ところ変わって。
アイリスの前から撤退したアンリたち一行は、黙ったまま廊下を突っ走っていた。
目指すは離れ。しかし母屋と離れとを繋《つな》ぐ連絡通路はこの階《フロア》にはない。
1階上に行くか、1階下に下りるか、と考えて、アンリは上に上ることを選んだ。偉い奴《やつ》は高いところが好きだからという理由は弟子《エリック》の考えに感化されたようで面白くないが、今現在、自分の肩にはルチナリスという推定50kg強の荷物があるわけで。彼女を担《かつ》いで下まで下りたところで、誰もいなければ再び上る必要があるわけで。
そして何よりも。
上るより下るほうが楽……というのは素人考え。実際には下るほうが足腰への負担は大きいのだ。
犀《さい》が聞いたら「寄る年波には勝てない」と鼻で笑うだろうことがわかっているだけに腹も立つけれど。
「待って下さい」
そうして階段を下りかけたアンリだったが、後ろからそんな声と共に肩を掴《つか》まれた。
グラウスだ。足を止めて振り返れば、もひとり――エリックのほうも、滲《にじ》む疲労の中に苛立《いらだ》ちと不満を浮かべている。
「やはり彼女ひとりでは無理です」
「そうだよ。見殺しにするみたいで」
闇と同化したアイリスの前にミルひとりを置いて来てしまったことが気になるのだろう。
彼らは海の魔女事件の時にも闇の蔓《つる》と対峙《たいじ》したことがあるからその威力は知っているし、中でもグラウスは今しがたまでアイリスと直接戦闘を繰り広げたばかりだ。
動きを止めるだけで一苦労の相手、しかも蔓を切っただけでは本体に影響しない。そればかりか、
「それにアイリス嬢がミルの妹というのは本当なんでしょうか。……実の妹ですよ? 責任がどうとか言う前に姉妹で戦わせるなんて、」
妹、とミルは言った。
ミルの正体はひとまず置いておくとしても、実の姉妹というのが真実なら私情も入る。妹だ、姉だ、などと言われたミルにアイリスを切ることが出来るだろうか。
確かにミルは「向かって来るなら切って捨てる」のが信条で、ロンダヴェルグの時も悪魔に変化した冒険者仲間を平然と切り捨てたらしい。
が、血の繋《つな》がりもない冒険者仲間と妹では違うだろう。余程《よほど》仲が悪いならまだしも、大抵は非情になりきれなかったほうが敗《やぶ》れることになる。
だが。
「……何とでも言え。お嬢ひとりじゃ無理かもしれねぇが、俺らが何人束《たば》になっても、多分お嬢より役に立つことはない」
「意味わかんないよ師匠!」
アイリスはグラウスですら、手傷を負わせることはできなかった。
ひとりひとりではミルの持つ退魔の剣の威力に及ばないかもしれないが、それでも連携が取れれば違うのではないか? 勝つ見込みが増えるのではないか? 姉妹で戦わせなくても済むのではないか?
エリックとグラウスがそう思っているのがひしひしと伝わってくる。
「戻っていい? 此処《ここ》ならルチナリスさんに被弾することもないから、師匠は待っててくれてもいいし、先に行ってもいい。甘いかもしれないけど、いくら適任だからってひとりだけに任せるのは……そうする”僕”が許せないんだ。だから」
「私もこれに関しては同意見です。ルチナリスを庇《かば》いながら戦うのは難しいですが、いなければ違ってくるでしょう?」
勇者と悪魔《魔族》が揃って同じことを言うなんて、世も変わったものだ。
そんな微妙な感慨を覚えて、アンリは僅《わず》かに首を振った。
違う。種族の違いは大したことではない。自分は何十年も前からそれを知っていたはずだ。越境警備の任を受け、彼《か》の地に赴《おもむ》いて。
あの地では魔族も人間もそれ以外もが混ざり合って暮らしていた。混血も多くいた。あの地の優しさを知って、自分は青藍にこの家を――血の濃さと魔族至上主義に凝り固まっているこの家を出ようと言ったのだ。
しかし今は彼らが意見を同じくしたことを喜んでいる時ではない。
そもそもあの場をおさめるのにミルが最も役立つと言ったのは、「アイリスを倒すため」ではないのだから。
アンリはひとまずルチナリスを下ろすと肩を回し、それからおもむろに口を開いた。
「……お嬢が使ってた薬草、あれはハナハッカとヒカゲノカズラを混ぜたものでな。古来から呪術に使われていた」
「呪術?」
突然振られた話題に何か普通ではないものを感じたのだろう。彼らは互いに顔を見合わせ、それから神妙な顔をアンリに向けた。
