ところ変わって此処《ここ》は魔界。
メフィストフェレス一族の中でも「本家」と呼ばれる城の一室。
窓の外に広がる空と漂う雲の見え方からして高い位置にあると思われるその部屋は、大きな掃き出し窓を有している。古い城にこれだけの窓があることは稀《まれ》なことだ。この城も例に漏れず、窓は小さいものが多い。
この部屋は歴代の正妻に与えられる部屋。だが、紅竜の母である第一夫人ソーリフェルが前当主の隠居と共に去って以来、ずっと使われていなかった。
夫人の部屋というだけあって調度品も何処《どこ》となく女性らしい。城塞のような武骨な城の中にあってはいささか不釣り合いで……窓の違いもあって、この部屋だけ他から移築してきたかのように思う者もいるだろう。
「……鳥籠だわ」
他の部屋よりも大きな窓だが、縦横に走る窓枠のせいで余計に閉塞感を感じるのは自分だけなのだろう。この部屋を与えられた時に「まるで空の中にいるようでしょう?」と言われたくらいなのだから。
あの時は愛想《あいそ》笑いでやり過ごしたが、何時《いつ》まで経《た》っても「空の中のよう」と感じることはできない。
建前は使われていない空き部屋だから、ということだが、正式に婚姻を結んだわけでもないのに正妻の部屋を与えられるのは名誉なこと。自分が既《すで》にその立場に相応《ふさわ》しいと、この家から認められている証でもある。
だが。
本来なら此処《ここ》にいるのはお姉様だったのに。
アイリスは気だるげに長椅子《ソファ》に寝転び、窓の外を眺める。
使用人が傍《そば》に居る間は良家の子女として長椅子《ソファ》ですら背を伸ばして座っていなければいけないが、今は誰もいない。
この城は幼い頃から姉と共に足繁《あししげ》く通ったものだった。
当時、この城の次期当主と言われていた――今や当主となっている――紅竜と姉が許嫁《いいなずけ》同士だったということもあって、自分《アイリス》もまるでこの城の姫であるかのような扱いを受けていた。いずれは親戚、そして義理の兄になるのだから当然だと自分でも思っていた。
姉をこの家に嫁がせる代わりに青藍を婿養子として迎えようという案が裏で動いていたこと、その時に青藍の相手になるのは自分だということも知っていた。
それが姉の失踪と共に全て壊れた。
紅竜もこの家も自分《アイリス》に対する対応は変わっていないが、よそよそしい空気は拭えるものではない。交流は減り、足も遠のき、そうしている間に青藍までもが魔王役として人間界に去り、内々に進められていた自分との縁談も立ち消えた。
紅竜がこの家の当主になって以降、彼は見事な手腕でこの家を繁栄させている。
誰もができるわけがないと思っていた事案をあっさりと成功させ続け、まるで彼の意のままに世界が動いているかのようだ、と揶揄《やゆ》されているのも聞いた。
その恩恵にあずかろうとメフィストフェレスの傘下に下る家も増え、まるで魔界の王の如き扱いを受けていることを自分の家《ヴァンパイア》を含めた旧家の面々は苦々しく思っていた。
だが、既《すで》に力の差は歴然。何時《いつ》か叩き潰されるだろう、特にヴァンパイアは婚約破棄の件もあって目をつけられているし、と陰《かげ》どころか大っぴらに噂され続け……それが何故《なぜ》、こんなことになっているのか、自分《アイリス》自身よくわからない。
この縁談を持ちかけてきたのは確かにメフィストフェレス側からだった。
紅竜からしてみればこの縁談にメリットなど何もないのに、と疑問は残る。
旧家の威信にあぐらをかいて繁栄の努力を怠って来た我が家《ヴァンパイア》が、家の存続のために折れるであろうことは赤子にも想像がつくのだが。
おおかた、格上の家の娘を娶《めと》ることでさらに箔をつけるつもりなのだろう、とは祖母の談だが、何時《いつ》までもそうして上から目線でしか物事を見ることができないから落ちぶれたのではないか?
