その頃、エリックとグラウスは柘榴《ざくろ》とアイリスを連れて、とある部屋にいた。
目の前には以前、アイリスがノイシュタイン城に乗り込んで来た時に使ったゲートと同じもの――天井まで届く高さの重厚な扉の周囲に無数の髑髏《どくろ》が貼りつけられた、見た目だけはとんでもなく悪意を感じる扉が部屋の中央にそびえ立っている。
扉の前に床を抉《えぐ》るような穴がぽっかりとあいているのは、錠前が落ちた名残であるらしい。その錠前はご丁寧に鎖で封じた扉のど真ん中にぶら下がっていて、どうにも落ちたようには見えないのだが、エリック曰《いわ》く、自動復活する仕組みなのだとか。
そんなゲートもエリックは2度目だが、グラウスは初見。純血魔族より人間のほうが魔道具に詳しいという逆転現象が起きている。
そして「わぁ大きい♡」と呑気に見上げていられるほど、自分たちには余裕があるわけではない。
グラウスは肩越しに背後を窺《うかが》う。
其処《そこ》には、撃鉄《げきてつ》に指をかけてこちらを見ているアーデルハイム侯爵の姿がある。
侯爵の襲撃に遭《あ》い、一旦は散り散りになったものの、こうしてすぐに集まることができたことが幸運だったのかは今となって何とも言えない。
アンリだけが合流できていないが、後ろで銃を構えている中年男に撃たれたわけではないだろう。
銃声は聞こえなかった。彼は別行動を希望していたから、散り散りになったついでに、と直接、前当主の部屋に向かったに違いない。
だが、その前当主の部屋には犀《さい》がいる。
為す術《すべ》なく青藍を連れ去られたあの日。
自分はまともに戦闘訓練を受けたことなど1度もないが、魔王の代役をしていたのだからそれなりに通用するとは思っていた。なのに、同じ執事にもかかわらず、その相手には手も足も出せなかった。
それが犀《さい》。アンリが向かった先にいる相手。
アンリにしてみれば自分《グラウス》たち以上に付き合いの長い「仲間」だろうが、今は敵だろう。彼《アンリ》はああ見えて身内に甘いところがあるから、戦うことになったら非情になりきれるだろうか。そのあたりが心配ではあるけれど……今のところは自分たちのほうが、より危機的状況だと言える。
「せめてアイリス様だけでも送り届けたいのですが」
柘榴《ざくろ》が訴えてみるも、侯爵は無言だ。
一介の執事見習いに過ぎない柘榴《ざくろ》とは面識などないかもしれないが、アイリスならば人間界に同行させたこともあるくらいだから親しいだろう。その彼女が意識を失くして背負《せお》われているというのに、声をかけるどころか顔色すら変えない。
偽物だと思われているのだろうか。
それはつまり、自分たちがアンリやエリックや青藍の偽物に出会ったように、彼もこの城で誰かしらの偽物と遭遇したということにはならないだろうか。
誰かを疑うことができる――言い換えれば、彼は闇《紅竜》に操られているわけではない――ということに。
これはただの思い過ごしかもしれない。
闇に堕《お》ちていなければいい、話を聞いてくれればいいと、そう期待している部分が自分にあるから、そう見えるだけで。
いや。
もしかするとこの城の惨状と集まった来客らの異変から、それより前にこの城に入っているアイリスと柘榴《ざくろ》も既《すで》に変わり果てていると思われているのかもしれない。端《はな》から偽者だと思っていれば声などかけないだろう。
そして彼らと同行している自分たちも然《しか》り。
もしそう思われているのだとすればアイリスをヴァンパイアの屋敷に送りたいという希望は叶えられそうにない。
