紅竜は、光の壁を必死の形相《ぎょうそう》で壊そうとしている男を眺めていた。1度、爪を剥《は》がしかけたというのに学習能力がないのだろうか。策もないまま手を突っ込んでいる。
残るふたりも全く成果の出ない行動を延々と繰り返している。彼らの顔が絶望に歪《ゆが》むのは胸のすく思いだが、行動はとにかくワンパターンで面白みに欠ける。
望みは望んでいる間が楽しい。叶ってしまえば何故《なぜ》ああも渇望していたのかと思う。それは今回も変わらない。
弟こそが生贄《いけにえ》に適任だと思っていた。
が、今になって闇は弟では駄目だと言う。
魔王役として外に出している間に汚れたのだろうか。だから「無垢」と言う条件から外れてしまったのか。そう思った。なんせ弟に邪《よこしま》な感情を抱いている男がべったりと貼りついているのだ。それ以外にも弟を取り巻く環境は世俗と手垢に塗《まみ》れていた。
魔王役就任という決定事項を覆《くつがえ》すには当時の自分は力が足りず、仕方なしに平均5年の任期だけ勤めさせるつもりでいた自分に、犀《さい》は「あの男自体、過保護が過ぎますからね。坊ちゃん《青藍》に悪い虫など付きようがありませんよ」などと笑っていたが……その男が最悪の害虫だと言うことに何故《なぜ》気付かないのか。
人間界に行ってからの弟は自分《兄》に反抗することを覚え、5年の任期は勝手に10年に延ばされ。それも全部、この男の入れ知恵だろうのに。
弟を汚したのは他の誰でもない、この男。
ずっとこの男が苦しむ姿を見たかった。だが、今度こそ絶望の淵に叩きこんでやれる。そう思うと喉がくつくつと鳴る。
つまらないのだ。何もかも。
ほんの一瞬でいいから私を楽しませてくれ。
「……お前は此処《ここ》で、散らす必要のない命を散らすことになるのだな」
紅竜は視線を魔法陣の外に向けたまま、腕の中の弟に語りかける。
闇のことを全て知ったつもりでいる、とは言わないが、他の誰よりも私は闇に近いはずだった。彼《闇》は私を認め、私も闇に協力する。言わば共闘、共謀、共犯……などと呼べばいいだろうか、私たちの関係は。
なのに、今になってそれが揺らいでいる。
今更になって浮かぶ疑問と、ひとつの仮定。
しかしそれがはっきりと形を結ぶ前に、その男《グラウス》はやってきた。やってきて、こちらを見て、返せと言う。それが無性に腹が立った。
返すも何も、青藍は生まれた時から私のものだ。私のために生き、私のために死ぬ。獣の分際で私のものを欲しがるなど、まして、返せなどと……何時《いつ》からお前のものになったと言うのだ。貸し与えた覚えすらない。お前はただ窓辺に置かれた籠の中で歌う鳥を窓硝子《ガラス》の外から、いや、敷地を越え、境界を示す塀さえも越え、さらにその先に座り込んでその声を聞いていたに過ぎないと言うのに。
この男が来なければ、私は弟を連れて魔法陣を脱するほうを選んでいた。差し出された弟の生死というふたつのカードから、生を選んでいた。
しかし今私の手の中にあるカードは死。
他の誰でもない、あの男が共に生きることを望んだ者が、あの男の目の前で「自《みずか》らの意思で」その命を絶つ。それをあの男に見届けさせてやる。
紅竜の頭の中で仮定が緩《ゆる》やかに実を結ぶ。
もしそれが事実なら何よりも許しがたい。裏切りよりも酷《ひど》い裏切りには私も裏切りで返すしかない。
「そうだ。全部貴様が悪い」
貴様さえいなければ。紅竜は魔法陣から噴き出す光の壁に向かって氷の飛礫《つぶて》を打ちつけている男を一瞥《いちべつ》する。飛礫《つぶて》が当たる音は此処《ここ》まで聞こえては来ないが、当たるたびに振動が波のように打ち寄せるのを感じる。
どうやらただの光の壁だと思っていたが、自由に出入りすることはできないらしい。蔓を滅したあたりからして光属性だろうから犬《グラウス》が拒絶されるのは想定内だったが、モブ娘《ルチナリス》までもが遮《さえぎ》られるとは。
こうなってくると自分たちが外に出ていけるかどうかも怪しいところだ。だが、それも今となってはどうでもいい。
――出テコイ。
声が聞こえる。飛礫《つぶて》が光の壁を叩く音に色を付けるとすれば金か白と言うところだが、この声は黒ずんでいる。ピアノのような格調高い漆黒ではなく、光の下にある色を怨みと邪念で薄汚《うすぎたな》く汚した音だ。
――オ前ハ 我々ト 魂ヲ 同ジクスル 者。
「……勝手なことを」
紅竜は目を瞑《つぶ》る。耳も塞《ふさ》ぎたかったが、視界が暗転しただけでもかなり距離を置いた気になれる。
魂が同じだなんて言葉をかけられれば、昔なら声の主《ぬし》に認められたのだと誇らしく思ったかもしれない。
事実、ずっとそうだった。
しかし仮定がひとつの形を見せた今となっては、口先だけの薄っぺらい言葉にしか聞こえない。
魔法陣は足に絡みつき、私《紅竜》の動きを封じている。蔓をズタズタに引き千切《ちぎ》った力でもって、私の身をも引き千切《ちぎ》ろうとしてくる。
足止めを食らっている私を救い出すためだろう。一時《いっとき》は力が弱まったと思った闇の力は、以前にも増して私の中に流れ込んで来る。この力をぶつければ弟はあっさりと絶命する。闇もきっとそれを求めている。
