21-10 もうひとりの私。そして




 カーテン越しの薄暗がりの中であたりを見回す。
 何百年前もから使われて来たせいか、炎の形に煤《すす》がついてしまっている壁。あまり使うこともない飴色のライティングデスク。そう、此処《ここ》は自分の部屋だ。
 枕元に置かれた時計は4時。起きるにはまだ早いけれど……いや、ちょっと待って。
 ルチナリスはガバッ、と身を起こす。

 どうして此処《ここ》に。
 ルチナリスは目を瞑《つぶ》っていても何処《どこ》に何があるかわかってしまう部屋を――10年も使っていたのだから当然だ――見回した。
 この部屋はあたしの部屋。この城はあたしの家。でも閉鎖されて、今は立ち入ることすらできなくなっている。


 ベッドから下り、クローゼットを開けると、ハンガーには見覚えがあるようでないようなワンピースが何枚も掛けられていた。ミントにローズにスカイブルー。世の女の子のクローゼットはこうなのだろう、なんて妙に他人じみた感想を抱く。
 扉の内側に貼りつけられている鏡に映るのは、これまた見慣れたメイド服姿の自分。ただ襟元の紅《あか》いリボンに違和感を覚えて、ルチナリスは黙ったままそのリボンを解いた。解いて、クローゼットの中から別色のリボンを取り出し、結ぶ。


「……随分とお寝坊さんね」

 そんな声が背後から飛んで来て、ルチナリスは振り返った。
 先ほどまでいたベッドに少女が腰掛けている。薄茶の髪と瞳を持った、ルチナリスと同じくらいの背丈の少女。ミモザ色のワンピースに袖を通している彼女は、ふわふわと波打った髪と相《あい》まって良いところのお嬢さん然とした雰囲気を醸し出している。


「どれくらい寝てた?」
「そうね。まだ1日は経《た》っていないかしら」


 帰ることのできない部屋。
 帰ることのできない城。
 |何故《なぜ》此処《ここ》にいるのかということに全く動じていない素振りのルチナリスに、彼女もまた驚くでもなく淡々と返事を返す。もう何年もこれが日常として続いていたかのように。

 彼女はふわりと立ち上がるとルチナリスの手を取った。

「こうしているのも何だから、食事にしない?」

 その声が終わるや否や、周囲の光景がガラリと変わった。
 目の前には白いクロスがかかったテーブル。籠に盛られたパンと、ソテーされた肉、湯気の立つスープ。そしてアイビーを活《い》けた皿。

 自分の部屋がいきなり食堂に変わってもルチナリスの顔に戸惑いは見えない。
 わかっているのだ。此処《ここ》は前にも来たことがあるのだから。


「死ぬまで離さない、だったっけ」

 瑞々《みずみず》しい緑を見下ろしながら以前彼女に教えられたアイビーの花言葉を口にすると、

「あら、覚えてたの?」

 と彼女は微笑《ほほえ》んだ。
 覚えていたことを単純に喜んでいるような、前回もそうだったが、案外にこの少女は自分《ルチナリス》に甘い気がする。此処《ここ》から出ようと考えない限りは。

「いきなりこんなところに閉じ込められてそんなこと言われたら、忘れようったって忘れられなくない?」
「そうかもしれないわね」

 相槌《あいづち》を返しながらもさっさとフォークとナイフを手に自分の皿を平らげていく少女をよそ目に、ルチナリスは食堂を見回す。
 此処《ここ》に来るのは2度目だが、この食堂は現実世界でお目にかかったことがない。先ほどの部屋が自分《ルチナリス》の部屋を模《も》していたのならこの食堂もノイシュタイン城の食堂に似せればいいものを……あの食堂の造りは少女の美学に反するのだろうか。確かに少し窮屈ではあるけれど。


 得体の知れない場所で得体の知れない人から出された食べ物は口にしてはいけない。
 グラストニアの劇場主の家で、エルフガーデンで、あたし《ルチナリス》はそれを嫌と言うほど実感した。
 以前、オルファーナのカフェで義兄《あに》から暗殺のことを聞かされたが、その時は毒見役を買って出ているという執事に「うわぁ……」という感想しか抱かなかった。そこまでしてくれるなんて、と、そこまでするのか、と、末尾が少し変わるだけでポジティブからネガティブまで網羅した感想は、けれど心の何処《どこ》かで「自分には関係ない」と思っていたことも確かで。それが、命を取るまでではない程度なら自分の身にも起こり得ることだと知って。
 そんなことが続いた後では食べろと言うほうが無理だろう。