ゲートの特性上、この扉の先は城門も門兵の審査も抜けた無防備な城内。こちらから向かう者がいることを想定して武装した兵士たちを控えさせているとしても、闇に堕ちた《蔓と化した》者の前では子供を相手にするに等しい。懐の内《うち》に爆弾を放り込む真似を許すはずがない。
「……思ったんだけどさ」
エリックがアイリスを背負《せお》い直しながら、ひそりと声をひそませる。
「後ろの銃持ってるオッサン、」
「アーデルハイム侯爵」
「ん、アーデルハイム侯爵さ。此処《ここ》から出て来たんじゃない?」
そうだ。考えてみれば彼が離れに現れること自体が不自然極まりない。
来客は全て母屋《おもや》の客室に通される。迷路のような構造だから迷ったのだとしても、母屋《おもや》と離れは渡り廊下でしか繋《つな》がっていないのだから、渡る時に気付かないほうがおかしい。
だがその渡り廊下は|崩落《ほうらく》した。
外から入ろうにも1階は蔓《つる》に覆われていて入り込む隙間もない。
自分たちが離れに入る前に入り込んでいたとしても、その前に此処《ここ》には紅竜がいる。彼が武器を携《たずさ》えた部外者の侵入を野放しにしておくとは思えない。
そして一旦繋《つな》いでおけば、ゲートは何時《いつ》でも開けられる。
グラウスは鎖で幾重にも巻かれた扉に視線を移す。勝手に開くとか、勝手に閉じるとか、勝手に鍵までかかるとか、自動扉《ドア》にも限度というものがあるだろう!? とツッコミたい欲が湧いて来るが、それは置いといて。
どう考えても此処《ここ》を通って来るほうが楽だ。
柘榴《ざくろ》がゲートを繋《つな》いでいると言った時に、向こう《ヴァンパイア》側から刺客を送り込まれるのではないかと思ったが、まさか本当に送り込んで来るとは。曰《いわ》く「銃の名手」らしいし、体重管理もできない太ったオッサンだから大したことはない、と偏見に満ちた目で見ては痛い目に遭《あ》うだろう。
「十分ありえますね」
「でもさ、おかしくない? アイリス様ん家《ち》と此処《ここ》は仲が悪かったのに、どこでも○アなんて繋《つな》ぐかなぁ?
それに急にコロッと変わって縁談を承諾したって言ってたよね? もしかして向こうの人……ご両親とかもコーリューサマに操られてる可能性が高くない?」
両家は犬猿の仲と言われるほどに仲が悪かった。
元々アイリスの家のほうが格上だと言われていたのに紅竜が当主になって以降この家は一足飛びに力をつけ、貴族社会での影響力が逆転した頃からはさらに顕著《けんちょ》になった。伝統はあるが時代遅れ、昔の権威に縋《すが》っているだけ、と陰《かげ》で言われるようになったことも拍車をかけた。
かつて見下《みくだ》していた家を今は見上げる。アイリスの家にとっては屈辱だろう。なのにアイリスに届いた縁談を、彼らは一も二もなく快諾したのだと言う。
敵地に娘を送り込んで内側から打撃を与えるつもりだ、と言うなら納得もできるが、そんなこともないらしい。
「それで?」
「コーリューサマに誤解されて嫌われるわけにいかないもん、武器担《かつ》いで押しかけようとしたら止めるよね? ってことは、アーナントカ侯爵は向こうの家の人たちに黙って来たってことにならない?」
「侵入者《私たち》を排除して手柄を立てるつもりでは?」
「だったらもう撃ってるよ。僕はアイリス様に当たるかもしれないから後回しにするかもしれないけど、執事さんと柘榴《ざくろ》さんは絶対撃ってる。銃、上手いんでしょ? あの人」
そんな自信ありげに言わなくても、と複雑な心境のグラウスを他所《よそ》に、エリックは胸を反《そ》らすと少しだけ声のトーンを上げた。
「だからさ。侯爵は闇に染まってないんじゃないかな。僕らみたいに」
闇に染まっていない?