弟の命を奪うことに使わずとも、相反《あいはん》する力がぶつかれば打ち消されるように、新たに与えられた闇の力をもってすれば足を繋《つな》ぎ止めていた光の枷《かせ》を消すことも可能だ。魔法陣で私の動きを止めたつもりだろうが、脱出する手立てなどいくらでもあった。だが。
「お前のせいだ」
憎《にっく》き犬は、今度は氷の竜を出現させている。体力も魔力もほぼ尽きているだろうに必死なことだ。
あの竜は以前、ノイシュタイン城を襲わせたフロストドラゴンの成れの果て。犬《グラウス》もモブ娘《ルチナリス》も片付けられなかったばかりか、こともあろうに犬《グラウス》の使い魔に成り下がるとはドラゴンの名が聞いて呆れる。
しかし所詮《しょせん》はその程度。あの男の魔力が竜を形作るだけで限界だったのだろう、とドラゴンに花を持たせるのも馬鹿らしい。
氷の竜は、光の壁に当たった途端に蒸気と化して消えせた。
「お前のせいだ」
乱入されたことで散開した疑問と仮定を掻《か》き集め、そうして出した答えは1度は外に向いた紅竜の足を留《とど》めさせるのに十分だった。
あの男にくれてやるくらいなら共に死を選んだほうがましだ。そう思ってしまった。
――出テコイ。ソレダケノ 力《チカラ》ハ 与エタ ハズダ
「知らんな」
パチパチと耳障《みみざわ》りな音が激しくなる。
この中にいて後どれくらい持つだろう。自分たちが果てる前にあの犬《グラウス》は此処《ここ》まで辿《たど》り着けるのだろうか。辿《たど》り着いたところで弟を「返す」つもりは毛頭ないけれども。
――出テコイ!! 我々ハ、
「……お前たちの世界では”魂を同じくする者”のことを生贄《いけにえ》と呼ぶのか?」
静かに問いかけた声に、返事は返ってこなかった。
『生贄《イケニエ》ハ 別ニ イル』
『此処《ココ》ニ』
此処《ここ》には弟と自分しかいない。そして弟は生贄《いけにえ》ではない。
ならば考えられることはただひとつ。闇が指す「生贄《いけにえ》」とは自分《紅竜》のことに他ならない。
思えば闇の封印を解いた時、自分《紅竜》も少年と呼べなくはない歳だった。
目覚めた時に都合よく少年がいたから、闇はそれ《紅竜》を生贄と認定してしまったのか。後から現れたもっと好条件の少年では、代用は利《き》かないのか。
魔法陣を出たところで自分自身が闇に食われる末路が待っているのなら、このまま魔法陣の中に留《とど》まって弟と共に逝《い》くのも悪くない。
――望ミハ 叶エタ
声がする。生贄《いけにえ》が私であるのなら、しきりに「私だけでも魔法陣から出てこい」と言っていた理由がつく。
私を食らって完全体になるのか、魔界を制した私の体を乗っ取るのか、それとも私諸共《もろとも》全てを呑み込んで終わりにするのか。人生を全うしたあかつきにはこの身も魂も好きに使ってくれて構わないとは思っていたが、果たして闇にそこまで待つつもりがあったのかさえ今では怪しい。
「だから次はお前の番だとでも言うつもりか? 生憎《あいにく》と私の望みはまだ叶えられてはいない」
言いながらも思う。
果たして私の望みとは何だったのだろう。
――誰モガ オ前ヲ 認メタ
「認めていないから私は殺されそうになっているのだが?」
誰からも認められたい。
それは望みのひとつだったのかもしれない。しかし本当は。
「青藍様!」
娘の声が聞こえた。その声に呼応したのか、弟の瞼《まぶた》が小さく引きつった。
紅竜はその耳を塞《ふさ》ぎ、改めて抱き寄せる。
望み。
望み……そうだな。
以前、キャメリアに人望など成果を上げれば付いて来るものだと言ったことがある。
しかし魔界貴族の頂点に立っても、媚《こ》びる者が多く集まって来るようになっても満たされることはなかった。どうしてかずっと考えていた。
それは。
誰から「も」、ではなく。
私は、私を心から認める「たったひとりの」誰かが欲しかったのかもしれない。そしてそれは今、叶う。
魔法陣から迸《ほとばし》る光は尽きることを知らない。中にいるにいるふたりの命が潰《つい》えるまで消えないのだろうか。
永久結界は呪文が終わると光も収束した。
竜封じの時は私《グラウス》の体から竜を引き抜いた後、何時《いつ》の間にか消えていた。
この魔法陣が前者《結界》ではなく後者《消滅》を主とするものであるのなら、光が消えるまで待っているわけにはいかない。
「これを止めることはできないんですかっ!?」
グラウスは少し離れた場所で成果もないまま剣を振るい続けているアンリに向かって、あらん限りの声で叫ぶ。
「ちょ、お前、それを俺に聞くのか!?」
アンリが手を緩《ゆる》めて叫び返す横で、ルチナリスが
「無理です……っ!」
と顔を強張《こわば》らせた。
「無理です。だってこれは、」
「……第二夫人の策?」
「多分」
ただの夢だろうと一笑に付《ふ》すには、ルチナリスどころか同じ魔界貴族の自分《グラウス》すら知らないはずの前当主の容貌が本人と合致しすぎるその夢で、第二夫人は四大精霊の力と聖女の力を青藍に集めていた。ルチナリスはメイシアから預かった大地の力を持って行かれたらしい。