「食べたって眠くなりはしないわよ?」

 少女は小馬鹿にしたように嗤《わら》うが、ルチナリスの両手は膝の上から離れることはない。
 折角《せっかく》用意してもらったのに申し訳ない、などと空気を読んだばかりに酷《ひど》い目に遭《あ》ったことは、まだ記憶に新しい。


「だってあなたはもう眠っているのですもの」


 そうだ。
 あたしはメフィストフェレスの城で倒れたのだ。
 心の底から湧きあがるもうひとりのあたしの声を聞くうちに。


「酷《ひど》いわよね、騙していたなんて」


 あの声の主はこの子なのだろうか。
 ルチナリスは目の前の、自分とそっくり同じ顔をした少女を凝視する。


「もうわかったでしょ? 此処《ここ》にいたほうがあなたは幸せだわ。
 親がいないからって苛《いじ》められて。誰も彼もが本心を隠したままで。そんなところで他人の顔色ばかりを窺《うかが》って生きて行くのは辛《つら》いじゃない?」
「そうね」


 他人の顔色ばかり窺《うかが》って、言いたいことも言えなくて。
 義兄《あに》が魔族だということを隠していたのは悪魔に襲われて両親と養父とを失ったあたしに気を遣ってくれていただけなのに、ミルのことも犀《さい》が嘘を言っているだけだったかもしれないのに、あたしはきちんと聞くことなく、騙されたと心を閉じてしまった。

 あたしは傷つけられたと思ったけれど、その裏では義兄《あに》やミルを傷つけている。
 あたしに魔族だとカミングアウトして以降、義兄《あに》は何度も魔族の中にひとりでいることに慣れたかどうかを聞いて来た。
 ガーゴイルたちがずっと姿を見せるようになったのも、今まであたしのことを敵か置物のような目でしか見て来なかった執事がフロストドラゴンを前にしてあたしの味方だと言ったのも、きっと裏で義兄《あに》が言い含めて回っていたに決まっている。

 ミルにはあれ以降会えていないけれど、目の前にいる彼女のように言いたいことのひとつも口にしていれば歩み寄りはできたかもしれない。
 思い返せば彼女は自分が魔族だと知らなかったようだし、司教《ティルファ》があたしを依《よ》り代《しろ》にしようとしていたことも、彼女がそれを知っていて加担していたかどうかも犀《さい》のでまかせかもしれない。証拠は何ひとつないのだ。
 それなのに。


「……そろそろあたし、行くわ」

 ルチナリスは席を立った。
 此処《ここ》へ来る前の最後の記憶は全てを手放して仰向けに倒れる自分の姿。自分とそう歳も変わらない娘ひとり抱えていてはミルだって動くに動けまい。
 かなり経《た》ってしまっているからもしかしたらミルはキャメリアとして犀《さい》に連れていかれてしまっているかもしれないし、あたしは放置されているかもしれない。鎖で繋《つな》がれて食糧庫に転がされているかもしれないし、一ツ目の化け物が肉きり包丁を振り上げているかもしれない。最後の案が現実になっていたら戻ったことを即刻後悔するレベルではあるけれど……でもそうでないのなら、あたしは此処《ここ》にいてはいけない。

 この部屋からの脱出方法は覚えている。
 前回は窓を叩き割った。目が覚めてからが同じだから、出口もそれほど変わってはいないだろう。オルファーナの路地に放り出されるかもしれないが、あの場所から駅までの道順もうろ覚えながら記憶にある。義兄《あに》もスノウ=ベルもいないけれど、きっとどうにかなる。
 そんな曖昧《あいまい》な確信を胸に椅子を窓際にまで引っ張っていくルチナリスを少女は頬杖をついたままで眺めていたが、やがて口を開いた。
 

「無駄よ。あなたはまだ闇に打ち勝っていない」
「闇に?」

 窓を叩き壊されるのを懸念して言っているだけのようにも聞こえるが、実際、椅子の背もたれを掴《つか》んで窓に叩きつけるのは重労働。それに前回の反省点を踏まえたのか、椅子も前回のものよりもやたらと重厚だ。