わざとらしいほどはっきりきっぱり言い切ったエリックの声は、背後にいるアーデルハイム侯爵にも届いているだろう。どんな顔をしているのか見てみたい。
襲い掛かって来た多くの客人たちのように無表情のままか、「自分たちと同じ」と言われて驚いているか。疑っているか。表情ひとつで知り得る情報はある。
ヴァンパイアの人々が闇に堕ちているであろうことを思えば彼《侯爵》ひとりが無事だとは考えにくいが、趣味の狩猟のために1年の半分を人間界で過ごす彼のこと、闇との接触が少ないなどの理由で染まらずにいたとも考えられる。
そして犬猿の仲だった相手を急に褒めそやす実家の異常さに彼が気付けば、その相手――紅竜《メフィストフェレス》――が1枚噛んでいるのでは、と疑うだろう。
諸悪の根源を成敗してくれる!とばかりにやって来たのか、あわよくば紅竜を殺害し、目の上のこぶを排除することで再び彼《か》の家の権威を上げようと目論《もくろ》んでいるのか、はたまたそんな紅竜にいち早く取り入ることで彼《か》の家のトップにおさまるつもりでいるのか。
前2つなら攻撃対象は紅竜だが、後者なら自分たち。しかし未《いま》だに撃たれていないから、エリックは「後者ではない」と踏んだに違いない。
しかし、だからと言って銃を突きつけられている今が好転することにはならないし、まだ撃っていないだけでこれから撃つつもりでいるのかもしれない。
以前、侯爵主催の夜会に行った時に見たことがあるが、彼は典型的な貴族だった。それに加えて狩猟が趣味とあれば、気に入らない奴《やつ》を前にして瞬殺よりも弄《なぶ》り殺しを選びそうだ……というのは偏見かもしれないが。
このままで埒《らち》が明かない。
埒《らち》が明かないが、名案が思い付かない。
卑怯な策だがアイリスを盾にしつつ目の前のゲートに飛び込んでしまえればいいのだが、問題は扉を封じている鎖だ。あれはどうしたらはずれるのだろう。青色のタヌキ型ロボットが出す秘密道具のように、行き先を言えば外れるのだろうか。
行き先を言って、錠前と鎖が外れて、扉が開く――その前に撃たれる。間違いなく。
「――闇に染まっていないと言ったが、それは本当か?」
だが。
運のいいことに侯爵が切欠《きっかけ》を作ってくれた。
「はい。そ、」
「ですです! だから僕たち手を取りあえると思うんです!」
そして運の悪いことに、グラウスの返答を掻き消すようにエリックの声が割り込んだ。
おい! 相手はアーデルハイム侯爵だぞ!?
そりゃあ魔界貴族の自称「侯爵」は人間界の侯爵とは違って「これを付けたらカッコいい」程度の理由でしかなけれど、それを省《はぶ》いても彼は魔界貴族の旧家・ヴァンパイア一族のひとり。
例の「身分が下の者から話しかけてはいけない」という制約は侯爵が口火を切ってくれたおかげで問われることはなさそうだけれども(その前に柘榴《ざくろ》が話しかけているのはどう説明するつもりだ? と思われるかもしれないが、言われるまで聞かなかったことにしておくのがこういう場合の常套《じょうとう》手段である)、それにしたって向こうは武器を持っているし、間違ってもそんなタメ口《くち》にちょっと飾りを付けた程度の敬語で返すものでもないし、それで機嫌を損《そこ》ねられたらどうしてくれる!
……と、エリックの口を封じて永遠の眠りにつかせてやりたい衝動に駆られたが、そんな隣の殺意などものともせずエリックは続ける。
「変だと思いませんか? この家の、あなたの家の、そして今や魔界全土を覆おうとしている異変の数々! これが全て闇のせいだとしたら!?
そんな中で闇に堕《お》ちない者がコンマ以下の確率でいるのです。それが僕たち”何とかし隊《たい》”!!