ミルの薬草とは彼女がロンダヴェルグにいた頃、毎食時に飲んでいた薬草茶の原料のことだろう。ミントのような香りがするあのお茶は彼女のお気に入りなのか、魔界へ向かう旅でも持ち込まれ、料理にも使われていた。途中で在庫が切れたらしく、カリンが「このあたりでは見つからなかった」と謝っていたのを思い出す。
「ヒカゲノカズラは切っても何日も枯れねぇってところから、生気のシンボルとされてきた。ハナハッカは媒体《ばいたい》だ。一般的には邪気を祓《はら》うくらいに使われるものだが……呪術としては死者の魂をこの世に繋《つな》ぎ止めておくのに使われる」
ロンダヴェルグを出てからグラストニアまで、ほとんど魔族に襲われることなく来られたのはそのお茶の効果だったと今なら思う。
ロンダヴェルグ陥落の一報は魔界にも伝わっている。防衛の要《かなめ》がなくなったことを幸いに押し寄せた魔族の幾人かと遭遇してもおかしくなかったのに、ピクニックかと思うくらいに平和だった。魔族であるグラウスやアンリもその薬草茶を口にして多少は影響が出ていたはずなのだが……そんなことで戦闘らしい戦闘もなく、だからその恩恵にも弊害にも気が付かずに済んでしまっていた。
もっとも、「邪気を祓《はら》う」わけだから、闇に染まっていなければ魔族と言えども目に見えて酷《ひど》い影響が出るわけではないらしい。
が、アンリが主題にしているのは「邪気を祓《はら》う」効果についてではない。
「魂っていうのは純粋なもんでな。ちょっとでも汚れた気に触れると染まってしまう。そうして汚れに染まった魂は悪霊となって人を襲う。肉体があるうちは肉体が障壁《バリア》の役割を果たしてくれるからそう簡単には染まらないんだが。
ハナハッカとヒカゲノカズラはそうして呼び出した魂が汚れないように守る、障壁《バリア》としての役目もある」
アンリは何を言っているのだろう。
魂だの肉体だのがミルとどう関係して来ると言うのだろう。
「あなたは……彼女の何を知っているんです?」
グラウスが呻《うめ》く。
ミルの同行を許したのはアンリだ。剣に生きる者同士、見えない絆でもあるのかと思ったこともあったけれど、もしかしたらその前からの知り合いだったのか?
人となりを知っているから連れて行っても安全だと思ったのか? 魔族だから魔界に行っても大丈夫だとわかっていたのか?
『やめろ!お嬢! その娘は』
『知っている!』
ミルがアイリスの姉であることも、わかっていたのか?
「そう言えばミルさんって師匠のことをアンリ先生って呼んでたよね。知り合いだったの?」
エリックの問いに、アンリは遠くを見るように顔を上げた。
「……そうだな。もうかなり昔のことになる」
その頃、アンリは魔界にあるとある町に居《きょ》を構えていた。
メフィストフェレス本家を追われ、ベランダからケルベロスと共に落下した彼だったが、運のいいことにそのケルベロスが下敷きになってくれたおかげで致命傷は免《まぬが》れた。
とは言え、本家の近くは他人《ひと》の目がある。こんな時ばかりは城下町の通報システムを怨《うら》めしく思ったが、生きていることが紅竜に知られては今度こそ息の根を止められる。青藍を再び救い出す機会を待つにしろ、彼に知られないまま早急に彼《か》の地を去る必要があった。
人間界にまで行けば追手は撒《ま》ける。だが隔《へだ》ての森を通る手段がない。行き場を失い、潜伏しているだけのつもりが何時《いつ》の間にか定住に変わり。
この町はそんな諸事情で魔界を追われた者が吹き溜まった町だった。
皆、脛《すね》に傷を持つ者ばかりと言うわけではないが、そういった過去を持つ者も多いこの町では、素性を探らないのが暗黙の了解となっている。何処《どこ》かから追手が来たとしても、そもそもお互いに何処《どこ》の誰かも知らないから売りようがないし、売られることもない。
本家からの追手が此処《ここ》まで来たかどうかは不明だが、そういったおかげで見つかることもなく、気づけば数年が経《た》っていた。
右目の傷も癒《い》え、片目でも以前と同程度の腕が振るえるようになってくると、何処《どこ》から聞きつけたのか用心棒などの依頼も来たし、腕に覚えがある者に喧嘩を吹っ掛けられたりもする。
が、何にせよ腕がいいという噂が流れてくれたおかげで日々の仕事には事欠《ことか》かず、アンリは本家のことを記憶の隅に追いやったまま日々の暮らしに明け暮れていた。
そこにある日、ひとりの男が現れた。