 「やっても無駄かどうかはやってみなけりゃわかんないぜ☆彡」とは少年漫画的主人公なら必ず1度は言いそうな台詞《セリフ》だが、少なくとも自分はそんなキャラではないし、体力もできる限りは温存したい。
 ルチナリスは背もたれを両手で掴《つか》んだまま、少女に目を向ける。

「そう。あたしに。そして彼女に」

 ニィ、と口角を上げた彼女ごと、目の前の景色がグルリと回った。




 目の前に広がるのは炎の海。
 黒煙が立ち上り、家の屋根が崩れ落ちる。
 長年、とは言わないけれど物心ついてから残っている記憶は此処《ここ》のものばかり。それが消えていく。音を立てて壊れていく。
 親しかった幼馴染みは村を去った。
 養父は火の海に消えた。
 悲鳴や助けを求める声は聞こえ続けているけれど、何も感じない。いや。



 ――消えてしまえばいい。



 親しくなんてなかった。
 メグはいつもあたしの不幸さ加減で自分の幸福を測っていた。あたしはいつもあの子よりも劣っていなければいけなかった。
 養父だって血の繋がりもない小娘を「神父だから」ひきとっただけだ。
 あたしをミバ村に連れてきた人は身寄りのない子供《あたし》ひとり残して、この村に住む大勢の前で力尽きた。村人たちの目があるから「隣人愛を唱える神父として」引き取らざるを得なかっただけだ。

 それが消える。
 たくさんの「かわいそう」と一緒に、何もかも。


「ほら。こんな記憶覚えている必要なんてないよね? 忘れちゃいたいって思ったよね? 忘れて、あの部屋でずっとあたしと暮らせばいいんだわ」

 高台から村を見下ろしているあたしの背後でそんな声が聞こえた。
 肩越しに見れば、あたしと同じ顔をした彼女が、同じように村を見下ろしている。

「食べることには困らないし、悪魔に襲われることもないし」

 どちらかと言えば「楽しげ」と捉《とら》えられそうな笑みまで浮かべて、彼女はあたしを見た。その目が同意を促《うなが》してくる。「あなたもそう思ったわよね」と。

 忘れたいとは思った。この10年もの間、ずっと。
 義兄《あに》に引き取られてノイシュタイン城での暮らしが始まっても、燃え堕ちる村の光景は夢の中に何度も出て来た。何もできなかった不甲斐なさに目を覚ましたことも度々《たびたび》だ。
 自分が火を付けたわけでもなければ、悪魔を差し向けたわけでもない。罪悪感を感じることなどなにもないのに何故《なぜ》そんな夢を何度も見なければいけないのか。
 いっそのこと全部忘れてしまえたら。そう思ったことも今に限ったことではない。

「服だって、」
「もうやめよう」

 でも、そうやって何度も何度も過去に向かい合わされれば耐性も付くというもの。
 誰が悪いのか。どうすればよかったのか。そんな「今更どうしようもない過去についてのif《もしも》」だって10年も考えればネタは尽きる。
 いくら優柔不断でも、思い悩める事柄《ことがら》は全て思い悩み終わってしまっているのだ。

「過去は過去。どれだけ不幸でも辛《つら》くても、もう終わったことなの。それをずっとウジウジ考えて今と未来を過去のために使うのは勿体《もったい》ないじゃない」


 ミルは言っていた。
 自分を卑下《ひげ》して、他人を羨《うらや》んで。そう言う感情の元になっているものが闇だと。
 だとすれば、闇を取り去ってしまえば何に対しても心が動かなくなる。平穏かもしれないけれど、それはきっと幸福からはほど遠い。メグが不幸なあたしを幸福のバロメーターに使っていたように、負があるからこそ幸福は輝いて見えるというものだ。


「それにあなたがあたしの闇だとしても打ち勝つ必要なんてない。あなたに勝ってあなたを消したとしても、きっと第2第3のあなたが生まれるし、そのあなたと同じやり取りを繰り返すのも面倒だもの。あたしはあなたでいい」
「で、いい」
「違った。あなた、が、いい」