どちらにせよ、自分はただの駒。自分の意思が反映されることなどない。今は。
……そう。今は。
正式に紅竜と婚姻を結び、正妻となればまた違って来る。その日が来るのはまだまだ先のことだけれども。
「これはお姉様の役割でしょ?」
幼馴染みで言いたいことを言えた姉と、年の離れた「許嫁《いいなずけ》の妹」でしかない自分とでは立場が違う。青藍にならまだ歳が近い分言いたいことも言えるが、紅竜ではそうもいかない。柘榴《ざくろ》などは嫁いだ先で親交を育んでいけばいいのだと言うけれど……。
気が重い。
アイリスは長椅子《ソファ》に寝転んだまま溜息を吐《つ》く。
その部屋の扉が、おそるおそる、音を立てることにすら気を使っているかのように開いた。
隙間からピョッコリと顔を出した灰色のウサギは、部屋に入ると再び器用にドアノブにぶら下がり、体重をかけるようにして扉を閉める。どれだけ馴れていたとしても愛玩動物《ペット》にできる技ではない。
「遅かったわね、柘榴《ざくろ》。途中でケルベロスに食べられてしまったのかと思ったわ」
無事に閉められた、と安堵するウサギの背後から冷たい声が投げられた。
長椅子に寝そべりながら爪を研いでいるアイリスは、レースをふんだんに使った豪華なドレスと大ぶりの|耳飾り《イヤリング》で飾り立てられている。高い位置で髪を結い上げた髪留めも石が幾つも付いた金属製。腕輪《ブレスレット》と足輪《アンクレット》も同デザイン。あまりの重量感に、手枷《てかせ》や足枷《あしかせ》の代わりではないかと邪推してしまいそうだ。
現に踵《かかと》の高い靴は脱ぎ捨てられている。
あんな靴では走ることもできないし、上級貴族の令嬢が履く靴に走り回ることなど想定されていないのかもしれないが、この城にやって来てから彼女《アイリス》の生来《しょうらい》の快活さが失われつつあるように見えるのはきっと気のせいではないだろう。
昔は一緒に窓から抜けだしたりしたものだけれども、と、柘榴《ざくろ》は少しだけ過去を思い返し、それからその思いを忘れるように首を振った。
「でもすっごく広いお城ですよねぇ。こんなお城の奥様にお嬢様がなられるなんて、僕も鼻が高いです」
「何で柘榴《ざくろ》の鼻が高くなるのよ」
「執事として主人が良いところへ嫁がれるのは嬉しいことですから」
まるで自分のことのように喜ぶ柘榴《子ウサギ》にアイリスは冷めた目を向ける。
「柘榴《ざくろ》はこの婚礼が嬉しいのね」
「そうでしょう? 執事なら」
そう、それが当然だ。喜ぶべきなのだ。
嫁ぎ先としては1番の家。他の貴族たちのように没落していくことも爵位を剥奪されることも、この家なら当分ないだろう。実家の地盤も強固になる。
柘榴《ざくろ》だけではない。祖母も両親も親戚も、そして蘇芳《すおう》を始めとする使用人の皆もこの縁談を喜んでいる。彼らの生活と未来は自分《アイリス》の両肩に圧《の》し掛かっていると言っても過言ではない。
政略結婚を自分は嫌っていたのだが……親しい者たちの将来を天秤にかけられては、好き嫌いだけでものを言うわけにもいかない。
「あ、いませんでしたよ、鳩」
「……大きな声を出すものではないわ」
報《ほう》・連《れん》・相《そう》はコミュニケーションの基本! とばかりにはりきった声を発した柘榴《ざくろ》に、アイリスは眉をひそめた。
「あなたがこの城を探っているのは秘密なんだから」
紫がかった瞳に妖しい光が走る。
アイリスがこんな目をする時は何ごとかを企んでいる時。昔は悪戯《いたずら》を思いついた時によく見せられたものだが、しかし今回は悪戯《いたずら》ではない。そればかりかこの企みが知られれば自分《ざくろ》も|彼女《アイリス》も、そして残して来た家の者までもが危ないことになるかもしれない。
柘榴《ざくろ》は今更ながらにあたりを見回した。
先日、この家の執事長でもある犀《さい》が鳩を連れてきた。
入城して以来退屈そうにしている自分《アイリス》を慰めるためかとも思ったが、どうも違うらしい。
「なに、軽い実験ですよ」
犀《さい》はサイドテーブルに持って来た鳥籠を置く。
鳥籠を形作る細い金色がキラキラと煌《きら》めいた。
「実験?」
「そうです。新たな戦力を作るための実験を少々」
鳥籠の中にいるのは黒曜石のような目と純白の羽根を持つ鳩。
愛玩用に作られた鳩の中には孔雀のような尾羽を持つものもいて、一時期、貴婦人の間でブームになっていたが、これは何処《どこ》にでもいそうな鳩だ。人間たちはこの鳥を平和の象徴と呼んでいるらしい。
「戦力? 鳩が?」
「ええ。ご存じですか? 人間どもは鳩が飛んできたって誰も何とも思わないんですよ。それどころか歓迎すらします。カラスでも雀でも孔雀でもなく、鳩にだけ。不思議ですね」
人間どもは、と犀《さい》は言ったが、自分たち魔族にとっても鳩は別段、忌むべき存在ではない。公園で餌をやっている子供の姿もよく見かける。不思議、と言われれば自分も何故《なぜ》鳩ばかりがと思うが、丸みのある体形《フォルム》や近付いても逃げない性格などが愛らしく、友好的に映るからではないだろうか。
しかし、その「平和の象徴」を「戦力」に?
その「実験」をこの部屋で?
