闇の蔓は追ってはこない。
ミルも戻っては来ない。
どんな結末になったのか気になるけれど、もし想像しているとおりの結果が待っていたらと思うと戻ることもできず、また、進むこともできない。
「ミルさん、死んじゃってたらどうしよう」
「ほら。師匠が言ってることが合ってるとはまだわかんないんだしさ。僕らはイチゴちゃんを信じて先に行くしかないよ。ね」
そう言って宥《なだ》める勇者《エリック》を始め師匠《アンリ》も執事《グラウス》も動じないでいられるのは、あたし《ルチナリス》よりも先にこの件を聞き、あたしよりも先に結論を出しているからなのだろう。
此処《ここ》で待っていたって時間の無駄でしかない、と……きっと今のあたしと同じように葛藤して、葛藤して、それで、その結論に。
だが寝耳に水のあたし《ルチナリス》にも同じように今すぐ納得しろというのは無理な話だ。
師匠《アンリ》の推測は間違っているかもしれない。
今こうしている間にもミルはアイリス相手に苦戦していて、自分たちが助太刀に戻れば勝てるギリギリのところにいて。放置する《先に進む》のは見殺しにすることになるのかもしれない。
――デモ、モシ違ッタラ?
心の中で闇のあたし《闇ルチナリス》が異を唱える。
――あいりす ダケガ 残ッテ イタラ?
みるノ 善意ヲ 無駄二 スルノ?
もしミルが負けていたら。
消えてしまっていたら。
アイリスだけが残っていたら。
戻った先がその状態だったなら、あたしたちは再び足止めを食らうことになる。また何人か……もしかしたら全員が、此処《ここ》でGAMEOVER《ゲームオーバー》だ。
「だけど、」
「……私達には優先すべき目的があります。全員の希望を尊重して全員失敗するのがいいか、ひとりでも達成するほうを選ぶか。こればかりは他人が指示するものでもありませんからご自分で決めて下さい、進退を」
執事《グラウス》の言い方は冷淡だ。何時《いつ》まで経《た》ってもウダウダと理由を付けて立ち止まっているばかりのあたしを見限ったのかもしれない。
いや、見限った、とは少し違う。
自分は進むからお前は勝手にしろ、と言われている。すぐ先に義兄《あに》がいるのに足を引っぱられているのだからその塩対応は当然だ。
きっと戻ったところでミルも同じことを言うに違いない。
『何しに戻ってきた。先に行け』
と。
でも。
「あなたが最善と思う道を」
最善って何よ。
ルチナリスは黙り込む。
自分は他の3人と違って戦闘能力は皆無と言っていい。戻りたいが、戻ったところで足手まとい以外の何にもなりはしない。
他人が指示するも何も、選べる選択肢自体が「皆に張り付いて先へ進む」以外にないのにどうしろと。……と言うのは、無力な自分を正当化するだけの言い訳。毎日図書館に通って、本を読んで、呪文を復唱する「何かやっているふり」で無駄に時間を浪費して、才能のある他人を羨《うらや》むばかりで、結局何の力も手に入れられなかったのはあたしだ。
その結果が今のあたし。選べるだけの選択肢も現れない。
「行こう。イチゴちゃんは負けたりしないよ。信じようよ」
勇者《エリック》は再びルチナリスを促《うなが》す。
「進める時には進むんだよ。今は進む時。それを作ってくれたのはイチゴちゃんなんだから」
「うん……」
そして話題を変えるように窓の外に目を向けた。
「そう言えばさ、僕らこんなに走り回ったり暴れたりしてるのに、誰も来ないよね。お客さんみたいな人たちは見たけど、兵士は全然」
言われて見れば、地下水路の入口をこじ開けようとしている時は兵士の足音や話し声が聞こえたけれど、今は全く聞こえない。
アイリスの蔓で廊下が塞がれているからそこで立ち往生しているのかもしれないが、目的が物取りか誘拐か暗殺かも不明な賊《ぞく》が侵入しているのに進めないから待つというのは、あまりにも長閑《のどか》すぎる。道《ルート》は1本ではないのだから迂回してでも向かうのが普通だろう。賊《ぞく》が向かった先に自分たちの主《あるじ》がいるのならなおのこと。
「ルチナリスさんが寝てる間にはね、3回くらい襲撃を受けたんだよ。お客さんみたいな人たちから」