立身出世を夢見て剣の修行を付けてほしいとやって来る若者も多くいたが、彼らと一線を画していたのはまず第一に年齢だろう。頬のこけた風貌から、やもすればアンリよりも老けて見えるその男は、多くの若者と同じように剣の稽古をつけてくれと言ってきた。
「お前、その歳で勇者にでもなるつもりか?」
勇者というのは人間の中でも「悪魔《魔族》と戦うことを目的とする者」を指す。だから「勇者を目指す」というのはこの町ならではの皮肉だ。
この町に生きる者は大半が追われて来た者。つまりは(とある特定の)悪魔《魔族》から敵と見なされた者。「勇者になる」とは敵と見なされた相手《魔族》を返り討ちにすることを言う。
男は、中肉中背と言えば聞こえはいいが、見るからに筋肉などない。生まれてこのかた力仕事をせずに生きて来た男というのはそうそうお目にかかれないが、彼はまさに力仕事をしたことなどなさそうだった。
教師か、役所の事務方か。
まさか「やんごとなき身分のお方」ではないと思うが、もしそうであっても違和感を感じない物腰で、だからこそ「勇者になって一発当てる」などという浮世離れした《世間知らずな》発想で此処《ここ》に来たようにも見える。
「勇者?」
男は笑う。
「剣と言うものは姫を守るためにあるのだと思っていたが、今は勇者とやらになるための道具になり下がったのか?」
「お前さんには守るようなお姫様がいるわけだ」
茶化すように言いながらも、アンリの中でゆっくりと封じていた記憶が蘇《よみがえ》る。
助け出そうとして目の前で奪われたひとりの教え子のことを。
何時《いつ》かは自分も勇者となって彼を救い出そうと誓ったはずなのに、その思いは日々の生活の中で風化して、今では思い出すのも稀《まれ》だ。犀《さい》がいるから、紅竜は殺しはしないだろうから、もっと強くなってから、と理由をつけて後延ばしにしてしまっている。
この男は自分《アンリ》よりも年かさであるのに、未《いま》だに姫の騎士でいるつもりなのか。
そう思うと滑稽《こっけい》であり、羨ましくもあり、そしてまた彼の原動力となっている姫はどんな女だ? という興味も湧く。
まさか本当に姫ではないだろう。共に逃げてきているのだとすれば恋仲ではないかと邪推するが、この男の年齢からするとその姫もかなりの年増。社交界デビュー前後には縁談が決まってしまう魔界貴族の娘が、そんな歳まで独身を貫いているとは考えられない。
おおかた逃避行の途中で出会った酒場の女給か娼婦のあたりだろう。特に娼婦ともなると身受けするにも多額の金がいると言うし、だすると払わずに逃げて来た可能性が高い。
「私はこの歳になるまで剣などとは無縁の世界にいたので、育て甲斐はないだろうが」
「安心しろ。騎士道精神は嫌いじゃない」
首を縦に振らないばかりか、値踏みするように自分を見るばかりのアンリをどう思ったのか、男は手にしていた剣を差し出した。習う覚悟はある、と言いたいのだろう。
金貨が詰まった皮袋を出してこないあたりに好感が持てる。貰うのなら金貨のほうがいいに決まっているが。
アンリは男が持って来た剣を受け取ると鞘《さや》から抜いた。
古いものだし使われた形跡もない。刃こぼれもない代わりに、ずっと手入れをしていないまましまい込んであったのだろう、刀身が曇ってしまっている。
だがそれ以上に、その剣の柄の部分に埋め込まれた宝玉を見て、アンリは息を呑んだ。
「これは、」
魂の宝玉。
魔剣が冒険者や魔族の魔力を喰《く》らって成長するように、その宝玉は切った者の魂を吸い取ると言われている。魂を手に入れた剣は、その剣の所有者に魂が生前に持っていた力を与えると言う。それ故《ゆえ》に、賞金を懸《か》けて全国から名だたる剣士を呼び寄せて戦わせ……優勝者をこの石の付いた剣で殺害する、という事件まで起きたことがあるらしい。
危険なものだとしてその宝玉は多くの魔剣と同様、魔界の奥深くに封じられていた。
無論、幾多の戦いの果てに人間界に流出してしまったものもある。しかしそれらと、今、自分《アンリ》が手にしている宝玉は違う。
その無色透明さは、未《いま》だ誰の魂をも吸い取ってはいないことを表している。そんな無垢な宝玉は、今や魔界に保管されている分しか残ってはいない。
封じた場所は極秘とされ、アンリも場所は知らない。魔界貴族のいくつかの家でそれぞれに隠したらしいとされているが、その家の名が公開されることもなかった。
そのひとつが、此処《ここ》に。