アイリスは訝しげに犀《さい》を見上げる。
「……それで? 私に何をさせようと仰《おっしゃ》るの?」
わざわざこの部屋に連れて来るのには意味があるはずだ。
おとなしい小鳥を「戦力」にするには薬や術で狂暴化させるのが手っ取り早いが、もし暴走して自分《アイリス》が負傷することにでもなったら犀《さい》はその責任を取らされる。執事長であり、今では紅竜の片腕としても動いているこの男がそのような愚《ぐ》を冒《おか》すとは思えない。
ならば、この鳩を「戦力」にするために自分《アイリス》の力を使おうとしている、と考えるのが順当だ。
自分の力。考えられることはひとつしかない。
止まり木に大人しくとまっている鳩はこれから我が身に起きることを察してなどいないのだろう。首を竦《すく》ませてあたりを見回している。
犀《さい》はおもむろに鳥籠の蓋を開け、中からその鳩を取り出した。
「実はアイリス様にこの鳩を魔族の一員に加えて頂きたいのです」
ほらきた。
アイリスは心の中だけで呟く。
わざわざ自分のところに持って来るのだ。彼の「実験」に自分《アイリス》の力がいるということに他ならない。
自分の力――ヴァンパイアの能力を。
「この鳩と契約しろと仰《おっしゃ》るのかしら?」
わざとはぐらかした答えを返してみるが、目の前で笑みを浮かべて立っている犀《さい》は動じる様子もない。
ホント、昔から食えない男《ひと》。
アイリスは笑みを貼りつかせたまま微動だにしない男を前に、肩を竦《すく》める。
魔族が他の種族を自分たちの仲間に入れる、という言葉には2種類ある。
文字通り「仲間」として扱う――共闘する相手、同じ志を持つ者として認める、という意味と、「魔族に変えて」一族に加えるという意味だ。
後者の場合、一般的には「契約」と呼ばれる儀式をもってそれを行う。
自《みずか》らの魔力と命を相手に注ぎ込むことで相手を魔族に変えるその術は、相手の肉体そのものを変える必要があるため、失敗する可能性がすこぶる高い。近年では青藍の母、第二夫人が比較的成功した例として挙げられていたが、彼女も完全ではなかったのか、数ヵ月前に他界している。
施行した者に何かが跳ね返ってくるという危険があるわけではないが、失敗すればその相手は粉々に砕け散るわけで……血を見慣れていると思われているヴァンパイアとて、毎日が血に染まった生活を送っているわけではない。目の前でスプラッターな惨状を見せつけられるのは乙女心にもショックが大きいし、あまり見たいとも思わない。
「いえ、ひと口噛んで頂くだけで結構。この鳩をヴァンパイアに変えて下さい」
犀《さい》は自分の手に止まったままの鳩を腕ごと差し出す。
野生ではないのだろうか。随分と人に慣れた鳩だ。と思うと共に、もっといろいろ言われるかと思っていたのに、と拍子抜けもする。
契約の術を誰かに施した経験は1度もない。
ただでさえ失敗する確率が高いと言われている術を望まれて、それで本当に失敗した日にはこの婚儀を良く思っていない人々――紅竜の妻の座を狙っていた他家の令嬢たちとその親――から何を言われることか。
それをしなくて済む。
吐《つ》いた安堵の息の大きさに、予想外に緊張していたことを改めて知る思いのアイリスだった。
だが、いくら当主の婚約者と言えども、自分はまだこの家の者ではない。
犀《さい》が信用に足る人物だということはわかっている、以前、この城を訪れていたグラウスに「自分を使い走りに使うのは犀《さい》だけだ」と冗談めかして言ったこともある。
相手を噛み、血を啜ることで同胞《はらから》に変える術は、自分たちヴァンパイアだけが行える術。契約と違って失敗をおそれることもないほどだが、他家から指示されてそれを行うことには一族の誇りを汚されたというか……信用に足る男《犀》からだったとしても、躊躇《ちゅちょ》するものもないわけではない。
自分は人質。表向きは旧家同士の政略結婚。
自分がこの城にいる間、実家はこの家《メフィストフェレス》から攻撃を受けることはない。だから紅竜の機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。正式に正妻の座を射止めるまでは。
しかし。
「鳩なんかをヴァンパイアにしてどうするのよ」
昔から吸血鬼、と呼ばれてきた力。相手を同族と化すその力は、祖母からも無闇に使ってはいけないと言われている。
ヴァンパイアと化したと言っても、それは生粋《きっすい》のヴァンパイアとは似て非なるもの。余程《よほど》自《みずか》らを制することが出来る者でなければ、この術の唯一の欠点とされる「凶暴な性《さが》」が表に出てきてしまう。
それを鳩、に。
凶暴化するのは目に見えている。戦いに使うのなら構わないのかもしれないが、その前に鳩は人語を解さない。つまり、命令など聞かない。
空を飛ぶ戦力が欲しいのなら羽根の生えた魔族を使えばいい。
形の小さい《敵に見えそうにない》戦力が欲しいのなら精霊を従わせればいい。魔族に従属する精霊も多くいる。わざわざヴァンパイアの力でもって仲間に加える必要性を感じない。
「制御する術《すべ》は考えがありますのでご安心を。なぁに、本当に軽い実験なんですよ」
さあ、と犀《さい》は鳩を出すばかり。
結局アイリス側が折れたのだが、その後の経過について何も聞かされないまま数日。犀《さい》が、そして紅竜が望む結果が出せたのかどうか、アイリスとしても成否は気になる。
「何考えてるかわからない人たちですよね、犀《さい》様も紅竜様も」
迎合する柘榴《ざくろ》の声を聞き流して、アイリスはサイドテーブルに目を向ける。
もうそこには鳩もいない。鳥籠もない。
「そうね……あれが本当に人間に対して使うため”だけ”ならいいのだけれど」