「ああ。俺らのところにも来たぞ。1回あたり2、30人はいたから、お前らのほうと合わせて150人くらいは倒したことになるな。”お客さんみたいな人ら”を」
師匠《アンリ》が執事《グラウス》に確認するように目くばせしながら口を挟む。
150人と言えば結構な人数だ。大貴族の当主の婚礼の儀に集まって来るにしては少ないと思われるだろうが、挙式当日でもないのに既《すで》にそれだけの人数が集まっていると考えれば決して少なくはない。
ルチナリスも勇者《エリック》に倣《なら》って外を目を向ける。
見下ろせる位置にある中庭は木が茂っているせいで見辛《みづら》いが、目を凝らして探してみても動く影はいない。
勇者《エリック》が言うには此処《ここ》に来る途中、夜会らしき宴が催されているのが見えたそうだが、もう終わったのだろうか。夜会が終わって帰って来たところで得体の知れない侵入者集団と鉢合わせしたから、攻撃してきただけなのだろうか。
上級貴族の挙式に招待されるくらいなのだから、皆、結構な家柄ばかりのはずだ。
そしてそんな家柄の人々の間では純血が尊ばれている。混血は血が薄くなるからか、魔力、戦闘力とも純血のほうが勝るらしい。義兄《あに》は突然変異らしいので引き合いに出すには憚《はばか》られるが、執事《グラウス》並みの魔法を繰り出してくる人たちであることは間違いない。
そうして勇者《エリック》が話をしている間にも、執事《グラウス》と師匠《アンリ》は先に進んでいる。階段を下りていく。
別の階《フロア》になってしまったら、ミルの元に戻ることは、物理的にも精神的にも難しい。
此処《ここ》はもう、彼らが言うように、彼女が後から追いつくことを期待して先に進むべきなのだろう。
「警備の人もいるだろうから騒ぎが起きれば駆けつけるよね? 関わっているのが招待したお客さんなら尚更」
そうして執事《グラウス》と師匠《アンリ》の背を追って歩く間も、勇者《エリック》の話は続く。
声が薄暗い廊下に広がって、溶けるように消える。
この城の当主である紅竜という人物は、邪魔に思う人々を何人も消して来たと言う。
時の権力者の実力を誇張するために大袈裟に言った噂ではあるが、火のないところに煙は立たない。招待客の中には極秘裏《ごくひり》に暗殺するつもりで呼んだ者だっているかもしれないが、よもや全員ではあるまい。
招待客が誰ひとり帰って来ませんでした、なんて、いくら権力者であろうとただでは済まない。客の立場でありながら此処《ここ》の兵士の代わりに侵入者を倒そうという気概《きがい》に溢《あふ》れていても、紅竜のカリスマに妄信していたとしても、見て見ぬふりができる範囲を超えるだろう。
ひとりなら声を上げないかもしれないが、誰かが上げれば追随《ついずい》する。そうして失脚に追い込まれ、歴史から消えた権力者は大勢いる。
「いや。貴族様がたは極力手は出さねぇ。だからああして襲って来るのはおかしい」
前を行く師匠《アンリ》が、背を向けたまま口を挟む。
その声に、
「だよねぇ。イチゴちゃんとも話してたんだよ、ご婦人やお嬢さんまでもがゾロゾロしたドレスのままで戦闘に参加するはずがない、って」
と勇者《エリック》も賛同している。
自分の家ならともかく、他人の、それも招待客としている場所で大立ち回りをするはずがない。むしろ戦闘とは縁遠い、と言うのは「お貴族様」の名称を前にして自分たちが勝手にイメージづけているだけではあるけれど。
彼《アンリ》はもう何十年も前に魔界を出ているから今の魔界は知らない。招待客でも敵を見つければこぞって倒しに行くのが今の|主流《トレンド》かもしれない。
ひとり倒すごとにシールが貰えて、100枚集めたら非売品の買い物袋と交換できる……なんて貧乏くさいことは貴族様は無縁だろうけれど、無縁だからこそ面白がって流行《はや》っているとも考えられるし、そもそも買い物袋よりもっとお高いもの――宝石とか新型の馬車とか――でもいい。
が、いくら考え方が変わったとしても景品目当てに賊《ぞく》の討伐は無理がありすぎる。