そして侯爵! あなたも僕たちと同じ”選ばれた者”なのです!」
何だよ「何とかし隊」って。
途中からやけに生き生きと盛り上がってきたと思ったら。
グラウスは頭を抱えた。ネーミングが恥ずかしすぎる。
眉間をおさえて俯《うつむ》いた時に視界の端に柘榴《ざくろ》が見えたが、死んだ魚のような目をして、半開きの口からは魂が抜けかかっていた。真面目な彼に「何とかし隊」はキツかろう。
侯爵は黙り込んでいる。当たり前だ。こんな恥ずかしいネーミングの団体に仲間認定されたらキレるどころでは済まされない。
メフィストフェレス城銃乱射殺人事件 ~完~ ……って、いや、きっと公《おおやけ》にもならずに事件そのものがなかったことにされるのがオチだ。
眉間を押さえたままグラウスは現状の打開を考える。しかし胸を貫通する傷を負って出血したばかりの身では頭に血など回るはずもない。
だが。
「私が、選ばれた者?」
心配する必要などなかった。
何だよその「何処《どこ》にでもいる平凡な女子学生14歳」がぬいぐるみっぽい妖精を前にして言いそうな台詞《セリフ》は!!
もしかしてエリックと同類!? 「君が世界を救うんだ!」なんて言われたらあっさり自腹切って武器防具揃えて旅に出るタイプ!?
嗚呼《ああ》、ツッコミどころが満載すぎる。アーデルハイム侯爵ってこういうキャラだっただろうか。夜会の時、青藍を捕まえて長々と喋っていたけれど、もしかして「魔王ってカッコいいー! 僕もマント翻して階段の上から華々しく登場してみたーい!」だったりしないだろうな!?
ツッコミが際限なく飛び出しそうな口を必死で噤《つぐ》むグラウスの中で、アーデルハイム侯爵の評価がガラガラと塗り替わっていく。
「――なるほど」
それから数分の後《のち》。
意味不明に意気投合したエリックのおかげで、アーデルハイム侯爵はすっかりグラウスたちを仲間だと、いや、自分《侯爵》がグラウスたちと同じ選ばれた者なのだと認識していた。
正直に言えば自分《グラウス》たちは誰からも選ばれた覚えなどないし、「何とかし隊」なんてチームを組んだ覚えもない。ないけれども「全部嘘でした」とは今更、口が裂けても言えない。
だが、短時間のうちにこうして円陣を組んで話ができるほど打ち解けられているのだから、良しと言うしかない。
「とにかく何かよからぬことが起きているのは確かなのだな。ルチナリスとかいう娘の行方共々、早急に紅竜を見つけ出さなくては」
こうなったらこのまま選ばれた戦士を貫くしかない。
悪魔が正義の味方気取りかよ、と嗤《わら》いたくなるが、元々自分たちを「悪魔」と称しているのは人間たちだけで、自分たちは「悪魔」だなどとはこれっぽっちも思っていない。訂正するのが面倒なので放置しているだけだ。
そして侯爵から仕入れた情報によると、案の定、ヴァンパイアの家でまともなのは侯爵ただひとりであるらしい。エリックに感化されている時点で侯爵も十分まともではないが、それは意味が違って来るので割愛《かつあい》する。
何にせよ、これで侯爵がひとりで乗り込んできた意味がわかった。当主から兵士まで揃いも揃っておかしくなっていては連れて来ようがない。
「くっ……紅竜がそんな男だったとは!」
侯爵はすっくと立ちあがると、空中に視線を向けたまま握り拳《こぶし》を震わせる。
「年の離れた若い娘が好きな同志だと思っていたがこれは許せん! 若い娘は蝶よ花よと愛《め》で、自分好みの女に育て上げるのが|醍醐味《だいごみ》だというのに、それをわけのわからん計画に巻き込んで。もし花開く前の蕾《つぼみ》が枯れてしまったら人類の損害ではないか!!