とうとう最後まで犀《さい》はあの鳩が何の実験に使うのか、教えてはくれなかった。
女の自分が口を挟むことではないのだろうとは思うが、知る権利はある。
幼い頃から頭が上がらなかった相手とは言え、犀《さい》は執事長でしかない。
逆に自分《アイリス》は当主夫人となる身。断ろうと思えば断れた。断ったと知った紅竜がどう思うか、と、そこまで考えて要求を飲んでしまったが、本当に紅竜が機嫌を損ねるかどうかは定かではない。
気に入らない者は人知れず処分するだの魔界の王だのと噂ばかりが先行しているが、紅竜は昔から自分には甘かった。年の離れた妹だった昔も、姉が失踪し、家同士がギクシャクしてしまった今も。
だから大丈夫、とは言えないが、紅竜がヴァンパイアの能力を欲してこの婚姻を決めたのだとしたら……出し惜しみして温存すべきだったのではないだろうか、と今でも思うことがある。
つい先日も兵が隊列を組んで出て行くのを見た。
昔は何かあればすぐ戦《いくさ》になったそうだが、今は家同士の諍《いさか》いも話し合いでおさめてしまう時代。武力よりも交渉や駆け引きが主流になり、戦うことが減った。今ではどの家も戦費は縮小傾向にある。
なのにこの城はそうではない。
平和に浸かっているだけでは兵の腕も鈍ってしまう。
魔族同士の争いは減ったが、戦う相手は他にもいる。例えば人間はただ狩られるだけではなく、対抗するための武器を開発している。だから訓練が欠かせないのだ、と犀《さい》は言っていた。
先日の兵士たちも目的は人間狩りかもしれないし、単なる実地訓練かもしれない。他家を制圧しに行くほうが稀《まれ》だろう。
けれど実家ではそうして出ることすら皆無。言い換えれば「戦い」から離れてしまっている。
もしあの兵士たちを差し向けられたらひとたまりもない。犀《さい》が持って行った鳩も、使い方によっては自分たち《ヴァンパイア》にとっての脅威になってしまう。
自分が嫁ぐことで姻戚関係を結ぶとは言え、今後この家が掌《てのひら》を返すことがないとは言えない。
この身もこの力も、何時《いつ》必要がないと思われるか。思われればどうなるか。
自分だけは紅竜の処分対象にはならない、だなんて、思っていてはいけない。
人間という単語に、ふとノイシュタインで出会った娘を思い出した。
人間は狩って食べるための生き物。家畜。ごく稀《まれ》に魔族に受け入れられる者もいるが、それにしたって愛玩動物の域だろうと思っていた。
でも違った。
自分たちと同じ容姿をし、同じ言葉を喋り、同じように考える。同じように誰かを想い、誰かを庇《かば》う。怒り、笑い、悩む。
それを、食べる。
アイリスは、つ、と手を口元にやった。
「ねぇ、どうして魔族は人間といがみ合っているのかしら」
独り言のように問いを口にすると、柘榴《ざくろ》は不思議そうに目を瞬かせた。
「そりゃあ魔族が人間を食べるからでしょう?」
「食べなきゃいいじゃない」
彼はルチナリスたちと旅をして何も思わなかったのだろうか。
口にできる身分ではないから思うこともないのだろうか。
最近は人間側も武装するようになってきたので、昔のように狩ることはできない。集落によっては魔族を排除する結界で覆っている場所もあると聞く。そんな結界は今後も増えるだろう。
そしてそんな結界だらけになったら、魔族は集落と集落を行き来する旅人を襲う程度しかできなくなる。結界を破壊するには魔族側の被害も――怪我だけではなく、命を落とすかもしれないことを――覚悟しなければいけない。
が、そこまでして口にする価値はあるのだろうか。
ヴァンパイアであるアイリスですら人間の血肉は数度、それもほんの僅《わず》かな量を口にした程度だが、命を賭けるほどの味だとは思わなかった。最近では希少価値が高まるあまり「魔力が増える」だの「滋養強壮」だのといった謳《うた》い文句を付けられていることもあるが、そんな効果はない。体調を崩していた姉へ紅竜が頻繁に血を届けさせていたが、姉が回復することなどなかったのが確固たる証拠だ。
「他に食べるものがないなら仕方ないけれど、別に食べる必要を感じないのよね」
「……お嬢様はお優しいですねぇ」
複雑そうな顔で柘榴《ざくろ》はカーテンを閉める。
少し前まで明るかった窓の外はもう闇に閉ざされようとしている。
冬は日が落ちるのが早いと言うけれど、此処《ここ》へ来てさらにそう感じる。緯度のせい、というほど遠い地ではないのだが。
「もの凄く美味《おい》しいって言うじゃないですか。そのせいじゃないんですか?」
「そうかしら」
自分の味覚が間違っているのか。
いや、きっと自分は正しい。
あの娘――ルチナリスと言ったか――は青藍が義妹《いもうと》として手元に置いていた。何でも子供のころに引き取って以来、10年間も育てているのだと言う。
それを聞いた時は何と奇矯《ききょう》な、と思ったが、今ならわかる。
あんなにも……自分たちと同じだとは思わなかった。
共に旅をした当時もそう思ったが、彼女を殺して食べるようなことは、自分にはきっとできない。
「あ、青藍様と言えば、さっきそれっぽい人をお見かけしましたよ」
柘榴《ざくろ》が思い出したかのように顔を上げた。
「青藍様?」
そう言えば風の噂で青藍が魔王役を終えたと聞いた。以前、叔父の別荘で再会した時にはまだ数百年は魔王を続けそうに見えたものだが……紅竜が魔界に戻るよう熱望していたらしいし、気が変わったのかもしれない。兄の婚礼に出席するついでに、キリがいいから、と辞めたのかもしれない。
今回ばかりは新郎となる兄に仕切らせるわけにはいかないから、彼が主《おも》だってしなければいけない役回りもあるだろう。
そして青藍が戻ってきているのなら、その傍《そば》に寄り添うようにしているあの執事も――。
「髪が黒い人なら青藍様だ、って言ってらしたでしょう?