紅竜に恩を売るつもりで戦っていると言われたほうが余程《よほど》納得できる。
「そうだな。好条件がぶら下がっていれば恩を売ろうと考える連中もいるだろうが、奴《やつ》らはほとんどハイエナだ。俺たちが城内を引っ掻《か》き回してメフィストフェレスの力が弱まることを小躍りするような連中ばかりさ」
「嫌われてるんですか?」
「上に立つ者は意味不明に嫌われるもんさ。特にうちは紅竜の代になってから急に勢力を伸ばしたからな。気に入らない、って連中も多い」
その筆頭がアイリスの家《ヴァンパイア》なのだそうだ。
剣と魔法のファンタジーな世界も人間界と変わらない。
が、それが普通なのだろう。何が凄いのか全然伝わってこない主人公を誰も彼もが肯定して褒め称《たた》えたり、何処《どこ》の馬の骨かもわからないヒロインがあっさり后に迎えられることに大臣も国民も誰ひとり反対しないどころか諸手を上げて大喜び……なんていう平和な脳内お花畑'sが許されるのはそれこそファンタジーの中でだけ。幸せの陰《かげ》に語られないあれこれが詰まっているからこそ、現実《リアル》というものだ。
招待客の全員がそうだと言い切ることはできないが、大半が師匠《アンリ》が言うように見て見ぬふりをしながら紅竜が失脚するのを待っているのだとしたら、新たな強敵の出現はそれほど心配しなくても済むかもしれない。
こうして進んでいる間も新たな敵とは遭遇しない。
紅竜や義兄《あに》に近づいているのだから警備も厚くなっているはずなのに、自分たちの位置はまだ把握されていないということなのだろうか。侵入していることは知られているのだから、何時《いつ》までも水路の入口だの門扉だのを見回っているはずもないのだが。
メイド、執事、料理人といった非戦闘員な使用人に至っては、夜会開催中~終了後の後片付けという主業務が忙しさMAXで手を貸すどころか借りたいくらいだろう。ひとり、ふたりなら見かけるかもしれないが、集団で現れる可能性は薄い。
ガーゴイルは……
「呼んだぁん♡」
「(ぎゃあああああああああああっ!!)」
誰も呼んでないから!
そんなツッコミを思いつくまま叫ぶほどには自分はヒロインの器ではなかったらしい。ルチナリスは両手で口を押え、悲鳴と叫び声を呑み込む。
「(なんであんたらがっっ!!)」
襟元に紅《あか》いリボンを結んだメイド服のガーゴイルは敵属性。ノイシュタイン城にいた連中と記憶を共有しているからあたし《ルチナリス》のこともご近所の口しか出さないオバチャン並に知っているそうだが、紅竜配下であることに間違いはない。
だがしかし。
何故《なぜ》こいつらが。気配と姿を消すのは彼らの十八番《おはこ》だから、今までもずっと姿を消したまま傍《そば》にいたのだろうか。
確か……確か、そう。前回登場した時は犀《さい》までやってきた。もしかしたら今回も犀《さい》が出て来るまでの前座として現れたのかもしれない。だとしたら、とんでもなく面倒なことになりそうだ。
「あなたたちは、」
ただごとではない空気を察したのか、執事《グラウス》が振り返り、ガーゴイルを見て息を呑む。
メイドコスの破壊力に屈したのか、自分《ルチナリス》同様、以前に会っているのか。ノイシュタイン城のガーゴイルだと思っているのだとしたら違うと教えなければ、と1歩足を踏み出したルチナリスだったがそれは杞憂《きゆう》に終わった。
「……今度は何の用です」
探りを含んだ執事《グラウス》の声によって。
ガーゴイルたちの背後には漆黒が広がっている。
自分《ルチナリス》たちも今の今まで歩いて来た廊下のはずなのだが、まるっきり違うものに見える。
そしてその前に立つメイドコス《コスチューム》の人外は漆黒を象徴するかのよう。捕まったら引っ張り込まれてしまいそうで、ルチナリスは数歩後ずさった。
「どぉしたのぉ? るぅチャン」
「……いや、別に」