彼女が大地の加護を受けるより前に亡くなった第二夫人と前当主が、未来にあたるそれ《加護を受けたこと》をどうやって知り得たのか。そのあたりは夢らしいご都合主義な出来過ぎた話だが、今現在、青藍が大地の力を使っていることは間違いないわけで。
そして1番問題にしなければいけないのは、青藍に集めた力の中に聖女の力が含まれていることだろう。確かに闇を完全に消すには必要不可欠な力だろうが無茶がすぎる。
何故《なぜ》第二夫人《前の聖女》ではなく青藍《魔族》なんだ。夫人では四大精霊の力まで背負《せお》いきれないと言うのなら青藍だってそうだろう。魔族にとって聖女の力など、ひとつ間違えれば自身が滅する。まさかそれを忘れたわけではあるまいに。
「青藍がそれで駄目になるところまで見越してんだろ畜生が!」
アンリはそう吐き捨てると剣を魔法陣に叩きつけた。
ルチナリスがこの夢のことを話した時、思えばアンリはいなかった。
息子のようにと言うと何処《どこ》となく違和感を感じなくもないが、心血注いで育てた弟子が死ぬために生まれて来た、しかも仕向けたのは実の親だ、なんて結末、熱血脳筋男なら当然、許し難いに違いない。
だが、実の親である前当主と第二夫人にとっては、最初に策ありき。
ふたりが番《つが》ったのも、子を生《な》したのも、闇を滅するこの策のため。青藍は最初から策のために使い捨てられる道具でしかなかったのだろう。
「それが、親がすることかよ!」
アンリは何度も剣を打ちつける。
何度も、何度も。
しかし第三者がどれだけ怒りに打ち震えようとも奇跡が起きるわけもなく、彼の剣は今までと同じように光の壁に空《むな》しく跳ね返される。
「畜生っ!」
刀身が真っ二つに折れても、
「畜生……っ!」
打ちつけるのを止めない。あまりの痛々しさと気迫に、グラウスもルチナリスも止めることすらできずに立ち尽くすばかりだ。
この魔法陣は前当主と第二夫人の秘策。
発動させているのは青藍自身。
意識がないように見える今でも魔法陣が消えないのは、魂に連動させているからだろうか。彼《青藍》の命と引き換えにしてでも紅竜を葬れと、彼らはそう息子に命じたのだろうか。
『――俺が消える時は、傍《そば》にいてくれる?』
青藍は知っていたのか? 自分の最期を。
知っていて、傍《そば》にいろと言ったのか?
『そんな本気にするなんて思わなかっ――』
あの発言を覆《くつがえ》したのは、口約束に拘《こだわ》って共に死にかねない私《グラウス》を置いて逝《い》くつもりだったのか?
「何か方法はないんですか? この城にいて長いんでしょう!?」
「長けりゃ知ってるってわけじゃねぇ!」
出口の見えない迷路に立たされているようだ。
はからずしも八つ当たってしまったが、前当主の片腕と称される割には重要なことを教えられていないアンリを責めるのは間違っている。それはわかるのだけれども当たらずにいられない。
ああ。彼ひとりが蚊帳《かや》の外だったのは、顔に出るからと言う理由ではなく、青藍を子供のように見ていた彼《アンリ》なら事実を知れば阻止してくるに違いない、というところまで予測されていたからに違いない。だから何も教えられなかったのだ。
しかしそうなってくると腑《ふ》に落ちないのが紅竜だ。
何故《なぜ》逃げない。
魔法陣に足止めされたにしても、アンリの片目を潰《つぶ》し、闇の力で青藍を捕えたこともある男がその程度で動けなくなるなどあり得ない。しかも魔界貴族を掌握《しょうあく》し、婚礼の儀を明日に控え、紅竜としてはこれから本格的に始動というところ。それこそ青藍を捨て、這《は》い出てでも脱出をはかるだろうのに。
自分《グラウス》たちの前で醜態《しゅうたい》を晒《さら》すのが嫌だとか? まさか。
「認めていな……私は殺され……うにな……いるの……が?」
紅竜が誰かに話しかける声が轟音の隙間から途切れ途切れに聞こえてくる。
内容からして誰かが自分の命を狙っているということは察しているようだが、この魔法陣を発動させたのが弟だと言うことまではわかっているのだろうか。
この魔法陣を発動させたのが青藍だと、紅竜が知っているとして。
いくらかわいがっていた弟だからと言えども志半《こころざしなか》ばで心中《しんじゅう》を受け入れるのは聖人君子にだって無理だろう。
貴族たちを従えて今の立ち位置に上《のぼ》り詰めたのには闇の力を使ったかもしれない。不要な者を排除し続けたことで悪評も立っているし、人々を蔓《つる》の餌にしたことは自分《グラウス》たちも見ている。
だが極端な話、このことを知っているのはアイリスやアーデルハイム侯爵、犀《さい》まで含めても8名。その8名を消してしまえば知る者は誰もいなくなるし、実際のところ自分たちがどれだけ声高に叫んだところで紅竜が違うと言えば、人々は紅竜の声に耳を傾ける。
自分《グラウス》たちに悪事が知られたからと言ってその程度で悲観して自死を選ぶとは思えない。
では何故《なぜ》?