……そう言えばお嬢様のお相手って最初は青藍様だったんじゃなかったでしたっけ? 戻ってきたら昔の女が兄と結婚することになってました、って、奥様方がお好きな展開らしいですけど大丈夫ですか?」
だがしかし。
柘榴《ざくろ》の興味は執事《グラウス》には向かなかったようだ。
いつもなら自分が「執事さん」と口にするたびに妙に張り合って来たものだが……柘榴《ざくろ》の脳内では青藍がいればグラウスもいる、という矢印は作られていないらしい。
だから。
「そんなことにはならないから安心しなさい。青藍様にはね、執事さんがいるからいいのよ。あのふたりのためなら私はいくらでも壁になれるわ」
「ああ、執事さん」
「執事さん」と口にした途端に柘榴《ざくろ》の口調と表情が変わった。
こうもあからさまに嫌そうな空気を醸し出してくれるのは、自分が「執事さん」「執事さん」と褒めすぎたせいもあるのかもしれないが。
「って言うか、壁ってどういう意味ですか」
「手を出さす、口も挟まずに見守ることよ」
「青藍様と執事さんを?」
「ええ」
「……お嬢様。言いたかないですけど失礼ですよ? 友人同士みたいに信頼し合っているおふたりをそういう腐った目で見るのは」
そして柘榴《ざくろ》が「執事さん」の話題になると距離を置こうとする理由はもうひとつある。
自分《アイリス》があのふたりをそういう目《不純同性交遊》で見ていることへの嫌悪だ。
あの執事《グラウス》の態度を見ていれば、断じて腐った《妄想が作り出した》フィルター越しに見ているわけではないとわかりそうなものなのだが、柘榴《ざくろ》は本人に会ったことがないから――そっくりさん《他人の空似(?)》には会ったことがあるけれど――わからないに違いない。
まぁ、わかったところでそれを応援したり生温かく見守ったりできるかと言えば、それは個人の価値観の違いもあるし、きっと柘榴《ざくろ》は拒否反応を出すだろうとは思う。サロンで女友達と噂話に興じるのとは違うのだ。
だがしかし。
「そこまで仰るならやっぱり当初の予定どおり青藍様と結婚なさったほうが良かったんじゃないですか? お嬢様の我《わ》が儘《まま》にも耐えてくれる人らしいし、一応姻戚関係にはなるし、いくらでも壁になれるし」
珍しく妥協したことを言って来た。
彼自身、今回の婚儀に疑問を感じる部分もあるのかもしれない。
アイリスの家の格は決して低いものではないが、今のメフィストフェレスへの権力集中を思えば、紅竜に嫁ぐことが魔界貴族の女性陣の頂点に座すことになるのは間違いない。
だから家長でもある祖母を始め、両親も親族も使用人たちに至るまでがこの縁談を喜んだ。あれだけいがみ合っていたのに、掌《てのひら》を返すように。
そしてもうひとつ。
アイリスが入城してからこちら、1度も紅竜は顔を見せない。いつも犀《さい》が彼の意思を伝えに来る。
挙式より前に新婦が入城するのは、事前に家のしきたりを学ぶことの他、親族、使用人の顔を覚え、覚えられるため。そして当人同士の親睦を深めるためもある。なのに会いにも来ない。
この家を魔界の頂点にまで押し上げた紅竜の手腕を思えば、「忙しいからだ」と言う理由ももっともだ。姉が失踪したことへの負い目もあって、アイリス自身、紅竜と会わずに済むならそのほうが気楽だったりもするが、不自然であることは否《いな》めない。
避けられているのではないか。
白紙に戻されるのではないか。
紅竜にその気はないのではないか。
婚儀が無事に終われば杞憂《きゆう》に過ぎなかったと笑い飛ばせるのだろうが……。
「紅竜様よりお嬢様のお相手には向いてるんじゃないですか?」
そして青藍は次男だ。
婿養子として迎えることができればアイリスはヴァンパイアの城を出ずに済む。
元来、アイリスの身のまわりの世話をさせるのに実家は選りすぐりの執事やメイドを用意していた。だが、その全てが「彼《か》の家の風習を持ち込む必要はない」と門前払いを食らっている。ただ柘榴《ざくろ》だけはアイリスと歳が近いことと、執事「見習い」であるということで、アイリスの話し相手、兼、執事業を学ばせるため、という理由で残ることを許されたのだ。
上級貴族の中でもトップに位置する家で、他の執事の仕事を見て学ぶ。そんな機会は滅多にない。見習いの柘榴《ざくろ》にはいい経験になるだろう。
入城した当初、犀《さい》からもそう言われたし、アイリスも柘榴《ざくろ》もそれについて異を唱えるつもりはない。が、他所《よそ》の家よりは勝手がわかっている自分の家のほうが気が楽なのも間違いない。
特に「壁になる」などという怪しい行動を取ろうとしているのなら、人目を気にしないで済む「我が家」のほうが格段に。
「それは青藍様のほうが気楽だけど。でもそう言うわけにはいかないのよ、大人ってものは」
「家のためには紅竜様じゃなければ駄目だってのはわかりますよ僕も」
多分、柘榴《ざくろ》は本気で自分《アイリス》の幸福を考えてくれている。