「お前……貴族か?」
「ゆかりの者、と答えておきましょう。私もあなた様と同様、追われて来た身に変わりなく」
男は窓から外を窺《うかが》うようにして声をひそませた。
当人が言う通り、男は剣に関しては本当に素人だった。が、それでも上達は早かった。姫を守るという大義名分のおかげかもしれない。
雨の日も風の日も、11時にやって来ては3時に帰っていく。それ以外の時間は荷運びや土木などの仕事をしているのだそうだ。
真面目な男だから定職に就《つ》くこともできるだろうに。何なら剣の練習時間を早朝か夜に変更してはどうか、と提案してみたこともあるのだが、やんわりと笑って断られた。
飽きやすく、堪《こら》え性がない性分だから定職に就けないのだと言うが嘘だろう。どちらかと言えば逃亡中の身だから落ち着くことができないというあたりが理由ではなかろうか。追われる身としては自分《アンリ》もそうだから、強くは言えない。
そんな修練が続いたとある日。
「ところでお前さんのお姫様はどんな娘なんだ?」
実際のところは娘と呼べる年齢ではないかもしれないが。そんなことを思いながらアンリは男に尋ねた。
自分の素性すら明かさない男が守っている女のことをペラペラと喋るはずもないのだが、だからこそ気になる。
姫と呼ぶだけあって働かせてはいないのか。男のほうは朝から晩まで働いているから、追われているとすれば女だろうが、男がアンリを訪ねて来てから既《すで》に3ヵ月。その間ずっと家に閉じこもっているのだとしたら、そろそろ飽きて来る頃だ。
アンリが聞くと男は僅《わず》かに目を細めた。
「自分の意思を曲げない強い娘ですよ」
その目に宿る光は騎士と言うよりも、父親のようで。もしかしたら彼も自分の境遇と同じだったのかもしれない、なんてことを思う。
もし青藍を連れ出すことに成功していたら。
彼の姿に自分をダブらせて見ていることに気付き……自分は失敗したのだ、再び助けに行こうともしないでこうしているのだ、と改めて思う。
犀《さい》がいるから、命までは取られないだろうから、なんて誤魔化して。今でもまだ魔力と自我を封じられているかもしれないのに。それでは死んでいるも同じだろうに。
「だが、もう長くないのです」
アンリが何を考えているかなど全く気にも留めていない様子で、男は茶碗に目を落としたまま呟く。
「それって、」
追われる身では病に倒れたとしても、そう簡単に医者に診せることなどできない。金を積めば可能だろうが、贔屓目《ひいきめ》に見ても金を持っているようには見えない。
何時《いつ》から病気なのだろうか。
長い逃避行は女子供にはきつかったのだろうか。
しかし守るべき者が「もう長くない」ほどの病に侵《おか》されているというのに、この男は何故《なぜ》傍《そば》に付いていることもなく、剣の練習などしているのだろう。守る者がいなくなってしまえば腕を磨く意味すらなくなってしまうのに。
医者を紹介しようか? と聞くと男は黙って首を振った。
「アンリ先生は、この薬草を知っていますか?」
男が懐から出したのは、緑色の鎖のような蔓《つる》と薄紫の花。
此処《ここ》に来る前に摘んだのだろうか。アンリ自身は長年鍛えていたせいで薬の世話になることもなく、だからこそ薬局は縁遠い店のひとつだった。が、それでも売り物とそうでない物の違いくらいはわかる。
薄紙に丁寧に包まれたそれは摘んでからせいぜい数時間だろう。薬局で扱う薬草は保存のために乾燥させてあるものがほとんどで、生花を扱うことはあまりない。
「ヒカゲノカズラとハナハッカ。これがあれば私の姫はまだ生きていられるんです」
「ヒカゲノカズラ……」
名前を言われてもやはりピンと来ない。
まぁ、生薬を並べられてもその効果と結びつけられるのは薬師くらいだろうから、知らなくても恥ずかしいことではないだろうが。
「ま、病気が治るあてがあってよかったな」
もし医者にかかる金がないのなら肩代わりしてやろうかとも思っていたが、心配には及ばなかったようだ。男の剣の腕前も見られる程度にはなってきたし、女が回復すれば新たな未来を歩んでいけるだろう。
『貴族とか家とか忘れて、嫁さんもらって家族作って。そうして普通に暮らしていけばいいんだ。魔力も魔眼もいらない。……よかったな、純血じゃなくって。きっとお前なら受け入れてもらえるさ』
『坊ちゃんは市井《しせい》に逃がしたほうがいいんじゃないでしょうか』
何処《どこ》か。