「青藍様!」
声が枯れるほど叫んでも、この声は届かない。
なのに、万策尽きた今、できることは叫ぶことしかない。
「青藍様!」
焦りばかりが溢《あふ》れて、溺れてしまいそうだ。
この光の壁を越えることができればいい。助け出せれば1番いいけれども、彼が消える時に傍《そば》にいるのが何故《なぜ》私ではなくて紅竜なんだ。私は共に生きることも、共に死ぬことも値しないと言いたいのか!?
『生きて』
月の夜。私の手に耳飾り《イヤリング》を片方握らせて、私の姫はそう言った。生きろと。私が生きていれば運命に打ち勝てた気がするから、と。
そう言ったあなたが運命のまま死を受け入れて、私ひとりが生き残って、それでも「打ち勝てた」と言うのか!? 言わないだろう!?
光の壁の向こうで青藍の背に垂らした黒髪が引きつったように跳ねる。宙に舞った数本が光に溶ける。
死に直面しているのは紅竜だけではない。今はまだ髪で済んでいるが、この光が聖女の光であるのなら見えていないだけで体に損傷が出ていないはずがない。
手を握ると鈍い痛みが走った。
気が急《せ》くあまり忘れかけていたが、先ほど光の壁に手を突っ込んだ際に手首から先の皮が飛んだらしい。表皮が1枚剥《む》けただけのようだが「だけ」と言うには表現が軽すぎると思うほど、肉にも似た紅《あか》が全体を覆っている。ところどころ裂けて血が滲《にじ》んでいる。
この手と同じことが、きっと彼らにも起きている。
――何故《ナゼ》。
声がする。
この自分たちの誰かでも紅竜でもない、地の底から響くようなこの声は闇の声なのだろうか。
この闇は遥か昔、人々の負の感情から生まれ出たもの。
生み出したものの当時の人々では扱いきれなくて封印したもの。
光にしろ四大元素にしろ、他の属性が個としての意思など持っていないのに闇にだけ意思らしきものを感じるのは、「人々の感情を集めた」というところに原因があるのだろうか。それとも擬人化に代表されるように、ただの存在でしかないものに意思があると自分たちが思い込んでいるからそう聞こえるだけなのか。もし意思があるのなら、ふたりを魔法陣から引っ張り出すために共闘する、と言う手も……。
いや、それはない。
グラウスは首を横に振る。
闇と手を組むなんてあり得ない。それこそ自分たちの身も乗っ取られるか、青藍だって救い出したところで生贄《いけにえ》と称して闇に食われることは間違いない。
それにきっと自分は青藍の邪魔をすることはできない。闇と同化した紅竜ごと葬る、というのが自分たち以上に闇の処し方を模索してきた前当主たちの出した結論なら、他に手はない。
「でも紅竜様が死んだって闇は残るじゃないですか! それなのにどうして青藍様が紅竜様と死ななきゃいけないんですか!?」
ルチナリスが泣き叫んでいる。
「残る?」
「残りますよ! だって紅竜様と一緒に消そうとしているのは昔の人が封印したっていう”昔の闇”なんでしょう!? それに今の闇を足して大きくなったかもしれないけど、それとは別に闇はあるもの。あたしの中にも勇者様の中にも、皆の中にあるもの!」
闇が負の感情だと言うのならルチナリスの言うことも間違いではない。
他人を羨《うらや》んだり、比べたり、驕《おご》ったり。世界中の人々からそんな感情が抜け落ちればそれこそ「争いのない平和な世界」とやらになるだろうけれど、まさかそこまで大風呂敷を広げているわけではないだろう。大きくなりすぎた過去の遺物を消す、と言う程度だろう。
どうしたらいい。
青藍の意思を汲《く》んで、このままふたりが果てるのを待つべきなのか、魔法陣から引っ張り出すべきなのか。
掌《てのひら》がじわりと冷たくなって、またすぐ元に戻る。
何度も飛礫《つぶて》を撃ち込み、さらには竜まで生成したことで魔力は枯渇《こかつ》してしまったようだ。今はもう氷の欠片《かけら》すら生成できない。
紅竜が「闇と同化している」以上に「闇にとっての何らかの鍵《キー》」であるのなら、彼を魔法陣の外に出せば今度こそ手の出しようがなくなる。生贄《いけにえ》は代用が利《き》くだろうが、紅竜は代用が利かない。
前当主らが標的《ターゲット》を紅竜にしたのは、自分たちが知らないそのあたりのことがあるのだろう。青藍を救いたいばかりにその行動を阻止すれば、きっと世界は闇に呑まれる。自分は青藍を裏切ったことになる。
「私は、」
執事だ。
執事の責務は主《あるじ》の意思を尊重すること。主《あるじ》に従うこと。
たとえそれが主《あるじ》を失うことになろうとも――。
「青藍様ひとり守れなくて、世界平和なんか考えちゃ駄目なんです!」
逡巡《しゅんじゅん》するグラウスの耳にルチナリスの声が飛び込んで来た。
「……ルチナリス」
「勇者様は言ったわ。自分の身近な人が幸せになることを考えるんだって。何処《どこ》の誰かもわからない人の幸せなんかあたしは考えられないし、思いつきもしないし、そのために青藍様やグラウス様やガーゴイルさんたちや、アドレイやスノウ=ベルを切り捨てたらあたしが不幸になるじゃない!