誰もが「家のため」に婚儀を進めようとする中で、「アイリスのため」に何ができるかを考えてくれている。それが自分たちの力ではどうにもならないことだとしても。
くだらない雑談で気を紛《まぎ》らわせようとしていることも、誰もが「使用人」として傅《かしず》く中で、唯一、「幼馴染み」として相手をしてくれることも。そして、アイリスの疑問を晴らすためにそれとなく城内を探ることも。
「ねぇ。執事さんに今度お暇があったら遊びにいらしてね、って言っておいて頂戴《ちょうだい》」
「……だから。僕は執事さんも青藍様もお顔を存じ上げませんって何度言ったら、」
「あるでしょ? ルチナリスたちと一緒だった時の森で」
「獣耳《ケモミミ》&女装のインパクトとお嬢様たちの絶叫が凄すぎて顔なんか覚えてませ、」
「――グラウス=カッツェならいませんよ」
突然の声と共に、困ったように眉を寄せるウサギの背後の扉が開いた。
犀《さい》と、そして彼に続いて数人のメイドがワゴンを押して入って来る。
何時《いつ》から話を聞いていたものやら。
紅竜が全くアイリスの相手をしないことから、柘榴《ざくろ》が主従の垣根を越えてアイリスと親しくしていることも大目に見てくれているが、それに甘えることはできない。見習いとは言え、柘榴《ざくろ》の振る舞いがヴァンパイアの城でのデフォルトだと思われるわけにはいかないし……柘榴《ざくろ》の密偵紛いの動向に気付かれるわけにもいかない。
綺麗に盛り付けられた皿は、夕食の時間であることを無言のまま訴えて来る。
見習い執事がこの部屋にいることのできる時間は過ぎた。いくら幼馴染みだとは言え、嫁入り前の娘の部屋に居座るのはどうか? と。
柘榴《ざくろ》はペコリと頭を下げると、部屋を出て行くメイドの後に続く。
その姿に、アイリスは子供の時間が終わったことを知るのだった。
「ヤマシギのサルミソースでございます」
出て行く柘榴《ザクロ》の後ろ姿を目で追っていたアイリスの耳に、犀《さい》の声が聞こえた。
随分と長い間、見ていたのだろうか。何時《いつ》の間にやら窓際にテーブルが据えられ、料理が並んでいる。メイドは既《すで》に姿を消し、犀《さい》ひとりだけが給仕よろしくテーブルの脇に立っている。
夜景を見ながら食事と言えば聞こえはいいが、向かいの席には誰もいない。椅子すら置かれていない。
アイリスはこそりと溜息をついた。
「お気に召しませんなら他の料理とお取り換えしますよ」
「そう言う意味ではないわ」
慇懃《いんぎん》な声を聞き流して席に着き、アイリスはナイフとフォークを取る。
「毎日こんな料理が出て来るなんて凄いわね、と思っただけ」
ヤマシギはジビエの女王と言われている稀少価値の高い鳥で、実家でも滅多に食卓に上ることはない。それこそ人間の血肉よりも出現頻度は低い。それをこの城に来てからもう3度、それぞれ調理方法は異なるものの目にしている。
ひと切れ取り上げると、肉から赤黒いソースが滴《したた》った。そして隠しようもない血の臭い。
以前紅竜にヴァンパイアがトマトを好むなんてデマもいいところだと話したことがあるが、だからと言ってバンパイアは別段、血生臭い料理を好むわけではない。
野鳥ともなると肉自体の臭みも強いというのに、ほぼ生肉。それが3度目。嫌がらせではないかと邪推したくもなるものだ。
そして溜息はヤマシギのせいばかりではない。
「紅竜様の栄華、此処《ここ》に極まれり、と言えばよろしいのかしら」
たとえ気に入らない焼き加減であろうとも、ヤマシギが希少価値のある肉であることは確か。そのほかの魚や野菜や果物も実家の食卓には上がって来ないものばかり。それを毎食目にする度《たび》に、覆《くつがえ》しようのない格差を――実家が過去の栄光を必死に振りかざして優位に立とうとしているだけだという現実を――感じる。
「アイリス様もお口がお上手になられました」
片眼鏡の奥の目がゆらりと揺れる。
それを見て内心、大人の世界って面倒くさいわね、と思ったが、それは黙ったままアイリスは自嘲《じちょう》気味な笑みを零《こぼ》すにとどめた。
そう思っていることを犀《さい》は勘づいているだろう。
だが決して口には出さない。自分《アイリス》を貶《おとし》める発言はしない。
だから、自分も言わない。自分はメフィストフェレスの嫁である以前にヴァンパイアの姫でなければいけないのだ。
そんな面倒くさい世界に私は片足を突っ込んでいる。数日後には両足を、そして数ヵ月後には首まで沈み込んでしまうのだ。
「……ご一緒なさればよろしいのに。紅竜様も」
アイリスは椅子すらない向かい側に目を向ける。
封建的な家では当主は妻や子供とも同じ席では食べないところもあるそうだが、此処《ここ》は違ったはずだ。第二夫人の葬儀の時は大広間を食堂に見立て、親族どころか列席者まで同席した。そこには青藍の隣に座り込んで熱心に話しかけていた当主《紅竜》の姿もあった。
忙しいと言えど食事は取るだろうに……何故《なぜ》自分とは1度も同席しないのか。同席するに値しないと思われているのか。