しかもまだ婚儀も終わっていないうちに新たな娘を連れ込むとは言語同断! あの男には愛が足りない!」
いや。ルチナリスを嫁にする気は全くないと思うから。
グラウスの中でツッコミの嵐が吹き荒れる。
それ以外の若い娘云々《うんぬん》のくだりも、それは個人的な性癖なだけで、幼な妻に理想を描く全ての男が同じように考えているわけではないと思うのだが……少女と見間違えて一目惚れした相手を主人として仕える傍《かたわ》ら、延々とよからぬ感情を燻《くすぶ》らせているややこしい自分にツッコむ資格などありそうにない。
グラウスはツッコみたくてウズウズする口をしっかりと閉じて堪える。
斜め前では柘榴《ざくろ》がアイリスを必死に侯爵から遠ざけようとしている。危険を察したのかもしれない。
「では行こう魂の仲間たちよ!」
「おう!」
銃を担《かつ》ぎ直して高らかに宣言した侯爵に、エリックが嬉しそうに片手を振り上げる。
さりげなく新しいチーム名に変わっている。「何とかし隊」よりはまともだと思ってしまった自分《グラウス》も|大概《たいがい》だがその前に。
連れて行くのか? 侯爵も。
「いや。……侯爵にはアイリス嬢を無事に送り届けて頂いたほうがよろしいのでは」
グラウスは慌てて呼び止めた。エリックのほうを。
雰囲気的にもう「俺たちはズッ友だぜ!」レベル、先に声をかけるどころかハリセンで思いっきり引っ叩《ぱた》いたって笑って許してくれそうではあるが、例の身分制度にどっぷり浸《つか》かっていた身としては染みついてしまった習慣だ。そう簡単に抜けはしない。
とは言え、出会った端《はし》から連れ歩くのは危険だ。
侯爵は銃の名手だそうだが、柘榴《ざくろ》がそう言っているだけで実際の腕前は見ていない。もし名手だったとしても、銃は中~遠距離武器。パーティを組む場合は後方から前衛の剣士を支援する役目を担うことが多い。
が、単独で敵陣に乗り込んで来る男が、後方支援で甘んじていてくれるだろうか。武勲を急ぐあまり勝手に動くようなら邪魔でしかない。
そして今、自分たちには既《すで》にアイリスと柘榴《ざくろ》という足枷《あしかせ》がついている。これ以上はいらない。
「他の方が皆、闇に染まっているのだとしたら、ひとりで帰したところでいずれまた此処《ここ》へ戻されてしまいます。部外者の我々や一介の使用人に過ぎない柘榴《ざくろ》くんが付いていっても同じこと。ですが侯爵が付いていて下さればこれ以上の安心はありますまい。
婚儀の前にルチナリスを連れて行ったところからして、紅竜様がアイリス嬢に正妻としての地位を確約するとは考えられません。古来より”お飾りの妻”の扱いは酷《ひど》いもの。下手をすると連れて歩くのは愛人ばかり、妻は日陰のままで一生を終えることにもなりかねません。
アイリス嬢はまだ若い。今でも十分目を惹《ひ》くかわいらしさがありますが、この先、大輪の花を咲かせる可能性を秘めています。なのにこんなところで終わるわけにはいかないのです。そうは思いませんか?」
若い娘が云々《うんぬん》の性癖から考えて、侯爵はアイリスを引き合いに出せば折れる。
何と言っても人間界に連れて行ったほどだ。彼女のことは気に入っているだろう。柘榴《ざくろ》の胃には申し訳ないが、実家に連れて行き、人々から闇が消えるまで守っていてくれれば、こちらにとっては都合がい……いや、有難《ありがた》い。
それに正直なところ、自分《グラウス》はアーデルハイム侯爵を信用していない。
ひとりだけ闇に染まっていないというのも真実味に欠ける。紅竜に対立しているふりをして自分たちに同行し、隙を見て攻撃をしかけてくる可能性もある。
ああ。グラウスは姿を消したままのアンリを思い出す。
彼が仲間である目印を付けようと言っていたのは、こんな気持ちからだったのかもしれない。
「だから」
「……心配には及ばないわ」
だが。
さらに続けようとしたグラウスの声に、新たな声が被《かぶ》さった。
見れば、アイリスが目を覚ましていた。
これは運がいいと言うべきなのだろうか。
グラウスは柘榴《ざくろ》の手を借りて起き上がるアイリスを見下ろす。