此処《ここ》で死んだら青藍様は幸せになれるの? 青藍様のしていることは本当に正しいの!? 青藍様を助けて、一緒に、もっといい方法を考えましょうよ!」
「そ、れは、」
そんなことをしたら邪魔をした、と青藍に殴られそうなのだが。
ルチナリスの言い分は支離滅裂だ。根拠も何もない。もっといい方法と言うのも口先だけのことで、彼女の頭の中に代案が浮かんでいるわけではない。でも。
他の誰でもない。この自分が、青藍の行動を阻止したい。それで世界がどうにかなっても「ご愁傷様」としか言えない。
「昔のグラウス様ならそう言ったわ!」
言ったかもしれない。
顔も名前も知らない他人がどうなろうとも、いや、知っていたとしても青藍より優先させる者はいなかった。
だが今となってそう言い切るには私は他人に関わり過ぎた。アンリやエリックやルチナリス、アイリスやアドレイたちの未来が自分の我《わ》が儘《まま》で闇に呑まれて消えたら、きっと私は後悔してしまう。
でも、このまま時間切れになったら私はもっと後悔する。
「な、何とかして、この光の壁を抜けられれば、」
この選択が正しいいのか否か。
今でもわからない。けれど。
「執事さんどいて!」
その時。
背後から声と共に振動を感じた。
反射的に飛び退《の》いたところに一陣の風が走る。
光の壁に一瞬、切れ目のようなものが見えた。
「勇者様!?」
ルチナリスの声に改めて風が飛んできたほうを振り返ると、大剣を両手で握りしめた勇者《エリック》が立っている。
あの剣は飾りではなかったのか、ではなく。機嫌を損ねて帰ってしまったとばかり思っていたが、何を思って戻って来たのだろう。やはりレギュラーでいたいからとか何とか、そういう理由だろうか。
「……本人ですか?」
ルチナリスが「彼の言動がおかしいから気を付けろ」と言っていたが、闇に操られているようには見えない。もし操られているのだとしても、この魔法陣を破壊したい、という点については利害が一致する。
「あ、今それ聞くんだ」
苦笑いしながらも勇者《エリック》は首を傾けて兜《かぶと》の後頭部を見せる。
蛍光ピンクのハートが燦然《さんぜん》と輝いている。こんな悪趣味なものを誇らしげに付けて歩けるあたり本物だろう。
「大したことないよ。ただこれを返しに来ただけ」
エリックは不貞腐《ふてくさ》れた顔で鞘《さや》に収まったままの短剣を突き出した。無数の石で飾られた宝剣にはトトが宿っている。人間界に戻るであろうアンリに預けたものだ。
それを彼《エリック》が持っていることは特に問題ないのだが……。
「これ持ってたのにメイドコスの自称オネーサンまで連れて行っちゃったじゃない? ルチナリスさんたちが人間界に戻る時に困るでしょ。だから」
メイドコスの自称オネーサンことガーゴイルはスノウ=ベルを宿した時計を持っていた。つまりエリックは、期せずして隔《へだ》ての森を通るための鍵をふたつとも持って行ってしまっていた、ということになる。
だから片方を返しに来たと言うエリックの言い訳は理に適《かな》っているように見えるけれども……
……そのためだけに戻って来たのか? と思わなくもない。
沈黙が流れる。
エリックは剣先を床に下ろすと、顔を真っ赤にしたままアンリに人差し指を突きつけた。
「そっ、それよりも何ヌルいことやってんのさ師匠! 師匠の腕なら剣圧を飛ばすことくらいできるでしょ!?」
「お前久しぶりに来て無茶苦茶言ってねえ!?」
どう見ても誤魔化しているけれど、ツッコまないのも優しさだ。グラウスは僅《わず》かに視線を彷徨《さまよ》わせながらも短剣を受け取ると、懐にしまい込む。
何にせよ、これがなければ帰れないのは確かなのだから。
そんな感動の再会の間に今しがたの裂け目は塞《ふさ》がってしまった。
だが、裂け目ができるということがわかっただけでも大きな前進だろう。もう少し大きな裂け目なら、其処《そこ》から侵入することも脱出することもできる。
そして今は、その裂け目を作り出せる者がいる。
戻ってきた理由を誤魔化すために怒鳴られたアンリは気の毒だが、起死回生のチャンスが見い出せた。きっと最後の。
「勇者様。それ、もう1回やってもらえますか? 全力で」
光の外で犬《グラウス》が叫んでいる。
魔法陣の内側に入る策でも思いついたのだろうか。邪魔なのだが。
紅竜はにわかに動きが激しくなった光の壁の外側を眺めながらひとつ溜息をついた。
折角《せっかく》ふたりで逝《い》けると思ったのに、今際《いまわ》の際《きわ》に青藍を奪われるなどとんでもない。あの男《グラウス》もモブ娘《ルチナリス》もアンリも救い出す気があるのは青藍だけだから、下手《へた》をすると彼らが青藍救出の喜びに沸くのを尻目に、私ひとりが誰の気に留まることもなく消滅することになりかねない。
そんなこと許さない。
――出テ、コイ
そしてもうひとつはこいつだ。