「落ちついて座っていられないほどに忙しい時期に重なってしまいまして。紅竜様もアイリス様にお会い出来ないことを日々残念がっていらっしゃいますよ」
「お口がお上手ね、犀《さい》」
「おや、これは私としたことが」
この城に来てから、食事時のアイリスの相手はもっぱら犀《さい》が務めている。
相手をすると言ってもそこは執事なので同じ食卓を囲むことはしないが、彼自身も紅竜が全く食事の席に現れないことを見かねたのか、話し相手にはなってくれている。柘榴《ざくろ》がいてくれたほうが楽しく食事ができるとは思うのだが、そこまですると公私混同と言われてしまうのだろう。実家から連れてきた執事と始終共にいては何を噂されるかわかったものではない。
犀《さい》は執事長と言うだけあって物腰も優雅で隙がない。
柘榴《ざくろ》の祖父にあたる蘇芳《すおう》は家令職だから犀《さい》よりも格上にあたるのだろうが、職種の違いのせいなのか年寄りだったからか、アイリスに対しても孫のように接してきたものだ。
深い意味もない談話でさざ波のように笑い、挨拶を交わす。
上辺だけ取り繕《つく》っているような毎日。
それを違和感と感じなくなってきたのは、こうして毎食時に犀《さい》と腹の探り合いのような会話をしてきた賜物《たまもの》なのだろう。
この先一生涯、この生活が続いて行くのだ。
慣れなければ。もう子供のままではいられない。
「あー……ええっと、それで、先ほどの話ですけれど」
ひとりきりの食事も後はデザートを残すのみとなった頃、アイリスはおずおずと口を開いた。
「先ほど、と仰いますと?」
「グラウスさんが此処《ここ》にいないと」
どんな顔をしていたのだろう。犀《さい》は「あぁ」と口元を歪《ゆが》ませた。その表情に僅《わず》かに悪意を感じる。
「彼はもともとノイシュタイン城付きの執事ですから、青藍様の魔王解任と同時に解雇となりました。アイリス様の挙式当日には顔を見せるでしょうが」
「解雇!?」
アイリスは思わず声を上げた。
レディらしからぬと叱責されるかと思いきや、犀《さい》は目を細めて笑うだけだ。
「どうして? 優秀な執事さんなのに」
「ええ、ザイムハルト執事養成学校の首席卒業生ですからね。しかし当家にはそんな学生上がりの執事が束になっても敵《かな》わないほどの経歴を持つ執事は大勢いますから」
グラウスの経歴など大したことではない、と言いたげな顔だ。まるで解雇したのはこの男ではないのか、と思うほど。
否《いや》、実際に決定を下したのはこの男なのだろう。ノイシュタイン城の使用人は魔王役を輩出した家に一任されるのだから。むしろ城付きの執事なんて職があったのかと思うほどだ。
しかしグラウスほど主人に忠誠を尽くしていた執事を何故《なぜ》解雇してしまったのだろう。青藍と共にこの城に連れて来ることだってできたはずだ。既《すで》に執事は大勢いるかもしれないが、ひとり増やすだけの価値はある。
なのに……いや、理由はわかる。
青藍に近付きすぎたからだ。自分たちが噂話にするくらいなのだから紅竜や犀《さい》の目にとまらないわけがない。命を取られなかっただけ儲けものだと思わなければいけないかもしれない。
解雇された彼は今何処《どこ》にいるのだろう。他の家に行ったのだろうか。執事自体を辞めてしまってたのだろうか。挙式当日には姿を見せると言ったあたり、犀《さい》は彼が何処《どこ》にいるのか知っているのだろうが……。
「勿体《もったい》ないわ。戦える執事なんていないものよ?」
「そう仰《おっしゃ》るのならアイリス様の専属執事になさったらいかがです? まだ新たな主《あるじ》は決めかねているようですよ」
「専属、」
犀《さい》の申し出に、アイリスは少しだけグラウスが傍《そば》にいる光景を想像する。
青藍のためなら剣の前にも立ち塞《ふさ》がった男が、自分を主《あるじ》と認めて傍《そば》にいてくれる。ケルベロスが部屋まで押しかけて来たあの時のように、身を挺《てい》して自分を守ってくれる。まるで騎士のように。
柘榴《ざくろ》では頼りない。
蘇芳《すおう》には任せられない。
この家にいる顔も知らない執事たちなど話にもならない。
家に決められた相手に嫁がなければならない自分だが、傍《そば》に置く人くらいは……。
「……駄目よ」
そこまで夢想して、アイリスは宙を仰《あお》いだ。
「私は青藍様の代わりにはなれない」
彼《グラウス》の一途なまでの忠誠は他の誰でもなく青藍にだけ向けられているもの。命を救われたのが要因だと人伝《ひとづて》に聞いてはいるが、あの態度――壁になって見守りたいアレ――は決してそれだけに起因するものではないだろう。
職にあぶれたところを拾い上げたからと言って、自分が青藍に成り代わることはない。自分が見守りたいのは片想いのまま鬱々としている男などではないのだ。そんなものを見続けさせられるくらいなら柘榴《ざくろ》のほうがずっとまし。
でも。