あたし《ルチナリス》を知っているけれど、知り合いではない。ノイシュタイン城にいた他のガーゴイルたちと記憶を共有するらしいので、正確には「一方的な」知り合い(当然矢印はガーゴイルからあたしに向いている)という奴《やつ》だ。もしかしたら数十分前に出会ったガーゴイルと同じものかもしれないけれど、外見も記憶も同じ連中の中から見極めるのは困難だし、第一、当てても外れても対応の差はない。
一応はあたしの敵に属する者ではあるけれど、自称「子供の成長を生温かく見守るご近所のオバチャン's」だそうだから、心は味方かもしれない。ほら、物語の中盤で寝返る敵役みたいな立ち位置の。
ただ彼らは犀《さい》に従う。
直属の上司だから当然と言えば当然だけれども、犀《さい》に反旗を翻《ひるがえ》してまで味方でいてくれるかと言えば、答えは「否」だ。
異変を察して声をかけて来た執事《グラウス》のほうを見れば、後光のように明るい光がさしている。
きっとあれが離れへの連絡通路なのだろう。窓が大きく取られているのか、そもそも屋根がないのかは不明だが、目の前の暗闇に比べると明るいというだけで希望に満ち溢れて見える。
あの先に義兄《あに》がいる。
ミルが身を挺《てい》してあたしたちを先に行かせたように、もしこのガーゴイルたちが邪魔をしてくるのなら、あたしが盾にならなくては。
ルチナリスは拳《こぶし》を握ると、執事《グラウス》とガーゴイルとを見比べた。
あたしは戦力にならないから。
この先に控えているであろう犀《さい》や紅竜には歯が立たないだろうけれど、ガーゴイルならどうにかなる。あたしを幼児の頃から知っている(であろう)彼らは、あたしに対して実力行使はしてこない(はず)。情に訴えれば隙はできる。
この策はあたし以外にはできない。あたしが、適任。
ルチナリスは心の中でそう呟きながらも耳を澄ます。
いつもなら耳の奥で、頭の中で、「偽善者」と嗤《わら》ったであろうもうひとりのあたし《闇ルチナリス》の声は、どれだけ耳を澄ませども聞こえては来ない。「きっとあなたを受け入れられる」なんて偉そうに言ったあたしを、お手並み拝見とばかりに冷ややかに傍観しているのだろう。
此処《ここ》で盾になったら、あたしは義兄《あに》には会えない。
再び人間界の土を踏むこともできない。
そう言えばミルがあたしに期待していると言っていたけれど、何の成果も出さずに此処《ここ》で死んだら、その期待をも裏切ることにもなる。何の期待かはわからずじまいだったけれど。
「いやぁねぇ。親の仇《かたき》に会ったみたいな顔しちゃって」
ガーゴイルは相変わらずクネクネと軟体動物のように腰を振っている。
武器になりそうなものは手にしている|箒《ほうき》だけだが、達人が持てば木の棒も小石も武器になるように、あの箒《ほうき》だって甘く見ることはできない。
執事《グラウス》も聞いていたが、いったい何の用で来たのだろう。彼らはその問いには答えていない。
足止めか。
倒すためか。
まさか雑談をしに来たわけではあるまい。10年暮らしたあたしにはわかる。
奴《やつ》らは空気が読めないふりをしているだけ。馬鹿の振りをしつつ、本当に黙っていないといけないことは隠してしまうのだ。
「行きましょう」
ルチナリスは勇者《エリック》の兜《かぶと》から垂れ下がった紅《あか》い羽根飾りを掴《つか》むと踵《きびす》を返した。
これは彼ら流の時間稼ぎ。彼らのペースに乗せられて話題を明後日の方向に逸《そ》らされたことも、無駄に尺《しゃく》を使ってしまったことも数知れない。
だったらこちらにできることは相手をせずに進むことだ。少なくとも執事《グラウス》たちは一緒になって立ち止まっていてはいけない。
「こんなところで止まってるわけにはいかないわ。そうでしょ」
そして執事《グラウス》に向けて勇者《エリック》の背を押す。
残るのはひとりだけでいい。
大丈夫。ガーゴイルが相手なら死亡フラグは立たない。多分。
「ル、」
「いいから行って!」
「――離れに行っちゃったら戻って来られないから、早めに言っておこうと思って追いかけて来たのにぃ♡ わかんないのぉ?」
「わかりません」
「っ、だー!!!! グラウス様は少し黙ってて!」
余計な口出しは無用。むしろ喋るな。応対するな。あたしの犠牲も無駄にするな!!!!