此処《ここ》でもいい。
青藍を救うことができなかったらその代わりに、と言うわけではないが、過去を捨てて幸福になった姿を見れば関わった自分も少しは救われた気になれるかもしれない。
だが。
彼はその日以降、2度と姿を見せることはなかった。
「青藍がまだ離れにいた頃だったか。紅竜に縁談があってな。キャメリアと言う、アイリス嬢の姉にあたる娘と」
アンリは廊下の先に目を向ける。この廊下の先にミルがいる。
あちこち曲がってきたから、その姿も見えなければ物音も聞こえないけれど。
「似てるんだよな。お嬢に」
「それだけでイチゴちゃんがキャメリアさんだとは言えないよ。それにさっきのハナハッカとナントカも、どう繋《つな》がるのか全然わかんない」
エリックは眉をひそめた。
執事《グラウス》は、と見れば、同じように眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せている。ミルを置いて行くことに懸念《けねん》の意を表したように、今回もきっと同じことを考えている。
そう。全くわからないのではない。認めたくないだけだ。
これからアンリが言おうとしていることを。自分《エリック》が想像していることを。
「お嬢が持ってる剣が、あの男が持って来たのと同じ剣なんだよ。石は……紅《あか》く染まってるが」
ミルが昔、病気を治すために「父」と旅をしていた、というのはエリック自身、本人から聞いたことがある。あの薬草茶はその名残。それがヒカゲノカズラとハナハッカだとは教えられなかったし、アンリが最初に言ったように呪術に使う草だということも知らずにいたから、滋養強壮か美容か便通か、そのあたりの効果を謳《うた》う健康茶なのだろうと思っていたけれど。
もう長くない、とアンリの元に現れた男は言った。あの薬草があれば生きていける、とも。
アンリに剣術を教わっていた男というのがミルの「父」だとして。
「父」と、ミルと、呪術に使われる薬草。
魂を吸い取る剣と、ぎりぎりまで剣の腕を磨いていた男《父》。
それが、意味するものは。
「でも死に急ぐなと言っていたじゃないですか」
グラウスが口を挟む。
ああしてミルが動いている以上、あの退魔の剣に封じられている魂は「父」のものなのだろう。
病気で死にかけていたミルではなく、「父」。
――その宝玉は切った者の魂を吸い取ると言われている。
魂を手に入れた剣は、その剣の所有者に魂が生前に持っていた力を与えると言う。
ミルの剣技は彼女自身が習得したものではなく、「父」がアンリに習ったもの。彼女があの歳で騎士団長と同等の剣技を身につけているのはそのせい。
そして、
『ヒカゲノカズラは切っても何日も枯れねぇってところから、生気のシンボルとされてきた。ハナハッカは媒体《ばいたい》だ。呪術としては死者の魂をこの世に繋《つな》ぎ止めておくのに使われる』
「今のお嬢にとって死ぬこととは、消えることだ」
薬草は切れた。
ミルがもし死んでいるのだとしたら、彼女をこの世に繋《つな》ぎ止めておく手段は潰《つい》えていることになる。
長い間摂取し続けていた薬草の効果が残っているから、未《いま》だにその身を留《とど》めていられるのだとしても、運動すればエネルギーを使うように、ただ何もせずにいるよりも剣を振るって戦っていたほうがその効果も多く使われる。
なのにアンリはあの場にミルを残した。
死に急ぐなと言ったそのすぐ後で、彼女を自ら死に向かわせた。
顔が似ているとは言え、魔族が入り込めない結界が張られた町にいたミルがキャメリアだとは思うまい。
きっと剣を見て、過去と照らし合わせて、そして察したのだろう。
しかし。
「なら、連れて来なければ良かったじゃないですか。連れて来なければ途中で薬草が切れることもなかった。死ぬこともなかった」
「それはお嬢の意思じゃない。お嬢が魔界に行くと言うのなら、魔界でしなければならないことがあるのなら……俺はそれを止められない」
「矛盾しています!」
しなければならないこととは何だ。
アイリスが蔓と同化して襲って来ることなど知る由《よし》もなかった。ミルはアイリスが妹だから責任を取ると言ったが、それは当初の目的ではないはずだ。
彼女が目的をもって魔界行きを望み、その意思を汲《く》んで同行を許したと言うのなら、やはり置いてきたのは間違いではないのか?
それで死んで《消えて》しまったら、彼女も後悔が残るのではないのか!?