意識が戻ったと言うことは自力で歩いてくれるということだ。その点ではよかったと言える。彼女を背負《せお》っているせいでエリックは剣を使えないでいたのだから。
「何処《どこ》か痛いところはありますかお嬢様。あと、気持ち悪いところとか、不自然なところとか、」
「全身痛いし、服がベタついて気持ち悪いし、何より爪が短い上に剥《は》げてしまって不格好だわ。でもそんなことはどうでもいいの」
甲斐甲斐しく声をかけ続ける柘榴《ざくろ》に対し、アイリスは気だるげに返事を返す。
投げやりな物言いが蔓《つる》と化す前の彼女を見るようで、本当に彼女の中から闇が消えたのかが不安だ。もし未《いま》だに彼女の中に闇が巣食《すく》っているのだとすれば、先ほどアーデルハイム侯爵に対して抱いた懸念《けねん》をアイリスに対しても抱くことになる。
闇の蔓と化した彼女とは直接やりあっているから強さは知っている。背後に立たれ続けては精神的にもたない。
「柘榴《ざくろ》。執事さんたちを例の部屋に案内なさい」
そんなグラウスの疑いの眼差しに気付いているのか気付かないふりをしているのか、アイリスはグラウスではなく柘榴《ざくろ》に顔を向け、柘榴《ざくろ》に話しかける。しかし内容は聞き流せない。
「例の部屋?」
今度も柘榴《ざくろ》に問いかけたつもりだったが……柘榴《ざくろ》より前にアイリスが頷く。
まるでアイリスに向かって言ったように取られてしまうが、これも本人が気にしていなければカウントされずに済むだろうか。
「紅竜様がいらっしゃる部屋よ。柘榴《ざくろ》には私が此処《ここ》にいる間、城内をくまなく調べて回ってもらっていたの」
青藍を始め、自分の周りに無頓着《むとんちゃく》な人々が多かったのは、きっとかなり恵まれた環境だったと言えるのだろう。
アイリスに同行してやって来た柘榴《ざくろ》だったが、当初は執事ではなく客という扱いだったため、仕事を割り振られるわけでもなく、ただ暇にしていた。その持て余していた時間で城の探索をしていたのだと言う。
いくら上級貴族同士だと言っても年齢も離れ、しかもずっと不仲だったヴァンパイアの家の娘を指名して来るのは何かあるはずだ、と言うアイリスの言《げん》に従って。
紅竜が彼女を選んだことには何か裏があるのではないか、とは自分《グラウス》も以前から何度か口にしていたが、まさか本人までもが同じことを思っていたとは。
だがそうして疑ったからこそ、アイリスは柘榴《ざくろ》という最も気の置ける相棒を連れてこの城に乗り込んだのだろう。婚儀を一も二もなく承諾した祖母や両親にもその考えを教えないままで。
「本当はね、私がどうにかしたかったって部分はあったの。だって紅竜様が変わってしまったのはお姉様がいなくなってからだし、もし私にお姉様を映しているのなら、私はお姉様の代わりになることも辞さないつもりでいたのよ」
アイリスの独白を聞きながら、今度は青藍のことを思い出す。
彼も言っていなかっただろうか。キャメリアが失踪して後、紅竜に縋《すが》られたことがあったと。
その後、紅竜は青藍の魔力を封じ、薬漬けにして幽閉した。そんなことをされてもなお、彼は兄《紅竜》を慕っていて……あれだけ酷《ひど》いことをした男の何がいいのだと思ったものだが、もしかすると青藍も間近で紅竜の変化を見、キャメリアの代わりとして傍《そば》にい続けることを自分に課したのかもしれない。
「でもそれと私の家をぐちゃぐちゃにすることは別だわ。
半年ほど前に両親が紅竜様、紅竜様って言い出した時は、頭角を現し始めてからの短期間に家を盛り上げてみせた手腕に見惚れてのことだろうと……娘の私が言うことではないけれど父に同じことはできないから、だからそう思ったのだけれども、お婆様までが言い出したのは絶対におかしいの。
お婆様だけじゃない、お友達も、そのご両親様も、会う人会う人がみんな同じことを言うのよ。だから柘榴《ざくろ》と”紅竜様教っていう宗教みたいね”って言って、きっと何かあるって思って、」
「それで見つけたんです。紅竜様が絶対に誰も近付けさせない部屋。犀《さい》様ですら部屋の中には入れてもらえないから何があるんだろうって思ってたんですけど、この間、其処《そこ》に青藍様を抱えて入って行かれるのを見て」