ガーゴイルの扱いに関してはあたしよりも把握しているであろう執事《グラウス》がそれに気付かないのは、気が急《せ》いているからに他ならない。十数歩先には義兄《あに》がいるという離れがあるのだから仕方ないとは言え、メンバーきっての策士が猪突猛進な猪モードに入ってしまったらこの先、犀《さい》や紅竜が出て来た時にどうするんだ。と心配にもなる。
あたしの思惑を察してくれたのか、師匠《アンリ》が「行くぞ」と小さく声を上げる。
執事《グラウス》と勇者《エリック》はあたしの保護者のつもりでいるからか、躊躇《ためら》いがちで足取りも重いけれど。あとは師匠《アンリ》に任せよう。
ルチナリスは彼らに背を向け、ガーゴイルに向き直った。
「で? 言うって何を?」
「あのね」
ガーゴイルは周囲を見回すとルチナリスに近寄り、耳元に口を近付けた。
パックリと頭から食べられるのではないかという恐怖と戦いつつ、ルチナリスは耳を傾ける。これで、ふっ、と息を吹きかけるだけだったら拳《こぶし》の形がわからなくなるほどに凹《ボコ》る自信がある。
「――さっき助けたウサギちゃん、お姉様のところに置いて来てるけどよかったかしらぁん?」
「ウサギ!?!?」
そう言えば!
勇者《エリック》は手ぶらだった。もちろん背負《せお》っても、兜《かぶと》の中に入《い》れてもいない。執事《グラウス》や師匠《アンリ》も同様だ。と言うことは!
「どうしよう柘榴《ざくろ》さん置いて来ちゃった!」
何ということでしょう! ミルの邪魔しないように、と涙を呑んで此処《ここ》まで来たと言うのに、しっかり邪魔をしているではありませんか!
ルチナリスの脳内で謎ナレーションが高らかに声を上げ……口からも高らかに声が上がった。それが先に行かせようとしていた彼らの足を止める台詞《セリフ》だとも気付かずに。
しかしテンパってしまうとそのあたりの判断力は0《ゼロ》になるもの。
どうしよう。ミルの邪魔になっていなければいいのだが、そう思う時に限って邪魔になるもの。でも取りに行くには情報源《ガーゴイル》が邪――。
「僕やっぱり行ってくる!」
その前に勇者《エリック》が動いた。ルチナリスの横をすり抜け、ガーゴイルたちを押し退《の》け、あっという間に漆黒に飛び込む。そして呼び止める間もなく、足音も人影もその中に溶けてしまった。
思えば、この中で1番助太刀に戻りたかったのは勇者《エリック》だったに違いない。
ミルの意思を尊重して此処《ここ》まで来たものの、1歩を踏み出す切欠《きっかけ》が、師匠《アンリ》や執事《グラウス》に「それなら仕方がない」と思わせる理由がなかったのだろう。
そして。
「え? あ?」
勇者《エリック》に先を越されて自分のしでかした失態に気付いたルチナリスは途方に暮れる。
メンバーがひとり減ったのもガーゴイルたちの策略のうちだったのだろうか。まだ減らすつもりだろうか。彼らは再び口を開く。
「ウサギさんのこともそうだけど、あたしたちが心配なのはるぅチャンよ。ねぇ、紅竜様に敵対するのはおやめなさいな。老婆心からの忠告……って老婆じゃないけどぉ♡ 心はギャルだけどぉ♡」
何百年も前に作られた石像が何を言う。十分に老婆だ。性別が女なら。
そんなツッコミもルチナリスは堪《こら》える。奴《やつ》らのペースに乗ってはいけない。奴《やつ》らは|犀《さい》や警備兵が来るまでの間、ボケツッコミで時間を稼いでいるだけだ。