 少女が失笑する。

「あたしは闇よ? 消したほうがいいんじゃないの? いつかあなたが抑えられないくらいに強くなって、あなたを呑み込んで、黒い蔓にしてしまうかもよ?」
「そうねぇ」

 ルチナリスは少女に向き直った。
 ミモザ色のワンピースとよく手入れされたふわふわの髪が焦げ臭い風に巻き上げられている様《さま》は場違い感しか感じない。そしてメイド服のあたしもきっと。

「でもそうやって闇堕ちしそうになる度《たび》にあなたが話しかけてくれるもの。あたしを見ていてくれるって思う」
「何言っ、」
「落ち込んだら呼んで。あたしきっとあなたを受け入れられると思う」

 この子はあたし。
 孤児じゃなかったら。メグの境遇だったら。メイドなんかしなくてもよかったら。
 そんな普通の女の子として生きることが出来たら、きっとこうなっていただろうな、というあたしのif《もしも》。あたしの夢。あたしの理想。
 でも、そんな理想の姿が目の前にいるからこそ、現実のあたしが愛《いと》おしいと思う。悪魔を義兄《あに》と家族に持ったが故《ゆえ》にクドクドと悩み続けるあたしを、傍《はた》から見れば普通じゃないあたしの人生を、案外良かったと思うことができる。
 比べることができたから。
 夢と理想《闇》のあたしと比べても、今のあたしは結構幸せだ。


「だから、打ち勝たないといけないもうひとり――”彼女”って人を紹介してもらえる? あたし、早く帰らないといけないの」
「……………………強くなったわね」

 少女《闇ルチナリス》はわざとらしく溜息を吐《つ》くと顎をしゃくった。
 あたしの背後――ミバ村が悪魔に襲われた時、神父から「隠れていろ」と言われた森の木々があった場所――に、薄暗い廊下が見えた。

「無は全。全は無。全てのものは無に帰《き》す」
「え? 何?」

 聞き返そうと振り返ったものの、少女《闇ルチナリス》の姿は忽然《こつぜん》と消え失せている。
 アイリスたちと彷徨《さまよ》った夢の世界のように、隣町《ゼスの町》の倉庫でアンリの夢らしき世界と同調《リンク》した時のように、突然別の世界に放り出されることも日常茶飯事になってしまったから今更驚きはしないけれど。
 それより。


『無は全。全は無。全てのものは無に帰《き》す』


 あの言葉は、夢の世界のキャメリアが発した言葉ではなかっただろうか。




 ルチナリスは今、城らしき石造りの廊下にいる。
 いや、きっと城なのだろう。此処《ここ》はノイシュタイン城に、そしてアンリたちと侵入し、ミルと彷徨《さまよ》ったメフィストフェレス本家によく似ている。

 戻って来たのだろうか。
 最近は白昼夢を見ることが多いから目を覚ました! という実感が薄くて困る。
 きちんと寝衣に着替えてベッドにもぐりこんでいたのなら、今見たのは夢だったんだ目を覚ましたんだ、とわかりやすく思うことができるのに。


「おーい」

 いないだろうと思いつつも、ルチナリスは少女《闇ルチナリス》を呼ぶ。
 大声を出して甲冑に身を包んだトカゲ男とかがやってきたら面倒だ。闇ルチナリスならまだ話が通じるが、面識のない魔族の兵士では出会い頭にバッサリ切られること間違いなし。もしくは「高価な貴重品《人間の血肉》を見つけたぜラッキー☆彡 他の奴《やつ》らに見つかる前に食っちゃおう!」とばかりに、生きたままバリバリと食べられるおそれもある。
 ガーゴイルを始め、義兄《あに》も執事も気配を消して近付くのがやたらと上手《うま》かった。もしかしたら気配を消すのは魔族の間ではデフォルトな能力なのかもしれない。
 だとすれば、このあたりには全く人の気配を感じないけれど、油断はできない。 

「おーい」

 しかし少女は現れない。
 「彼女」を紹介したから役目を終えたと思ったのか。闇を消すつもりはないと言われたことに拍子抜けして、呆れて帰ってしまったのかもしれない。
 彼女《少女》は自分《ルチナリス》の負の部分、というのは想像の産物でしかなかったのだが、反論らしい反論もないあたり、あながち間違ってはいなかったのだろう。ミルのように闇を受け入れることができたのか、それとも……


『無は全。全は無。全てのものは無に帰《き》す』


 そうだ。
 闇ルチナリスは何故《なぜ》、キャメリアの台詞《セリフ》をそらんじてみせたのだろう。
 「彼女」というのはキャメリアなのか?
 そうすると、ミルがキャメリアだというのは間違っているのか?