やはり戻るべきではないのだろうか。
行くべきか、戻るべきか。
どちらを取るべきか選び損ねて、グラウスは考え込む。
生死はともかく――とは言え、ヒカゲノカズラとハナハッカのくだりはアンリの推測の域を越えていないから、ただ単に彼《アンリ》の勘違いと取れなくもないが――ミルが目的を持って魔界に来ているのなら叶えてやりたいのは|人心《ひとごころ》。
そもそもグラウスにしろアンリにしろ、そして眠ってはいるがルチナリスもそれぞれ目的を持って魔界に来ている。
もちろん自分の目的の達成が最優先だが、だからと言って旅は道連れな仲間の目的を蔑《ないがし》ろにしていいわけではない。魔界に来るだけでも結構な手間がかかるのだから、できることなら全員、目的を達成してから帰りたい。
だが問題はミルがキャメリアかもしれないということだ。
キャメリアは紅竜の許嫁《いいなずけ》。失踪したとされているがそれは彼女の意思ではなかったかもしれず、だとすると彼女は今でも紅竜に好意を抱いている可能性がある。ならばその目的は「紅竜のために何かをするために魔界に来た」とも考えられる。
紅竜のために。
紅竜の目的が魔界貴族の頂点に立つことなのか、そもそもそれも全て闇に突き動かされているだけなのかもわからないが、その手段として青藍の力を必要としていることは事実。そしてもしミルの目的がそうであるなら、自分たちの目的の真逆に位置する。
そう考えると……こうして先に行かせたことも奪還を失敗させるためではないのか? 罠ではないか? とすら思えて来る。
「そんなこと、イチゴちゃんはしないよ」
エリック《勇者》は気もそぞろに廊下の先を何度も振り返る。
彼だけは目的がない。付き合いで来ただけだから自分たち以上にミルの目的も叶えてやりたいと思っているはずだ。むしろこのメンバーの中で1番世話になっているのがミル(+おっ〇い補正で5割増し)だろうから、彼女を優先したいに違いない。
「なんてったってイチゴちゃんは魔法少女リリカル☆ストロベリィだよ? 今時聖都でも珍しい勇気凛々《りんりん》、清廉潔白《せいれんけっぱく》な人なんだから。
もしその紅竜って人の役に立ちたいっていうのが目的だったとしても、僕らの目的とは正反対だとしても、だったら真っ向から奪い取りに来るよ。出し抜いたりしないよ」
言いながらも、今すぐにでも走り去りそうな勢いだ。
欲目《おっ〇い補正》が混じって《入って》いるかもしれないが……そう言えばルチナリスは短い付き合いだというのに随分と彼女のことを信頼していた。幼少期の影響《トラウマ》で他人と距離を置きたがる娘が懐くくらいなのだから、エリックの審美眼もあながち間違ってはいないと思われる。
「だからさ、」
「行けと言ったお嬢の意思を曲げて戻って、それでお嬢が喜ぶと思うのか?」
戻る気満々のエリックに比べるとアンリの尻は重い。
ルチナリスを担いで移動するのが手間だというよりも、ミルが足止めしてくれている間に先に進んで、あわよくば青藍を奪還してしまったほうが得策だと考えているのかもしれない。
ルチナリスを担いで戻ったところでミルの足手まといになることは否《いな》めない。いや、蔓に対抗する決定的な手段を持っていない時点で此処《ここ》にいる全員が足手まといにしかならない。
ミルは自分たちが戻って来ることなど期待していないだろうし、だったら青藍の保護を優先するのも一考。自分たちの事案を済ませてしまえば、ミルの目的達成にも尽力できる。
「俺らにできることはお嬢の邪魔にならないことだけだろう」
アンリの意見には同意しかない。
しかしこの同意は「ミルが自分たちを邪魔しにくるかもしれない」という疑いから出ている。信頼に足る人物かもしれないが、だからこそ紅竜に対しても誠実であるかもしれない。
ただ、どっちつかずのまま何もできずに時間が過ぎることだけは避けたい。此処《ここ》でこうして考え込んでいる暇などないのなら、結論は早めに出すべきだ。
「行けって言ったのがイチゴちゃんの本音だと本当に思うわけ!?」
煮え切らないふたりに腹を立てたのか、エリックがふいに声を荒げた。
「アイリスさ……様を止められるのが自分しかいないんじゃ、行けって言うに決まってるよ! だけどイチゴちゃんには時間がないんだ。僕らはまだリベンジできるけどさ」
もしアンリの説が正しければ、ミルに「次回」はない。
沈黙が襲う。
その時だった。
「どぅわあああああああっ!!」
うら若き乙女の叫び声にあるまじき雄叫び《ドスの利いた声》を上げてルチナリスが目を覚ましたのは。
自分で叫んで自分で驚いたのだろうか。壁にもたれ掛かって座り込んでいた姿勢から飛び上がり、したたかに壁に後頭部を打ちつけ、頭を抱えて転がる。階段を転がり落ちそうになって、アンリが慌てて押さえたくらいだ。
何、このギャグ要員。