「……私たちは敵対したくてしているわけではないのですよ? 私たちは魔界を離れて平穏に暮らしていたのに、それを壊したのは紅竜です。敵対するなと言うのなら今すぐに青藍様を返しなさい」
「それは無理。だってあたしたちが捕まえてるわけじゃないもんっ♡」
語尾が無駄にかわいいのが地味にLP《ライフポイント》を削って来る。
口が耳まで裂けた人外がメイドコスでブリブリと女言葉を喋っているのを見せつけられるのは拷問でしかないのに、どうして執事《グラウス》は顔色も変えずに応対できるのだろう。
「ね、ねぇ、ガーゴイルさんたち! 邪魔する気がないんなら止めないで。あたしは大丈夫だから。自分で決めて此処《ここ》にいるんだから」
が、執事の顔色のことは置いといて。
ルチナリスは今にも氷の飛礫《つぶて》を撃ち込みそうな形相の執事《グラウス》を警戒しつつ、ガーゴイルの両腕を掴《つか》む。
もし本当に老婆心からの忠告目的で来たのなら、その忠告は聞いた。聞いた上で大丈夫だと判断した。今なら犀《さい》も紅竜もいないから、彼らの顔色を窺《うかが》って自分の本意を曲げる必要もない。
だから止めないで。先に行かせて。
「ごめんね、無理」
「どうして!?」
ガーゴイルたちは残念そうに肩を竦《すく》めると、ルチナリスと執事《グラウス》を越えたさらにその先に目をむけた。
「――グラウス」
その時だった。執事《グラウス》を呼ぶ声がしたのは。
あたし《ルチナリス》にとって聞き覚えがあるその声は、当然執事《グラウス》にも聞き覚えがあるわけで、ついでに言えば師匠《アンリ》にも覚えがある。だってそれは他でもなく――
「青藍様!」
執事《グラウス》が声を上げるなり駆け出した。
師匠《アンリ》を押し退け、光射す渡り廊下へ。もちろん、執事《グラウス》より渡り廊下に近い所にいた師匠《アンリ》も、そしてあたし《ルチナリス》も吸い寄せられるように足が向いたのは言うまでもない。
其処《そこ》にいたのは紛れもなく義兄《あに》。
以前よりも痩せていると思ったのも、顔色が悪いと思ったのも見間違いではないだろう。手摺りに寄りかかるようにして立っている彼は気だるげながら気丈に立っているという様子で、それがさらに執事《グラウス》の庇護欲に拍車をかける。「やっとのことで飼い主に会えた飼い犬か」と悪態をつくのも申し訳なくなるほどのいじらしい必死さで走っていく。
風が強いのだろうか。青白い月明りの下にいる彼の髪が舞い、シャツの襟がはためく。その髪を片手で撫でつけるように押さえ、義兄《あに》はあたしたちに――いや、執事《グラウス》に微笑《ほほえ》みかける。
「青藍様!」
「グラウス、」
何故《なぜ》このふたりはすぐにふたりだけの世界に入ってしまうのだろう。
恩師も、そして最愛の義妹《いもうと》も此処《ここ》にこうしているというのに、何故《なぜ》! あたしまでもがOUT OF 眼中なんですかお兄様! あんまりじゃありませんか!! そりゃああたしはグラウス様みたいに全身で大喜びするなんてできないし、それどころか、そんなこっ恥ずかしいことできるかと思ってしまうかわいくない系女子ではあるけれど、それは今に始まったことじゃないし、お兄様も承知でしょう!? 少しくらいこっちを見てくれたっていいじゃない!!!!