 あの台詞《セリフ》はいかにも闇の関係者が口にしそうな台詞《セリフ》だった。しかし現実世界のミルは闇を肯定してはいるものの、闇ではない。
 もっとも闇についての明確な定義がないのだから「闇ではない」と断言するほうが間違っているのかもしれないが、聖都ロンダヴェルグに住み、騎士団に入団し、退魔の剣を振るうミルが闇だというのは無理がある。そして魔族だということも。

 ああそうだ。
 犀《さい》がミルをキャメリアだと言ったのは、きっとただの他人の空似に違いない。
 あの部屋は灯《あか》りがあるとはいえ薄暗かったし、第一、ミルに自覚がない以上、手がかりになるのは犀《さい》の記憶だけ。髪の色や目の色や背格好が似ているから見間違えただけで、明るいところで見れば全然似ていなかったりするものだ。

 それでも、もし打ち勝たなければならない彼女がミルだったら、初対面になるであろう他の誰よりもどんなによかったか。ミルの何に対して「打ち勝て」なのかは予想もつかないが、闇ルチナリス同様、彼女ならきっと話せばわかってくれる。
 これがもしカーミラ様《アイリスの祖母》だったりしたら何を言っても聞く耳を持たないし、マーシャさん《厨房のオバチャン》なら話自体が通じない。意思疎通ができる相手は貴重なのだ。


 まぁ、それも「彼女」に会えばわかること。
 ルチナリスは意を決して廊下を進む。

 そう言えば義兄《あに》のことを人間だと信じて疑わなかった1年と少し前も、あたしは意を決して廊下を歩いた。ノイシュタイン城に悪魔が出るという噂も、その真相も、義兄《あに》に会えばわかるから、と――。

 コツ。
 靴底が床を叩く。
 あれからまだ1年しか経《た》っていないのに――それまでの15年も、他の人に比べればかなり波乱万丈だと思っていたけれどそれ以上に――いろいろなことがあり過ぎた。
 闇だの聖女だの、ただのモブ女に背負わせる運命にしては重すぎる。
 あたしは1年前の平穏が戻ってくればそれでよかった。
 義兄《あに》の義妹《いもうと》でありさえすれば……それでよかった。




 どれくらい歩いただろう。
 廊下は延々と続いている。居並ぶ窓も、反対側に規則正しく並んでいる扉も、全然変わり映えしない。曲がり角もなければ分岐もない。命尽きるまで歩き続けなければならないのではないか、なんて不安が首をもたげる。準備運動を始めている。

「どうしよう」

 闇ルチナリスの部屋のように窓を叩き割って脱出すれば状況は変わるだろうか。
 そんなことも思ったが、生憎《あいにく》と見える範囲には叩きつけるための椅子がない。テーブルも花瓶もない。
 何かないだろうか、と物色するように視線を巡らせていたルチナリスは、並ぶ扉の上で目を止めた。

 そうだ。
 廊下に椅子はないけれど、部屋の中にはあるだろう。あるところから持ってくればいいのだ。
 それに廊下側の窓を割らなければいけない規則もない。

 ノブを回すと扉はあっけなく開いた。
 「鍵がかかっていないなんて罠みたいで胡散臭《うさんくさ》い」という至極《しごく》真《ま》っ当《とう》な疑惑も、「どうでもいいから状況を打開したい」思いには適《かな》わない。
 ほら、勇者様だって言っていたじゃないの。


『相場としてはこういう場合、主人公が隠れられる部屋の鍵は開いているものなのさ』


 って。
 隠れているつもりはないけれど、状況が打開できそうな部屋に入ることができるのもきっと相場だ。忖度《そんたく》だ。
 山のように理由をつけて、ルチナリスは部屋に足を踏み入れる。
 踏み入れて、


「……そんなこと、って……」


 中の光景に声を失った。