そんな冷ややかな侮蔑《ぶべつ》が頭の中を流れて行く中、ルチナリスは上体を起こし、周囲を見回す。
そして。
「ミルさんは!?」
……1番答えにくい質問を投げてき(やがっ)た。
アンリはさりげなく視線を逸《そ》らし、グラウスはポケットの中で半分寝かかっていたトトを鷲掴《わしづか》むと
「流石《さすが》はライン精霊ですね! ルチナリスが目を覚ましましたよ!」
と、0%も貢献していない精霊を褒めちぎる。
ふたりがそんな状態なので、ルチナリスの「ミルさんは?」な視線はおのずとエリック《勇者》に向いた。
「え、ええっと」
敵と化したアイリスの前にひとりだけ置いてきました、と言っていいものか。
得意の大ボラで話をでっちあげることもできないまま、エリックは言葉を濁した。
「あたし見たの。真っ暗な闇の中で、ドレスを着た骸骨が立ってて、何か小動物の骨を抱えてて、」
「あ、ああ。怖い夢を見たんだね。大丈夫だよ、夢だから」
「違うの! 夢だけど、夢じゃない。だってあれは、」
ドレスを着た骸骨がミルだとでも言いだすつもりだろうか。
アンリの話の後では、どうしてもその方向に想像が向かう。
だが、キャメリアならば魔界貴族なのだからドレスを着たこともあるだろうが、ルチナリスはその姿を見たことなどないはずだ。夢の中でドレス姿の骸骨が出て来たからといって、それをミルだと思うだろうか。骨では面影もないだろうし。
「あたし、ミルさんに謝らないといけないの!」
「うん、わかったから少し落ち着こう。ね」
意味がわからない。アンリの話以上に脈絡が不鮮明。そもそも寝起きの人間に筋道の立った話を期待してはいけません。
しかしこの大声にアイリス以外の敵が集まって来ては厄介だ。
ヒロイン属性の中には敵の真正面で悲鳴を上げたり、姿が見えるように逃げ出したりと主人公を窮地《きゅうち》に陥《おとしい》れる行動をとる女がある一定数いるけれども、彼女《ルチナリス》はそうではないと信じたい。第一、ヒロインと呼ぶにはおっ〇いが足りな、
「……黙りなさい」
「むぎゃぐぐぐ」
今さっき逃げたくせに、やはり手をこまねいているエリックを助ける気になったのか、早口でまくしたてるルチナリスの顔面をグラウスが掴《つか》んだ。
足音が遠ざかり、そして消えた。
庭を挟んだ別棟で催されていた夜会の騒《ざわ》めきも、厨房の忙《せわ》しさも、ケルベロスの唸《うな》り声も、馬車の車輪が軋《きし》む音も、何も聞こえない。聞こえるのはシュルシュルと蔓が床を這《は》う音だけ。
目の前に浮かんでいるのは口を三日月に歪めた娘の頭。漆黒のドレスは同じ色の蔓に浸食され、人としての手足を見ることはできない。まるで蔓の上に娘の首だけが晒《さら》されているようだ。瞬きもせず、口も開かず。だから余計に生きていると思うことができない。
だが音が伝えて来る。
彼女は生きている。姿を変えて。
着実に自分《ミル》を取り囲みつつある。
「結局戻って来てしまったな」
ミルは蔓の塊と化したアイリスを前に呟いた。
目はアイリスを見ているが、今の言葉は彼女に向けて語られたものではない。その証拠に、
「……後悔などしていないという顔をしていらっしゃいますよ?」
ミルとアイリス以外誰もいないはずの此処《ここ》に、彼女ら以外の――男の――声がした。
現れたのは灰色のウサギ。ルチナリスが柘榴《ざくろ》と呼んだウサギだ。しかしその声は柘榴《ざくろ》のものではない。
何かに乗り移られているようなギクシャクとした動きで、ウサギは床にも天井にも張り巡らされた蔓を見上げる。そして、どう見ても柘榴《ざくろ》ではないそのウサギに、ミルは警戒することもなく話しかけ続ける。
「お前は戻ってほしくなかったのではないのか?」
「私はお嬢様が生きたいように生きて下さるのが一番でございます。
が……むしろ私のせいでお嬢様に無理を強《し》いる結果となり、しかも志半《なか》ばでこの不始末。申し訳なく思っております」
「強《し》いてはいないし、半《なか》ばでもない。到底手に入らないと言われていた大地の加護を此処《ここ》まで運ぶことができ、アイリスを救うこともできる。むしろ9割は達成できていると言っていいのではないか?」
ミルの呟きに、ウサギは改めて彼女に目を向けた。
「役目を終えた役者は退場しなくては。後はルチナリスと彼女の義兄《あに》に任せる」
「退場だなどと、」
そうだろうか。
できることなら他人に任せるのではなく、ミル自身がルチナリスと彼女の義兄《あに》の役を――紅竜を救う役を――担《にな》いたかっただろう。
話しかけている間も、彼女はウサギのほうを一切見ていない。
目を離した一瞬にアイリスが動くことを警戒しているのだろうが、目を合わせないからこそ発する言葉が本音ではないように聞こえる。