……とルチナリスの心の中では最大級の嵐が吹き荒れる。
嗚呼《ああ》、思い返せば約1年前。フロストドラゴンがノイシュタインを襲った時もあたしは執事《グラウス》に先を越されたんだった。
奴《やつ》のほうがずっと心配していたから。食べ物も喉を通らないくらいだったんだから、だから今だけは譲ってあげるわよ、と偉そうに思ったしガーゴイルにもそう言ったけれど……悔しかったし、恰好《カッコ》つけて動けなかった自分の不甲斐なさが情けなかったことを覚えている。
ルチナリスが悲しい思い出に浸っている間にも、いち早く駆け出した執事《グラウス》は義兄《あに》に辿り着く。あっさりと蚊帳の外に出されてしまった師匠《アンリ》が複雑な顔をしながらも渡り廊下に足を踏み入れ、そしてあたし《ルチナリス》も、
「お待ち!」
1歩踏み出そうとした瞬間、肩を掴《つか》まれ、後ろに引っ張られた。
今、待てと言ったのはガーゴイルの声だった。
義兄《あに》に気を取られて彼らに背を向けた隙を見て、味方の仮面を剥《は》いだのだろうか。立場は違えど心は味方だと思ったのが甘かったのだろうか。
視界が回る。義兄《あに》に向けて伸ばした手は何も掴むことができないまま空を切る。
義兄《あに》と執事《グラウス》が、その少し後に立つ師匠《アンリ》の姿が視界から消え。上のほうに少しだけ見えていた天井が視界を覆ったかと思う間もなく、その天井も下へ飛び去る。最後に見えたのはガーゴイルの角と羽根と、そして逆さまになった顔。
あたしが見たいのはこんな女装姿の人外じゃない――!
そんな叫びが喉を飛び出しかける。
が、その前に。
ドォォン! と耳をつんざく破壊音がした。
次《つ》いで風と、砂塵。飛礫《つぶて》のように飛んでくる瓦礫《がれき》。
何が起きた? なんて考えることもできず……暫《しばら》くしてから目を開けたルチナリスの視界に広がっていたのは崩れた壁と天井。そして渡り廊下があった場所に広がる何もない空間だった。
何もない。
この建物の廊下の先に続いていた渡り廊下がない。
其処《そこ》に立っていた義兄《あに》がいない。
義兄《あに》に駆け寄っていった執事《グラウス》も、そちらに向かって歩き出そうとしていた師匠《アンリ》の姿もない。
「え?」
ルチナリスは自身の腕やら肩やらを掴《つか》んでいる枯れ木のような手を振り払い、廊下の先に駆け寄った。
先ほどまで此処《ここ》には四角く開いた空間があった。その先は離れへの渡り廊下があった。
でも今は四角い空間は輪郭をガタガタに崩し、その先には何もない。ヒュウ、と鳴く音に見下ろせば、遥か下に申し訳程度の植え込みと固そうな地面が見える。
改めて感じた高さに足が竦《すく》み、慌てて渡り廊下があったであろう空間に目を向ける。
何もない空間の向こうに建物がある。
あれが離れなのだろう。壁に四角く穴があいている。
呆然と立ち尽くすルチナリスの周囲を「怪我はない?」とガーゴイルたちが取り囲む。勝手に腕やら足やらを検分し、そして、
「うん、怪我はないようね!」
と親指を立てたがそんなものはどうでもいい。
何があった?
義兄《あに》は、執事《グラウス》は、師匠《アンリ》は何処《どこ》へ行った?
此処《ここ》にかかっていた渡り廊下は何処《どこ》へ行った?
あの大きな音は、吹き込んだ風は、飛んできた|瓦礫《がれき》は。
「だからお待ちって言ったでしょ」
待て、ってどういうこと?
待て、ってこういうこと?
「……知ってたの……?」
ガーゴイルたちはあたしに危害を加えない。
ずっと小さいことから見守って来た「ご近所のオバチャン's」的立ち位置だから、個体が違っても記憶は共有しているから、だから敵陣営にいようとも「あたしには」危害を加えない。
現に今もあたしの怪我を心配した。でも。
「知ってたの!? こうなること!!」
ガーゴイルが待てと言ったのは、渡り廊下の崩壊に巻き込まれて「あたしが」怪我をするおそれがあったから。だから声をかけて、さらには渡り廊下の被害範囲の外に連れ出してくれて。
そして瓦礫《がれき》が舞う中、きっと庇《かば》ってくれていた。
でも義兄《あに》は。
執事《グラウス》は。師匠《アンリ》は。
「……っ! 青藍様! グラウス様ぁっ!!」
ルチナリスの叫びは、砂塵《さじん》が舞う空間に溶けて、そして消えた。