「行ってきます、お兄さん」
そう言って出ていく後ろ姿を、俺はただ見送る。
海岸に沿って弧を描く一本道は背景が空の青と海の蒼《あお》に埋め尽くされていて、その中で風を孕《はら》んだシャツに身を包んだ彼は殊更《ことさら》に白くて。なのに、その白は目を離した隙《すき》に空と海の青に溶けてしまいそうで。
だから彼の姿が見えなくなるまで目で追ってしまう。
俺はあの隣を歩くことができない。
共に学ぶことも、同い年の親しさで話をすることもない。
どんな理不尽な我が儘《まま》を突きつけてみても、ムキになって突っかかって来るどころか困ったような笑みを浮かべてその我が儘《まま》を受け入れてくれるのは、彼が俺を幼馴染みなどではない――”目上”と認識しているからだ。
彼にとっての俺はただの”同級生の兄”。
今こうして此処《ここ》にいることすら彼が疑問に思っているであろうことも知っていて、こんな我が儘《まま》を通すしかできない俺は本当に馬鹿だと思う。
現世での出会いは3年前に遡《さかのぼ》る。
突如人類を襲った未知のウイルスが、突如として世界から消えた3年前の夏。すぐそこの海岸で俺は彼に出会った。
ああ、出会ったという言い方には語弊があるかもしれない。
彼がいると、あの時の俺は確信していた。俺は彼に会うために此処《海》に来た。
そして当然のようにいた彼に有頂天になって抱きついてあの頃のことをいろいろ喋りまくって、自分ひとりでどうにかしようとするところや最後まで俺を置いて行ったことなどなど際限なく湧き上がる文句をひとしきり並べ立てて……何も返して来ない彼にふと我に返って見れば、理解不能と顔にありありと書いた彼が腕の中で固まっていたというわけで。
そう。彼は覚えていない。
前世か来世か夢なのか、それともただの異世界か、そんな世界の自分のことを。その世界に入り込んだ俺のことも。
再会した時にその片方が記憶をなくしている、なんてシチュエーションは恋愛系の定石だが、まさか自分自身に降りかかってくるとは思わなかった。
いや、恋愛要素は何処《どこ》にもない……つもりではいたのだけれども。
改めて見てみればあの頃の知り合いが山のようにいる現世で、あの頃のことを覚えているのは俺だけ。まぁ前世の記憶がある人間なんて滅多にいるものではないし、そう考えると能登大地の記憶に凝り固まって引き籠《こも》った俺を”前世の記憶がいきなり蘇《よみがえ》った設定”で接してくれた彼らの許容量の大きさには頭が下がる。
「だから……責められないんだよなぁ」
今ならわかる。
”ノクト”の記憶を思い出さない俺を、彼がどんな想いで見ていたのか。どんな想いで接してきたのか。
結局俺はノクトではなかったから思い出すはずもないのだけれど……そう考えると彼も顔がそっくりなだけの別人だという可能性もあるわけで、そうなると余計に思い出さないことを責めるわけにはいかなくて。
ともかく、15歳のくせに悲しみか怒りか諦めかもつかないその感情を全く見せなかった彼のことを思えば、30代後半の俺にできないはずがない。
そもそもこうして共同生活しているだけでも、彼にしてみれば最大限譲歩してくれていることなのだ。
俺はただの”同級生のお兄さん”。
その同級生たる妹に俺の素性を確認したとは言え、3年前のあの日以前には面識どころか存在すら知らなかった、自分とは倍も歳の離れたオッサンが、何だかんだと家に居座っているのに警察に突き出しもしない。
「前世で一緒に暮らしていた」とは伝えたが、どう解釈してくれたのか。
字面《じづら》のとおりなら夫婦か恋人、もしくは親子。
再会時に抱きついて来た挙句《あげく》「生きてたんだな」だの「よかった」だのと言われれば、前世でかなり親密な関係だったにもかかわらず不幸な別れ方をしたらしいと察してくれていることは間違いない。