初めて出会った時から人語を解していたこれは何だ。ただの魔力の塊のくせに何故《なぜ》意思がある。付喪神《つくもがみ》のように、モノに魂が宿ったとでも言うのか。
最初から私を利用するつもりだったのか。
もし他の場所に封印されていたのなら、私以外の誰かがこの地位にいるだけだったのか。
私が魔族の頂点に立っているのは私の実力でも努力でも何でもなく、全て闇に踊らされていただけだったのか。
「出て行って、私をどうする気だ。食らうのか?」
餌とするには私の魔力は乏《とぼ》しい。
青藍の魔力を吸って膨れ上がってきた闇が、今更私程度の魔力で満足するとは思えない。生贄《いけにえ》だから少量でもいい、なんてことはないだろう。
「それともこの身を乗っ取って魔界を掌握《しょうあく》するつもりか?」
煩《うるさ》い年寄りは片付けた。私を蹴落とそうとする気概《きがい》のある者もいなくなった。生き残っている者がほぼ私の傀儡《かいらい》と化している今、主《あるじ》の中身が変わったところで気がつく者もおるまい。
自分を封じた連中への復讐――とは言え、いくら長命の魔族と言えどその全てが彼岸に行ってしまった今、対象となるのはその子孫だろうが――を果たすつもりだとしても、前述したように傀儡《かいらい》しか残っていない。命ずれば何の疑問も抱かずに死ぬような奴《やつ》らに惨《むご》たらしい最期《さいご》を与えたところで、長年積み重ねた憂《う》さが晴れるような反応が返って来るとは思えないが。
――無ハ全。全ハ無。
全テノモノハ 無ニ 帰《キ》ス
「無、か」
闇が何度も何度も繰り返すこの成句《フレーズ》も、今まではずっと聞き流していた。
いかにも闇が言いそうだとしか思わなかった。
しかしこの言葉のとおり、闇は最初から全てを呑み込むつもりだったのだろう。
意思もなく、ただ存在するものを全て呑み込むだけの存在。魔界の王だの、他者に認められたいだの、そんなものは闇にとっては塵《ちり》ほどの価値もないのだ。
私を生贄《いけにえ》に選んだのも、私が他の誰よりも虚無だったからだ。
「……兄上」
弟の声に、紅竜はぼんやりと宙に漂わせていた視線を戻した。
握る形になっているだけだった右手で改めて私の上着を掴《つか》み直しているのは使命を果たすまで私から離れないという意思表示なのか。愛おしいと思う反面、この感情は魅了されているからに過ぎない、弟は私のことを「倒すべき敵」としか見ていない、という考えも頭の中にしっかりと踏み止《とど》まっていて。
もしかすると闇に踊らされていたように、弟にも踊らされているだけなのかもしれない、と――。
「お前も、」
お前もそう思っているのだろう? 私は愚かだと。
そう言いかけた言葉を途中で飲み込み、紅竜は光の外を顎《あご》でしゃくった。
「お前の家族とやらが必死だぞ」
その声に、弟は光の壁の外に目を向ける。
犬《グラウス》と義妹《ルチナリス》を認識して動揺でもしてくれれば自分《紅竜》を裏切った弟に復讐した気になれるのか。それとも弟の心が自分から一瞬でも離れることを悔しいと思うか。
相反する感情に博打を打った気分だが、弟は一瞥《いちべつ》しただけで表情も変えない。
もう弟は彼らを覚えていない。
覚えていないことを何度も確認しているのに。先ほどだって己《おのれ》の承認要求を満たしたいばかりにくだらない質問をしそうになって。そんな自分があまりにも小物で弱くて滑稽《こっけい》だ。
モブ娘《ルチナリス》が叫んでいる。
眠り続けていた青藍に目を覚ます兆候を見たのは、あの娘のせいではなく、単なる偶然だったのかもしれない。青藍の中にあの娘はいない。赤の他人にいくら呼ばれたところで起きる奇跡などありはしない。
この10年、お前らが虫唾《むしず》が走るような家族ごっこで培《つちか》ってきた絆とやらは、こんなに簡単に切れてしまう。お前らがやっていたことは全部無駄だったのだ。
どうだ? これが命がけで辿りついた先に待ちうけていた結果だ。私に刃向い、暴言を吐いたことへの報いだ。
紅竜は心の中だけで呟く。呟きながら優越感に浸《ひた》る。
「お前は私だけのもの。だな?」
この弟が生まれてきたのも、他人を魅了する力を持っていたことも、全て私のため。私だけのためだ。
用意周到なことだ。その用意にうかうかと乗った私を、父《前当主》と第二夫人は草葉の陰で嗤《わら》っているだろう。
頬に沿わせた自分の手が光の粒になろうとしている。
輪郭もなく、闇に溶けてしまったものだとばかり思っていた手が光の輪郭を纏《まと》って、パラパラと崩れていく。
「はい。でも宜《よろ》しいのですか兄上は」
弟は僅《わず》かに眉を寄せ、私を見上げる。
私を消し去ることに罪悪感でも抱いてくれているのか。意識を失くしてしまった間に打ち捨てていくこともできたはずなのに何故《なぜ》いるのだろう、とでも言いたいのか。
「気が変わった」
お前を救い出すために必死になっている者がいる、と弟に教えたらどんな反応をするだろう。
捨てる命を惜しいと思うだろうか。
