気まずい雰囲気でふたりとも黙りこくったまま歩くこと数分。
「着きましたよ」
藪《やぶ》の開けた先に広がっていたのは1本の桜の木。
樹齢は100年は経《た》っているだろうか。地面に付きそうなほど伸びた枝に薄桃色の花が咲きこぼれている。
「う……わぁ」
口も目も開けて見上げる横顔に、こちらも思わず笑みが零《こぼ》れた。
よかった。これで先ほどまでのイヤン♡な雰囲気は帳消しになってくれただろうか。いや、あの雰囲気のままのほうが、この10年進展の「し」の字もなかった関係も一足飛びに駆け上がったかもしれないのだが。
我ながらチキンなのか紳士なのか、これだから進展しないのだと嗤《わら》われても何も言えない。
でもいいんです。
グラウスは木の陰に隠しておいた敷物《シート》を広げる。
酒器《グラス》とお酒を並べている間も、その人はずっと花を見上げていて。
「こういうのを見るのは初めてでしょう?」
「うん」
「ほら、此処《ここ》から見ると降ってくるようですよ」
立ち止まったまま動かない人の手を引いて、敷物《シート》の上に座らせて。
その差し向かいに自分も腰を下ろす。
「凄いねぇ」
「気に入って頂けましたか?」
「うん」
あんまり嬉しそうに笑うから、かえって胸が苦しい。
あの月の夜に私を上から見下ろしたあなたは今と同じ顔をした。なのに、私だけが覚えていて、あなたは欠片《かけら》ほども覚えていなくて。
「こんなに綺麗なの初めて見た」
私の髪を引っ張って、綺麗だって……そう、言ったのに。
花の陰から月が覗《のぞ》く。
私を、私たちを見守ってくれている。
「今度はみんなで来ようよ」
「……今度は、ね」
こんな時まであなたの心の中に居座るあの娘が憎くもあるけれど。
でも今夜は。
あなたを、独り占めしているのは他の誰でもなく私だから。
酒器《グラス》に花弁《はなびら》と同じ桜色の液体を注げば、はらはらと舞う花弁《はなびら》が酒に散る。
「なぁに?」
「桜のリキュールです。大人の花見にはお酒でしょう?」
「前から思ってたけど、お前ってわりと少女趣味なところあるよね」
そんなことを言いつつ受け取ってそのまま口に運んだ彼は、僅《わず》かに顔をしかめた。
「……甘い」
「たまにはいいでしょう? 度数は甘くないですよ」
少女趣味で悪《わる》うございましたね。
半分ほど空《あ》けられた酒器《グラス》にさらに注ぎ入れれば、口当たりの良さからか、また空《あ》けられて。
「酔わせるつもり?」
既に酔っているのか上目遣いの目線がやたらと色っぽくて、絶対に夜会でアルコールを飲ませるのは阻止しよう、とグラウスはこそりと心に誓う。
「……さぁ?」
「ざんねーん! 俺強いよ」
「それは介抱の心配がなくていいですね」
ピッチが速いなと思いつつ、自分の酒器《グラス》には手酌で少しだけ。
ないとは思うが、ふたりでグデングデンに酔っぱらうわけにはいかない。
なのに。
「よーし! どっちが強いか勝負……」
目を爛々《らんらん》と輝かせてそんなことを言い出す人に苦笑する。つい数時間前まで勝負に負けて泣きそうな顔してたのは何処《どこ》の何方《どなた》でしたっけ?
学習能力がないのか、生粋のギャンブラーなのか。
初めて出会った時の勘、大当たり。これは本当にひとりで放り出すのは危険だ。
「ゆっくり飲みましょう。夜は長いですよ」
「あー! 弱いんだな! 弱いんだなお前!!」
指を差さない。立ち上がらない。
……全く。この人は。
でもそんなあなたが大好きです。
嬉しそうにリキュールに口をつけている人の姿に、グラウスはただ目を細める。
そして。
「青藍様」
「うにゃ?」
「酔ってませんか?」
「酔ってらいよ」
嘘おっしゃい。舌が回ってないじゃありませんか。
その僅《わず》か数分後、グラウスは己《おのれ》の失態に頭を抱えることとなった。
差し向かいに座っていたはずのご主人様は、何時《いつ》の間にやらとろんとした目で自分の肩にもたれかかっている。
お酒、強いんじゃなかったんですか?