だから警察沙汰にもなっていないのだろうが、あまりに素直に信じすぎるから逆に心配になってくる。
そうでなくても高校生、いや出会った当時は中学生のひとり暮らし。
義務教育課程の子供がひとり暮らしなんて民生委員か児童相談所あたりで問題にならなかったのか? と思ったのだけれども、どうも親は生きていて、戸籍も此処《ここ》にあって、ただ単に双方がそれぞれに仕事で海外を飛び回っているだけ……という微妙な抜け穴が重なった結果だそうで。
しかもそんな生活が長かったせいで本人はひとり暮らしを異常だと思っていない、と来た。
生活費も授業料も親の口座から勝手に引き落とされるから金で困ることはないし、本人も家事全般は難なくこなす。
せめて世間の目がもう少し彼に向いていれば彼も自分が置かれている状況の異常さに気がついたかもしれないけれど、都会と田舎が絶妙に混ざり合った地域ならではの”他人に干渉する度合いが中途半端に低い”せいもあって、誰からも気付かれないまま済んでしまったのがいけない。
しかしだ。
15歳の子供がひとり暮らしだなんて、もし何かあったらどうするんだ。
海外生活の長い親の影響か、妙に小洒落《こじゃれ》た一軒家。アンティーク風の門扉は無駄に金持ち感を醸《かも》し出しているわりに入り込みやすいし、鬱蒼《うっそう》とした木に囲まれた庭は中で何が起きようとも外からは見えづらい。
しかもこのあたりは海水浴場なんてものがあるせいで。見知らぬ”外からの人間”の出入りも多い。
そんなところに危機感が異様に低い子供がひとり。
心配のあまり押しかけて、押しかけたら帰りづらくなってしまって、何だかんだと誤魔化しながら3年居座っている俺も俺だけれども、「自分が登校してしまうと日中に家を空けられないから帰れないのでは」と、妙な気をきかせて合鍵を渡して来た彼を前にしたら、家に帰るなんて選択肢は吹き飛んでしまった。
危険すぎる。
これで今まで生きて来たのだから彼にしてみれば俺がいようがいまいが大丈夫なんだろうけれど、俺の心臓が持たない。
彼には幸せになってもらわなければ。
目を離した隙に空き巣に襲われたなんてもっての外《ほか》。前世があまりに不幸で理不尽(だと俺は思っている)すぎたから、現世で彼が幸せに生きていることを見届けなければ、俺が罪悪感で生きていけない。
前世でも現世でも”前世”に縛られて生きる俺を、
「……ごめんな、マーレ」
彼が知ったら、「馬鹿馬鹿しい、そんなこと頼んでない」と一蹴《いっしゅう》するのだろうけれど。
彼が学校に行っている間、俺は家政夫よろしく掃除をし、庭の草木に水を撒く。
冷蔵庫の食材を確認し、夕食の献立を考え、足りなければ買いに行く。
適当にありあわせのもので昼を済ませたら夕方までシナリオを練ったりプログラムを組んだりし、涼しくなったら洗濯物と郵便を取り込み、夕食を作る。
帰ってきた彼と夕食を済ませ、学校での出来事を2言《ふたこと》3言《みこと》聞き出し、あとはそれぞれ好きな時間に入浴し、就寝。そんな生活が3年間続いている。
”引き籠《こも》ってゲームを作っていた30歳”の頃からすれば見違えるほど充実した毎日を送っていると思う。実際、決まった時間に起きて3食きちんと食べ、決まった時間に寝る”健康的な生活”のおかげで以前よりずっと調子がいい。
けれど。
「お兄さんは何時《いつ》まで此処《ここ》にいるんですか?」
俺の作った回鍋肉《ホイコーロー》を咀嚼《そしゃく》しながら、もう何十回目だかわからない質問を、今日も彼は投げかけて来る。
あの頃の彼はものを食べるということに興味を持っていたようだが(あの世界の栄養は全てドリンクで摂取することになっていたので固形物を口にする習慣がなかった)、その顔で興味どころ躊躇《ためら》いもなく固形物を口に入れる彼に違和感が拭《ぬぐ》えないでいる。
