をひとり、夜の山に連れ込むはどうかと思いますけどねぇ」
こんな時だけ大人扱いすんじゃねぇ!
いや、日々主張しているのは自分だけれども! でも都合のいい時にだけけ大人扱いするのはズルい!
と言うか、子供でも大人でも、結局は夜中に連れ回す気はないのだろう。
真面目すぎる。魔族ってもっと背徳的な感じがするのに、何この健康優良児家庭みたいなノリは。
「大丈夫っすよー。俺らががっちりガードしやすから、夜の山でも地獄の底でも!」
いきなりルチナリスの横からガーゴイルが2匹顔を出した。噂話と騒ぐことが大好きな彼らは目を爛々《らんらん》と輝かせている。
「他の奴《やつ》らには言わないっすからー!」
揉み手でもしそうな勢いで執事に迫っている。義兄《あに》ではなく執事に訴えているあたり、この城内の真の序列を見る思いだ。彼らの口が軽いことはこの10年で立証されているが、それでも、今回ばかりは黙っている気満々なのが見て取れる。
本当に夜の山や地獄の底にガーゴイルが付いて来た日には恐怖が倍増どころでは済まないので、それだけは是非《ぜひ》ともお断りしたいところだけれども。
「あー。そういうこと言っちゃうんだー。まぁ本来ならぁ? 情報は共有しないといけないっすからぁ? これこれこういうことがあるんすよーって他の連中にも教えないといけないっすけどー」
「そうっすよねぇ。るぅチャンが行方不明になったって騒ぐかもしれねぇし、勇者が来てるのに坊《ぼん》がいないんじゃ白旗上げちゃったりするかもぉ」
「酷い話っすよねぇ。坊《ぼん》が来ることを信じて戦ってるってぇのに、当の魔王様は何も知らずに宴会しててさ。みぃんな裏切られたって心に刻んで死んでいくっすよ……」
脅す気かこいつらは!
絶句するルチナリスの横で、執事は溜息交じりに首を振った。
「仕方がありません。しかしあなたたちがついて来るなら昼間で決定ですね」
「そうですね!」
ルチナリスも即座に同調する。執事と意見が合うなんてこの10年で初めての以心伝心、初体験。いや、初体験♡っていったってエロい要素はひとつもないわよ、絶対に!
だってほら、これは誰だって同じことを思うって。こいつらと夜中に山で飲食だなんて、肝試し以外のなにものでもないじゃない!
「るぅチャン……初体験だなんてまたエッチなこと考えてるっすね……」
不審げな口調と視線に、ルチナリスははた、と我に返った。
そうだ。ガーゴイルたちは他人の心が読めたんだった。ってことは何? あたしの淡い恋心とか全部ダダ洩れってこと!? いやん恥ずかしい。
「聞いてるほうが恥ずかしいっすよ」
「また何かいかがわしい妄想でもしているんですか?」
「あー聞いて下さいよー。るぅチャンってばグラウス様と初体験がナントカ、」
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!」
ルチナリスは慌ててガーゴイルの口を両手で塞いだ。
冗談ではない。あたしはエロ妄想までしてないでしょ! それも執事とだなんて、誤解を招く言い方で好き勝手なこと吹聴《ふいちょう》するんじゃないわよこんな場所で!!
ルチナリス|塞《ふさ》ぎながらも、ずっと動きのない義兄《あに》に目を向ける。
嗚呼《ああ》。案の定、微笑《ほほえ》ましいものでも見るような顔をしている!
あたしとガーゴイルが喧嘩するくらい仲がいいだとか、執事とラブラブだとか、そんなことを思ってやしないでしょうね? あたしはまだ人生捨ててないわよ!?
そんなガーゴイルは、ふいに真顔になると義兄《あに》を振り返った。
「あ、そうそう。勇者が来てたっす」
「そう言うことは先に言え」
義兄《あに》はふわっふわの笑顔をあっさり引っ込めると踵《きびす》を返す。
この10年義兄《あに》を見てきたが、ONとOFFの切り替えが素晴らしすぎる。いいところの坊ちゃん然とした義兄《あに》がいきなり魔王様に進化しても何とも思わなくなったあたり、あたしもこの生活に慣れたのだろう。だんだんと人間に戻れなくなっていっている気がしなくもない。
まあ……それもともかく。
「だ、大丈夫なんですか? ものすごく忙しそうなんですけど」
ガーゴイルたちに急かされて遠ざかっていく義兄《あに》の背中を見送りながら、ルチナリスは同じように去りかけた執事を見た。
ほとんど休む暇もない。これで本当にお花見なんてできるのだろうか。
「暇が出来たらすぐに出かけられるように準備しておけば大丈夫でしょう。明日11時くらいの予定で待機していて下さいね」
執事は笑顔で言うけれど。
その執事も去って行ってしまい、ルチナリスはまたひとりきり。
毎度のことながらあの人たちは嵐のようだ。いきなりやって来て大騒ぎをして去っていく。
義兄《あに》の姿はもう見えない。それどころか、既《すで》に遠くで悲鳴が聞こえてくる。
気候が良くなったからと言って湧いてくる勇者の数が尋常ではないから、回転率を上げるために初っ端から必殺技を出しているのだろう。何年もかけてレベルを上げて来た勇者からしたら、やっとの思いで辿り着いたラスボス戦がものの数分とか、余韻に浸る間もなくて気の毒だとしか言いようがない。
が、そうでもしないと花見の時間は取れない。勇者様、あたしのために泣いて。
ルチナリスは廊下の端に突っ立ったまま、見ず知らずの勇者に手を合わせた。