14-11 08:30 a.m 義妹の部屋~配膳室




 ……これはないと思うの。

 翌朝。
 ルチナリスは姿見の中から自分を見返してくる「ソレ」に開いた口が閉まらなかった。
 肩までの硬そうな髪と真っ平な胸は同じ。というのは悔しい以外の何者でもないけれど、それ以外の、例えば頼もしくすら見えていた肩幅とか筋肉とか、あの執事と同じ目線になる上背もそこにはなく、代わりに映っているのは平凡でちんちくりんの女の子がただひとり。
 寝間着がきつくて着れなかったからという理由で裸で寝ていた《ハードボイルドっていた》が、貧相な体では恥ずかしい以外の感情が湧いてこない。慌ててクローゼットを漁《あさ》り、破れていない《愛を取り戻す前の》メイド服を引っ張り出す。
 袖も通せる。
 ボタンも留まる。
 腕を振り回してもビリッ! といってしまう心配なんていらないくらいに馴染んでいる。


 ……戻れた。
 ルチナリスは幾度となく姿見を見直し、頬をつねり、叩き、現実であることを実感する。

 戻ってしまった。
 姿見の向こう側から自分を睨みつけているのはどう見ても16歳の女の子で、間違っても男ではない。女顔の少年にすら見えない。でも乳はない。
 男化して以来ずっと願っていたことなのに、「なんで!?」という感情しか出てこない理由も、もの凄くよくわかっている。

 これってかなりヤバい状況ではないのだろうか。
 ルチナリスは昨日の惨事を思い浮かべる。


 ひとりの美少女をめぐって、鞭《むち》を振り回すクールビューティーなお姉様と対決した。
 こちらの武器はオンボロな箒《ほうき》ただひとつ。
 結果は予想するまでもなく惨敗で、ボコボコのズッタズタにされて。
 クールビューティーが美少女に止められて、怒られて、しょげ返って、宥《なだ》められて、その光景をガーゴイルたちが目を輝かせて見守っているという……まわりの視線を少しは気にしなさいよ! 百合百合《ユリユリ》しいのよ! と怒鳴りたくなるイチャコラまでがセットだったけれど、それでも、どっちに転んだって薔薇か百合にしかならない奴《やつ》よりはあたしのほうが勝っている! リベンジした暁《あかつき》には絶対に勝ぁぁぁぁつ! と思いながら床《とこ》に就《つ》いて。

 それで朝が来たら元に戻っていました、だなんて、あたし今日どうやってあのふたりに会えばいいのよ!!



 わかる。元に戻ったのはあたしだけではない。絶対に。
 着替えたものの再度ベッドにダイブし、毛布を頭から被《かぶ》った引き籠《こも》りスタイルのまま、ルチナリスは唸《うな》る。
 きっとあのふたりも同じように戻っている。そしてあたしと同じように記憶がある。


『もし、このまま、だったら……』


 義兄《あに》は鈍いから告白されたとも思っていないだろうけれど、問題は執事だ。
 想像するまでもない。嫌がらせを山のように用意して待ち構えているに決まっている。
 どうしよう。あたし、今度こそ噛み殺される。



 それでも今度ばかりは引き籠《こも》ることはできなかった。

「るーうーチャーーーーン!」

 大音声と共に飛び込んで来たフリフリエプロンが、有無を言わさず毛布を引き剥《は》がしたのだ。

「何時《いつ》まで寝てんのよぅ。お天道様はとっくにニッコリ笑顔でサンシャインよぉぉん♡」

 何処《どこ》かで聞いた台詞《セリフ》を聞きつつ、ルチナリスは襟首を掴《つか》まれ、ベッドから引き摺《ず》り降ろされた。その体勢のまま部屋から出され、廊下を引き摺《ず》られていく。

「お姉様と青藍様が待ってるわよぉん♡ 話すことがあるんですってェ」
「あたしはないわよぉぉぉぉぉ!」

 昨日の続きか!?
 無理!
 絶対に無理!
 非力なメイドの身で執事に歯が立つはずがない! 

「た~~~~す~~~~け~~~~て~~~~!」

 絶叫が廊下に響き、そして空《むな》しく消えて行った。




 城内が騒がしい。いつものように目を覚ましたアドレイは、身を起こしながら耳を澄ます。

 大丈夫。この喧噪はいつもと同じものだ。
 歪んだ硝子《ガラス》を姿見代わりに身支度を整え、テーブルの上に置かれた菓子皿からビスケットを1枚取る。

 このビスケットは自分《アドレイ》たちの朝食用に、と執事が用意して置いていった。
 いつものように湯を沸かし、いつものように淹れて持って行った紅茶は城主用だろう。彼が通常運転だということは城主もいつもどおり。とすると、あの喧噪も危険を知らせるものではない。
 おおかた今回の変化についてガーゴイルたちが喋っているのだろう。
 あの人間の娘まで変わったのは予想外だった、とか何とか。


「それで、私が外に出ている間は何をしていたの?」

 アドレイは目の前で葡萄《ぶどう》の粒に齧《かじ》りつこうとしている妹に目を向けた。

「別に? 普通に魔界から連絡が入るのを待機してただけよ? なぁんにもなくてつまらなかったわ」

 ニィ、と口角を上げて妹は嗤《わら》う。
 悪魔の城は休業だ、城主も執事も暇だから今のうちに出掛けてこい。そう言って追い出した彼女の言う通り、何もなかったのだろう。
 この城にいなくてはいけない、と思っていたのは自分だけだった。などと卑下《ひげ》するつもりはないが、何も問題が起きなかったことを、自分を必要とする事態にならなかったことを何処《どこ》かで残念に思う自分がいる。


「アドレイは? 初めてのお出かけ、楽しかった?」
「ええ。スノウ=ベルのおかげね」

 この城にいては見ることのできないものを見た。
 食べることのできないものを食べた。
 聞くことのない感情も聞けた。
 人間の世界など一生かかわることなどないと思っていたが、なかなかに面白い経験だった。これも妹が外に出してくれたからに他ならない。

「でもあの曲とダミ声の意味はわからなかったわ」
「それは残念。きっとアドレイには知る必要のないことだったのよ」
「そう?」
「ええ。世の中にはあなたの知らないこともたくさんあるってこと」


 妹に向けていた視線を、アドレイは時計に移す。
 カチリ、カチリ、と時を刻む時計は外出前と変わってはいない。窓にかかっている鍵の傾き具合も、棚に並ぶ茶器も、城の住人も。


「……何もなくて良かったわ」

 ただひとつ。
 嘲笑《あざわら》うような笑みを向ける妹以外は。