「そのほうが柘榴《ざくろ》くんも勉強に専念できますよ? 今の状態ではどうしてもアイリス様のお相手をする時間を取られてしまいますからね」
見習いという中途半端さにも拠《よ》るのだろうが、柘榴《ざくろ》の立ち位置はアイリスの専属執事に近い。たったひとりだけ連れて来たことからしても、いずれはそうなるのだろうと思っている者はこの城にもいるだろう。
もしグラウスをその位置に入れれば柘榴《ざくろ》はあぶれる。もっとも柘榴《ざくろ》はそこまで自分に固執してはいないだろうから、そうなればなったで他の執事と同じようにやって行くのだろうが……そうなる前に執事の仕事は全て覚える必要がある。
なのに柘榴《ざくろ》は此処《ここ》では自分の話し相手にしかなっていない。色々と現場を見て勉強をと言っても、仕事が与えられているわけでもない彼は現場を見る機会すら与えられていない。
実家で蘇芳《すおう》に付いて習うか、もしくはそれこそグラウスのように学校に入ったほうが「一人前の執事になる」という彼の夢は早く叶うくらいだ。
祖父のような執事になることが柘榴《ざくろ》の夢。暫定的な主人でも幼馴染みだったとしても、その夢を自分が潰していいものではない。動きのとれない自分の代わりをしてくれるのは有り難いが、このままずっと密偵紛《まが》いのことをさせておくわけにもいかない。
「まぁグラウス=カッツェのことは置いておいて。柘榴《ざくろ》くんのことは私の方でも少し考慮しましょう」
「いいの?」
「彼もアイリス様と同様にお預かりしている大事な身ですからね」
考え込むアイリスに同情したのか、犀《さい》は皿を取り替えながら笑みを向けて来る。
音も立てないその姿。これを柘榴《ざくろ》に見せてやるだけでも、彼にしてみればどれだけ勉強になるだろう。
「そのかわりアイリス様のお話相手をする時間がなくなりますが、それでもよろしいですか?」
「……構わないわ」
アイリスは頷いた。
どうせ実家に帰して蘇芳《すおう》の元で学ばせるにしろ、養成学校に入れるにしろ、自分とは離れるしかない。それなら此処《ここ》で学んでくれたほうが、朝晩くらいにしろ会う機会があると言うものだ。
ふと、姉と共に姿を消した柘榴《ざくろ》の伯父、千日紅《せんにちこう》のことを思った。
彼が姉に対してどんな感情を抱いていたかは知らないが、姉を第一に考えていたからこそ共に消えたのだろうとは思う。だが家の意向に反する執事は執事としては失格だ。
だから自分は、柘榴《ざくろ》を千日紅やグラウスのようににするわけにはいかない。彼には思い描く未来へ、一人前の執事になると言う夢に向かってもらわねば。
建前だの世間体だののために潰れる未来など、自分ひとりの分だけで十分だ。
「食後は紅茶でよろしいですね」
犀《さい》は手《て》ずからカップに紅茶を注ぐ。
「執事長様が御自《おんみずか》ら淹《い》れて下さるなんて畏《おそ》れ多いわ」
「何を仰います。アイリス様は私にとっても主人となられるのですから、どうぞなんなりと」
そうして犀《さい》が差し出したカップは、上から見ると開いた薔薇のようにも見える。
これは自分《アイリス》のために用意されたものだと聞いた。カップと同じデザインのティーポットも、テーブルクロスも。
この部屋はアイリスのためだけに設《しつら》えたものではないが、城の中で唯一の女性向けということで選ばれた。本来ならばまだ使う地位にはいないにもかかわらず。
さらには犀《さい》を世話係に付けてくれている。不便なことがあっても犀《さい》がすぐに対処してくれる。お茶だってこうして何も言わないうちから用意してくれる。
犀《さい》が言うように、紅竜は会えない自分に申し訳なく思っているのかもしれない。
少なくとも気を遣ってくれていることは間違いない。
最初は家柄だけで選ばれたのだとしても、共に歩んで行くうちにかけがえのない相手になっていくのかもしれない。
自分には過ぎた相手に、これ以上を望むのはわがままと言うもの。柘榴《ざくろ》や蘇芳《すおう》が口にするように、追々《おいおい》愛を深めていけばいいのだ。両親やそのまた両親、自分の先祖たちがしてきたように。
それが貴族の家に生まれた者の宿命なのだから。
「……いつも思うのだけれど、これは何というお茶なの?」
「アールグレイでございますよ」
「アールグレイはこんな香りはしないわ」
紅茶通だというわけではないが、それでも数百年飲んで来たお茶の味くらいはわかるつもりだ。
犀《さい》がアールグレイと称して出してくる紅茶はジンジャーのような、またはナツメグやアニスのような不思議な香りが混じっている。アールグレイ自体もフレーバーティーの一種ではあるが、紅茶自体も色が濃く、粘度もあって……不味《まず》いわけではないが気になる。
「慣れない生活でお疲れのご様子でしたから、疲れを取る薬草を配合しております。おわかりになるとは流石《さすが》でございますね」
犀《さい》は正解を答えた生徒を見る教師のように頷いた。