その者との未来を描くだろうか。
そんなこと、私が許さない。
弟は紅く染まった瞳で微笑《ほほえ》む。私だけを見ていてくれる。
その笑みに光の粒子が混じる。ほろほろと溶けるように崩れていく。
ああ、いいじゃないか。
あの駄犬の目の前で、最愛の姫を道連れに消滅するのも一興。最期《さいご》の最期《さいご》に自分より兄を選んだのだと、その事実に打ちのめされて残された犬がどんな末路を歩むのか、見られないことだけが残念だ。
勇者《エリック》の剣が切り裂《さ》いた光の壁に手を突っ込み、こじ開ける。
そんな力業《ちからわざ》が通用するのか半信半疑ではあったが、実際に剣圧で裂けたのだから不可能ではないだろう。普段の自分では決して考えない脳筋思考ではあるが、結果として状況を打開するに至るのならそれでもいい。
「つっ……!」
アンリもルチナリスも、そして剣を振るった後のエリックまでもが一緒になって裂き跡をこじ開けようとしている。光に触れれば自身の手も無事では済まないと言うのに。アンリやエリックはまだ籠手《こて》で覆っているがルチナリスは素手だ。
「あなたは離れていなさい!」
「嫌です! あたしはお客さんじゃないから! 仲間でいたいからっ!」
魔族ばかりの城で魔王陣営として戦うわけでもなく、ただ守られていたことに、聖女候補と呼ばれても力も出せず、周囲から恩恵を受けるだけだった自分に、ルチナリスはルチナリスなりに引け目を感じていたのかもしれない。
その間にも、迸《ほとばし》る光が裂いた跡を埋めようとする。
埋まるのが先か、裂くのが先か。
「青藍、様」
諦めてしまいそうになる気持ちを奮い起こして、グラウスは裂け目から手を伸ばす。
指先が、手の甲がバチバチと音を立てる。
皮が剥《は》がれて血が吹き出す。
「出、て」
何故《なぜ》だ。
聞こえているはずなのに、青藍は動こうとしない。第二夫人の策を全うするつもりでいるのか? 何処《どこ》まで自分を犠牲にすれば気が済むんだ!
「道具じゃない! あなたは、道具なんかじゃないんだ! こんなところで終わらせてたまるか!!」
闇も世界もどうでもいい。あなたさえいてくれれば。
そんな小さな願いすら叶えられないのなら。
「はや、く……っ」
肩が入った。もう少し、もう少し……。狭い隙間をこじ開けるように、グラウスは自身を裂け目にねじ込む。伸ばし続けている腕は、血によるものか肉が見えてしまっているのか、赤く染まっている。
手も腕もくれてやる。それであの人を取り返すことができるなら。
足も、体だって持っていけばいい。
だから。
「どいて!」
言うなりエリックが剣を突き立てた。
火花が散る。切っ先が裂け目を開いていく。零《こぼ》れていく刃の欠片《かけら》が光の中で乱反射する。
「切ってくれよ! 聖剣なんだからっ!!」
エリックは両手で柄を握ると大きく横に払う。
「グラウス様! 行ってぇぇえええ!!」
悲鳴に近いルチナリスの声と共に、裂け目が広がった。
一瞬、全ての抵抗がなくなり、グラウスは光の中に転がり込んだ。
バリバリと、魔法陣の外からではわからなかった光の渦が容赦なく体を打ちつける。裂け目をこじ開けることで血みどろになった手の痛みを感じる暇もないほどに。
これでは動けなくてもおかしくはない。紅竜は何故《なぜ》逃げないのだろうと思っていたが、その考えは浅はか過ぎた。
これは聖女の力を得た光。闇を、魔族を浄化する力。黙ってって光を浴びているだけでも魂が削り取られていくようだ。
数歩先に人影が見える。
駆け寄れば大したことのない距離なのに酷《ひど》く遠い。すぐに魔法陣に貼りついて動かなくなる足を1歩、1歩、引き摺《ず》りながら先に進む。
「青藍様!」
聞こえているのだろうか。顔は見えない。こちらを見ない。兄に縋《すが》りつく形のまま動かない。
いや、動かないんじゃない。
見える。肩から、足から、徐々《じょじょ》に細かい光が零《こぼ》れていくのが。崩れるように……いや、本当に崩れていっている。
ぐらりと青藍の体が傾《かし》いだ。
それを紅竜が支える。
手を伸ばそうとしているグラウスをちらりと見、彼は殊更《ことさら》大事そうに弟を抱き寄せた。
「青藍様!」
駄目だ。
もう青藍に意識はない。本来持ち切れない量の魔力は彼の許容量《キャパシティ》を超えて、彼自身を蝕《むしば》んでいる。
「必死だな。そこまでして飼い主に置いていかれるのは嫌か」
青藍がいれば紅竜もいる。
青藍以上に雲の上の存在だった彼が自分と同じ高さに――いや、向こうが座り込んでいて自分が立っているのだから下に――いると言うのも不思議な感じだ。
目の前に立つ自分《グラウス》に、冷笑と呼ぶには何処《どこ》か温かみすら感じる笑みを浮かべていることも。
「何とでも……言って、下さい。私は、」
紅竜はきっともう、この光が何たるかを知っている。
知っていて、滅びを受け入れようとしている。弟を道連れに。
だが何故《なぜ》だ。