いや。きっと本音ではない。彼女は紅竜と生きることを選んでいた。体が弱く、子を生《な》すことができない自分をそれでも娶《めと》ろうとする紅竜に、真摯《しんし》に応《こた》えようとしていた。
それを壊したのは私。
ウサギは遠い過去に思いを馳せる。
闇と接触したから体を壊したのか、血を薄めないための近親婚が生み出した歪みを闇が増幅したのか。彼女を手に入れる男《紅竜》に嫉妬したのか、彼では幸福にすることができないと思ったのか。
もっと他に良案はあっただろうのに彼女を連れて逃げるという陳腐な手しか思い浮かばなかったのは、自分も闇に染まっていたからかもしれない。
嫉妬とやっかみでグルグル巻きになって、私はあのふたりを引き離した。闇に染まっている紅竜を救うにはこうするしかないと言い含めて。
魔族が決して入ることができない街ならば追手の目も掻《か》い潜《くぐ》れる。彼らもまさかこのような方法で自分たちがロンダヴェルグに潜伏しているとは思わなかったろう。
そしてロンダヴェルグにいれば、目的のひとつでもある大地の精霊の加護を手に入れることができるかもしれない。結果として手に入れたのはルチナリスだったのだが。
「ルチナリスはきっと紅竜様を救ってくれる」
ミルは剣を見る。刃の根元に埋め込まれている紅《あか》い石を指先でそっと撫でると、石から稲妻のような光が迸《ほとばし》った。その光は指先に吸い込まれていく。
「1番大事なことを他人任せにして、愚かだと笑うか? 千日紅」
「いいえ。全てはお嬢様のご意思のままに」
ミルは宝玉に、そして自分を見上げている灰色のウサギ《千日紅》に笑みを向ける。
いつもの剣士の顔ではなく、誰からも守られていた令嬢の時の顔で。
「……私は、紅竜様のところへ行けるだろうか」
「……………………勿論《もちろん》ですとも」
『――深い混沌の水底で何もかもドロドロに混ざり合って、世界はたったひとつの無に帰る』
無は全。
全は無。
そして闇は無を表す。
キャメリアの魂は未《いま》だ闇に囚われたままでいるが、言い換えれば、このままでいけば同じように闇に堕ちている紅竜と「同じもの」になれるということだ。アイリスがグラウスを誘った文句のように。
「はは。私は闇に堕ちることができて幸せだな」
「そんなことを仰《おっしゃ》るのはキャメリア様だけですよ」
そうしている間にも、アイリスの身長以上に伸びた蔓が蛇のように廊下を覆《おお》っていく。
ミルを取り囲み、足に巻きつかんとする。
その蔓を剣の一振りで払い除《の》け、ミルはアイリスの首に向き直った。
「姉らしい姉とは言えなかったが、お前の姉でいるのも此処《ここ》までだ。光さす道を行け、アイリス」
途端、アイリスの首が上を向いた。
今まで浮かべていた歪《いびつ》な笑みをさらに歪《ゆが》めて嗤《わら》い出す。ケタケタと壊れた玩具《おもちゃ》のような笑い声に合わせて蔓が踊る。鞭のようにしなったかと思うと、壁に、窓に叩きつける。瓦礫《がれき》や硝子《ガラス》が砕ける音があちこちで鳴り響いた。
そんな中、
「いいですかお嬢様。チャンスは1回。この剣でアイリス様の心臓を一突きにしなければ闇を取り除くことはできません。そしてアイリス様から闇が抜けた瞬間に、」
灰色のウサギ《千日紅》は指示を出す。
「わかっている。もとより薬草の効果は切れた」
輪郭を失いかけている手で、ミルは剣を握り直した。そして。
「わがままを聞いてくれてありがとう、千日紅。楽しかった」
「永久《とわ》の別れのようなことを仰《おっしゃ》いますな。何処《どこ》までもお付き合い致しますよ。中・年・は・射・程・外・でしょうけれども」
「……年寄りが僻《ひが》みっぽいというのは本当だな」
「何とでも」
そう言うと灰色のウサギ《千日紅》は仰向けに倒れた。
胸元からふわりと飛んだ光の粒が、ミルの持つ剣の宝玉に吸い込まれる。
「すまない。お前がくれた命を、」
ミルは宝玉に口付けると、自分に向かって来た蔓を跳躍で飛び越え、そのまま駆け上がった。
その先にいるのはかつての妹。アイリス。
「ハナハッカとヒカゲノカズラは死者の魂をとどめるための媒体。その薬草を、お嬢はここに来てから1度も口にしていない。意味わかるか?」
ミルはとうの昔に消えることを覚悟していたのかもしれない。
「ミルさんはもう死んでるって……本気で言ってます? 師匠」
ロンダヴェルグに魔族は入ることはできない。
でも、死した魂なら人間も魔族もない。
それでも。
ミルは生きていた。
生きていた。のに。
「嬢ちゃんが見たっていう骸骨は、もしかしたらお嬢の魂だったのかもしれんな」
「違う! ミルさんは生きてる! ちゃんと戻って来る!
だって、みんなで……生きて帰るって、そう言ったもの……っ!」
ふっ、と空気が、風が動いた。
ハリエンジュの淡い匂いが香ったような気がした。