アイリスに続いた柘榴《ざくろ》の台詞《セリフ》に、グラウスは思わず立ち上がりかけた。
その部屋に青藍がいるというのは初耳だ。どうしてそういう重要なことを先に言わないんだ!! と言いたかったが、思えば、柘榴《ざくろ》に自分たちの目的を言ったかどうか定かではない。
あの黒い竹は青藍の魂。
犀《さい》は何処《どこ》かに青藍の体があると言っていた。それが、その部屋か。
「連れて行ってください」
「ええ。柘榴《ざくろ》、お願いできる?」
「それは構いませんがお嬢様は……」
不安げにキョロキョロと視線を彷徨《さまよ》わせる柘榴《ざくろ》をよそに、アイリスは侯爵を見上げる。
「他にすることができたの。叔父様は私に同行して下さる? 叔父様がいて下さったら安心だわ」
「おじょ、」
「それは構わないが」
侯爵の鼻の下が伸びているのは邪念が見せた目の錯覚だと信じたい。
柘榴《ざくろ》の背後で雷が光ったように見えたのも。絵にすると「ガーン!」という効果音も付きそうなのも。
自分《グラウス》にとってはアイリスも侯爵も巻き込みたくない《何処かに行ってほしい》から願ったり叶ったりだが、柘榴《ざくろ》にとっては彼女らをふたりきりにすることは(カミングアウトされた侯爵の性癖のこともあって)絶対に避けたいことだったろう。ご愁傷様、と言うのも気の毒なくらいにショックを受けている。
「ええと、他にすること、とは?」
だから、特に興味があるわけではないが、あまりにも柘榴《ざくろ》が気の毒で、ついそんなことを聞いてしまった。連れて歩きたくないと思っていた過去の自分から総スカンをくらいそうな掌《てのひら》返しだが、少しでも柘榴《ざくろ》が納得できるならそれに越したことはない。
アイリスは微《かす》かに微笑む。そして。
「お姉様が言っていたわ。もう時間がないって」
その途端、空気を裂く悲鳴のようなものが聞こえた。
声ではない。声だったかもしれない。しかし自分たちの耳には声としては届かない「音」が。
今のは何だ?
流石《さすが》にエリックや侯爵も危険だと感じたのか、獲物に手をかけ、周囲を見回す。
だが、この部屋の中に目新しい変化はない。ゲートは鎖も錠前も揺らさずに鎮座しているし、調度品もそのままだ。窓の外の景色も変わったようには見えない。
でも確かに聞こえた。部屋の外というよりもこの部屋を含めた城全体、いや、世界そのものが震えたような感覚もあった。
「早くお行きなさい」
そんな中でひとり平然としているのはアイリスだ。
先ほど「時間がない」と言っていたことと関係あるのだろうか。確か姉がそう言ったと言っていたが……もしそれがミルのことを指しているのなら、やはり彼女《ミル》は何かを知っていたことになる。
「アイリス嬢は、今のが何かご存じで?」
キャメリアとしての記憶も定かではないミルがアイリスに何を助言することがあるのか、とも思うが、魔界に戻って思い出したことがあるのかもしれない。
先ほどのアイリスの独白からして、彼女《キャメリア》が謎の失踪をしたのが事の発端。そしてあの音は本筋とは全く関係ないかもしれない。
なのに。
ただの自己満足に過ぎないかもしれないが、気にならないと言ったら嘘になる。
だが。
「知らないわ」
アイリスはあっさりと否定した。
隠しているのではなく、本当に何も知らないと言いたげな顔だ。が、幼く見えても彼女は生粋《きっすい》の魔界貴族。腹の底に隠し持っている本音をそう易々《やすやす》と見抜かせはしない。
彼女が今更自分たちにミルのことで隠しごとをする必要など、それこそ味方のふりをして此処《ここ》にいるのでない限り、何もない。
「本当に知らないの。お姉様に”言われた気がする”と言ったほうが正しいかもしれないわ。でも先ほどの音を聞いたでしょう? 何かが起きたことは間違いないわ。それに」
そんな逡巡を感じ取っているのだろう。アイリスは申し訳なさそうに眉を寄せ、そして。
「”完璧に無垢で高い知性を持つ男の子が、もっとも申し分のない最適な生贄《いけにえ》である”――この言葉、執事さんは御存《ごぞん》じ?」
代わりに、そう問いかけて来た。
最適な生贄《いけにえ》?