案の定と言うかやっぱりと言うか。強いというのは口先だけだろうとは思っていたけれど、ここまで弱くなくたっていいじゃないですか。度数は甘くない、とは言ったけれども、誰かさん曰《いわ》く「少女趣味」のピンクなこれは女性向け。数杯でぶっ倒れることはない。
なのに……ねえ、まだ2杯も空けていませんよ!?
「酔ってるでしょう?」
「酔ってらーい」
そう言いながら両手で酒器《グラス》を持ってペロペロとリキュールを舐めている人の破壊力が凄まじい。その女の子飲みやめて下さい! 目のやり場に困ります!!
「グラウスぅ」
「……何ですか?」
どう見ても完全に酔っ払ってます。
酔わせるつもりはなかったのに。と一抹の罪悪感。
この度数で何で酔えるんだ? 間違って買ってきてしまったのか? グラウスは改めてリキュールのラベルを確認する。
「めーれー」
この期《ご》に及んで飲み比べ勝負を挑んで来やしないとは思いたいけれど。
しなだれかかられている肩が重い。気も重い。
「枕になってぇ」
「……は?」
枕?
「ちょっと寝るー」
「ちょ、ちょっと!?」
返事を聞きもしないで、コロン、と膝に頭を乗せてくるのは信頼の証……どころじゃない!
待って! それは相手が私だからですか? 酔ったら誰にでもやってるんじゃないでしょうね!?
聞きたいが、口を開く前に目が手から滑り落ちそうになっている酒器《グラス》を捕らえ、慌てて取り上げている間に、膝の上では寝息が聞こえて来て。
……男の膝枕って有りですか?
「襲いますよ」
頬を突《つつ》いても起きそうにない。
思わず溜息が出る。
あなたは私のことを何だと思っているのですか? 私にだって人並みに性欲はあるんです。聖人君子でもあなたの母親でもないんです。少しはそういう目で見てくれるようになったのかと思えば……体に教え込みますよ本当に!!
心の中でどれだけ訴えたところで眠っている人の耳に届くことはない。
私がその訴えを実行に移すこともない。
わかっているのだ。私には「できない」ということを。
私の姫は、本当に私のことをよくわかっている。
膝の上の温かい重みを愛《いつく》しみながら、はらはらと舞い散る桜を見上げる。
来年の今も、私はこの人の隣に居《い》ることができるだろうか。
再来年の今も、その次も。同じように花を見上げて、酒を酌み交わして、他愛もないじゃれあいで笑って。そして――。
「そう言えばねぇ、知ってます? 同じ酒器《盃》を酌み交わすのは契ることと同義だって」
義兄弟だったり臣下の忠誠だったり、想いはそれぞれだけれども。
グラウスは花に向けていた視線を下に落とし、おもむろに酒器《グラス》に指を浸した。その指で眠る人の唇をなぞる。
「……傍《そば》に居て下さいね。永遠に」
そして。
残った酒を一息に呷《あお》った。
花が散る。
月が揺れる。
「青藍様」
返事はない。
「足が痛くなってきたんですけれど」
本音を言えば足だけではなく腰も痛い。春とは言え夜は冷えるから肩や背中も辛《つら》い。なのにひとりだけぬくぬくと眠ってくれちゃって。
先ほどの契りの効果が出ているのだと言えば聞こえはいいが、ただ単に聞いていないだけだともとれる。いや、十中八九後者だろう。悲しいけれど。
「あのぅ……腕枕にジョブチェンジしても、構いませんか……?」
考えてみれば、座っているよりも地面に近いところで横になっているほうが風も当たらない。足だけでなく下半身を拘束される膝枕よりは、腕枕のほうが体の自由がきくだけ楽なはずだ。
そんなことを考えるに至ったのは、自分も酔っているからなのだろう。
起きないようにクニャリと力の抜けた体を支えながら膝を抜き、代わりに腕を入れる。そっと抱えるようにして同じように寝転ぶと、25年前のことを思い出した。
あの時は怪我をしないように抱えていたのだったか。
何年経《た》ってもあまり代わり映えはしない。
グラウスは溜息をひとつ吐き、目を閉じる。
きっと来年も。
再来年も。
永遠に――。
空から舞い降りる花弁《はなびら》が、ふたりの間を埋めていく。