魔界貴族の頂点に立ったばかりのこの男が、たかが魔法陣に閉じ込められたくらいで滅びを選ぶ理由がわからない。青藍を抱えていて動けないのなら置いていけばいい。
グラウスはちらりと背後を見る。力を合わせて切り裂いた裂け目は元に戻っている。が、今問題にすべきは裂け目ではなく、裂け目から此処《ここ》までの距離。
魔を滅する力に押さえ込まれながらも自分は此処《ここ》まで来た。兵士やケルベロス、闇に染まった客人にアイリス、と立て続けに戦い、満身創痍《まんしんそうい》だった自分でさえ此処《ここ》まで歩けたのに、ずっと高みの見物に徹して体力を温存していた紅竜が動けないはずがない。
自分たちに追い詰められて全てを諦めた、と思うのも弱い。
|未《いま》だ魔界貴族の大半は紅竜を妄信している。紅竜がしたことを洗いざらいぶちまけたところで彼らが信じるのは紅竜の言《げん》であり、むしろ紅竜の命を狙ったとして自分たちが罰せられるのがオチだ。
闇を封じ込めたと言っても完全に消えたわけではない。この城に巣食う闇の力は削いだかもしれないが、ルチナリスが言うように人々の心の中に存在し続けているのだとすれば、紅竜が改めて闇の力を得ることは可能だ。
なのに何故《なぜ》。
自分たちにしてみれば紅竜が諦めてくれれば願ったり叶ったり。わざわざ「こんなところで諦めるなんておかしい」と声を上げる必要などない。
ないけれども気にならないわけではない。
だが今は、それよりも彼《紅竜》が抱えている弟《青藍》だ。
意識がないから逃げられないのではない。
彼は、兄と共に逝《い》くつもりだ。闇を消すという役割自体が、彼が最後まで兄《紅竜》と共にいなければ効果がないのかもしれない。
片方の手が紅竜の上着を握っているのを見、グラウスは唇を噛んだ。
「……返してください。その人は、私の番《つがい》です」
傍《そば》にいるって約束したじゃないですか。私と。
あなたと交わした約束はまだ叶えてもらっていない。月を見上げて昔話をしようと言ったことも、パンケーキを焼いてくれると言ったのも。
「そんなこと誰が決めた。これはもうお前のことなど覚えていないし、その感情すら魔眼に植え付けられた偽りのものでしかないと言うのに」
「私の感情が偽りかどうかは私が決めます。返してください」
「第一、身分からしても性別からしても、お前にくれてやる理由など何処《どこ》にもない。お前が一方的に付きまとって、一方的に関係があるように言ったところで無効だ」
「あなたの許可を得ようとは思いません。返してください」
「これを返せば世界が滅びるとしても?」
「世界など関係ありません。返してください」
「お前を此処《ここ》に送り込んだあいつらを死に至らしめても我《が》を通すと? 傲慢だな」
「それはあなたも一緒でしょう!? 私はあなたが青藍様をどう扱っていたのか知っています。痛めつけて、傷付けて、騙して、許婚《いいなづけ》に逃げられたとか当主になるのが大変だったとか魔界を統一するとか、そんなものは私にとってはどうでもいいことだし青藍様が許したとしても私は許さない。ただ、あなたが其処《そこ》にいる権利はないんです。返してください」
身を屈めて、青藍の腕を掴《つか》む。
それでも彼が紅竜の上着を離すことはない。意識などないはずなのに。力も入っているように見えないのに。それが兄と離れたがらないでいるように見えて、何とも腹立たしい。
「弁が立つ男は鬱陶しいな」
「何とでも。あなたに好かれようとは思いません」
「最後の最後に胸糞悪い三文芝居を見せられるとは。だが、これは私のものだ。お前には渡さない」
「その言葉はそっくりお返ししましょう」
視界が白に塗り替わっていく。
魔法陣が最終局面にでも入ったのか。紅竜や青藍から零《こぼ》れていく光の粒のせいか。それとも自分自身も光の粒に変わろうとしているからか。
月の下で、噴水の水飛沫《しぶき》の向こうであの人が手を振っている。
あの家にいることがあの人にとって不幸にしかならないとわかっていたのに、私はひとりで出て行ってしまった。
紅《あか》い絨毯《じゅうたん》を敷いた廊下をあの人が去っていく。
死に物狂いで追いかければ捕まえることができたかもしれないのに、私は止められたまま追おうとはしなかった。
雪の日にひとりで出ていくというあの人が、窓辺に立っている。
「此処《ここ》を守って」という言霊《ことだま》に縛られて、私はあの人をひとりで行かせてしまった。
血だらけの室内で涙を押し殺して泣いているあの人がいる。
あの時も私は私自身の邪念に負けて、あの人の傍《そば》を離れてしまった。
くだらない口喧嘩の末、あの人が城を飛び出した時も。
遠い町で行われる催しにひとりで参加すると言われた時も。
私は待っているだけだった。
手を離してしまうから駄目なんだ。
ずっと、この手を……死んでも、離したら駄目だったんだ。
何も見えなくなる中で、グラウスは掴《つか》んだままの腕を手繰《たぐ》り寄せた。