物騒《ぶっそう》な話だ。いかにも呪術だの闇だのというフレーズに似合いそうだが、厨二精神で唱えられた言葉ではないだろう。
グラウスとしても聞いたことがあるような、ないような、というのが正直なところ。中身からして教訓にはなり得そうにないし、誰でも知っている有名どころではないのかもしれない。
「紅竜様や犀《さい》が何度か呟いていたそうなの。そして紅竜様の手元には今、」
青藍がいる。
ゾワリ、と背筋を虫のような感触が走り抜けた。
そうだ。犀《さい》は何故《なぜ》、青藍を連れて行った?
アンリが言うには紅竜の代役になるように育てろと前当主から指示されていたそうだが、此処《ここ》に来て、その兆候は何処《どこ》にも見当たらない。
ならば他に理由があると考えるべきだ。
少なくとも青藍の体調不良が魔王を続けられないレベルだから引き取ったわけではない。もし体調を危ぶんでいたのならロンダヴェルグを叩くために派遣したりはしない。
「でも青藍様は少年という歳ではありませんし……」
口では否定しつつも、頭の中では肯定するしかないように足下《あしもと》を固めている自分がいる。
紅竜が闇と接触したと思われるのは青藍が生まれた頃、もしくはその前。
彼の闇にまつわる計画がその頃から既《すで》に動き始めていたのだとしたら、10歳を機《き》に母屋《おもや》に連れて来られた青藍など、格好の生贄《いけにえ》にしか映らなかっただろう。
紅竜が弟に近付く者を片端《かたはし》から処分して回っていたのは、そして社交界に出せる歳になっても混血を理由に公《おおやけ》の場に出さずにいたのは、大事な生贄《いけにえ》を無垢なまま置いておくためではないのか?
世界を教えず、知らせず、それでいて知識だけは本で教え込む。戦闘以外のことは犀《さい》が教えていたと言うから、その頃から犀《さい》も紅竜に加担していた可能性も否《いな》めない。
第二夫人の策によって人間界に来ることになったのは、紅竜からしてみれば完全なイレギュラー。ノイシュタインにいる間も執事の自分に隠れて頻繁に連絡を取りあっていたようだし、アドレイは城内に何者かが入り込んだ形跡があるとも言っていた。その時が来るまで見張ってたのだ。きっと。
そしてその時は来た。
先ほどの音は――。
「行きましょう」
気が急《せ》くのを隠しながらグラウスは立ち上がった。
紅竜の目的も、ミルの理由も、犀《さい》の考えも、何もかもがわからずじまいだが、立ち止まっている時間はない。行き当たりばったりで進むほうが危険だと重々承知していたとしても。
あわよくばアンリが情報を持って再合流してくれることを期待していたが、人生、そう上手くはいかないものだ。
「執事さん」
その背をアイリスが呼び止める。
「……絶対に、連れて帰って来て」
「もちろんです」
きっと次が最終決戦。
アイリスはアイリスですることがあると言っていたが、彼女の体は彼女が1番よく知っている。此処《ここ》で脱落することを選んだのはきっと、自分たちの足枷《あしかせ》にならないためだろう。