それでも肉を食卓に出す度《たび》に「これが肉……!」と感動する姿を期待しているのだから、俺もどうかしている。
「あー……嫌か?」
「嫌、ではないですが」
何度言っても彼は敬語を解かない。
さらにはノクトと呼べと言っているのに徹底して「お兄さん」のままだ。
「ノクト」と呼んだ日には「マーレ」と返って来るのがわかっているから(何度か、ついそう呼んでしまった)、いい歳したオッサンと何処《どこ》ぞのソーシャルゲームのハンドルネームみたいな名で呼び合うつもりなどない、という意思の表れなのだろう。
喋りながらも、みるみるうちに回鍋肉《ホイコーロー》と米《白米》が減っていく。
いい食べっぷりだ。さすがは男子高校生。ここまで清々しく減っていくと料理人冥利に尽きるけれども、まぁ、それは置いといて。
「もしかして友達でも呼びたいのか? 呼んでいいぞ」
「いいんですか?」
子供が「家に大人にいてほしくない」と言い出すのは大抵、友達絡みのことが多い。俺も妹の亜生璃《あいり》がどんな友達と付き合っているのかが気になって、やれ菓子だジュースだと差し入れの体《てい》を取りながら覗きに行ったものだ。
その度《たび》に「ウザい」「キモい」と殴られ、とうとう妹の友達でもある愛美《えみ》ちゃんからは「お兄さん、S《サド》ですか?」なんて間違った認識をされるに至り……いや、この思い出は余計だった。兎《と》も角《かく》、交友関係が広がることに俺が反対する理由など何処《どこ》にもない。
「遠慮するほどのことでもないだろ? 俺、別に煩《うるさ》くても気にしないし、菓子とかジュースとか持って邪魔しに行ったりもしないぞ。安心しろ」
この場合の大人は、あくまで壁もしくは空気に徹するのが正解。亜生璃《あいり》で散々このシチュエーションでの対応を学んだ俺には楽勝だ。
しかし彼は少し拗《す》ねたように口を尖らせた。
何だそれちょっとかわいい。じゃなかった、どうもそういう返事が欲しかったわけではないらしい。
友達を呼びたい。
でも俺にはいてほしくない。
それはどんな友達だ? 俺に見せられない……まさか人間じゃないとか。いや。
「ああ」
「何が、ああ、ですか」
「あ、いや」
これは女――彼女だ。
「そうかそうかマーレもそんな歳かぁ。そりゃあオッサンがいたら邪魔だよな。何時《いつ》呼ぶんだ? そんときゃ《その時は》俺はネカフェにでも泊まるから」
あの堅物の監督生に彼女が! なんて茶化すところではない。
当時は15歳だった彼も、もう18。彼女のひとりやふたり作るどころか、この国では結婚すらできる年齢だ。家の中では彼女持ちの雰囲気すら出していないけれど、受験生だし、30過ぎて彼女のひとりもいない俺に遠慮しているところもあるだろう。
わかる。わかるぞ。俺は「受験生なのに恋愛にうつつをぬかして」なんて言わないからな!
「安心しろ! 誰が反対しようとも俺は全力で応援する!」
そう笑顔で言い切った。俺は彼の幸せを第一に考えているのだから当然。100点満点の回答だろう。
しかし。
「泊・ま・り・で・友達を呼んでもいいってことですか?」
何故《なぜ》だ? 保護者面《づら》した大人の理解を得たというのに喜んでいるように見えないのは。目が据《す》わっているように見えるのは。
判断を間違えたか?
今の男子高校生の間では「家に友達を呼ぶ」は何かの隠語だったりするのだろうか。俺の頃なら徹夜でマリカー《マリ〇カート》。優等生ならベタに受験勉強、だと思っていたのだが。
友達。
彼女。
女。
……もしや、わざわざ女友達と限定する(していません)ところからして……エッチなことをするつもりなのか!? あのマーレが!?
どうしよう。動揺が止まらない。
自慢ではないが彼女なし歴=年齢。彼女を家に呼んで何をするのか想像がつかない。いや、つくけれども、親に隠れて読み漁《あさ》ったエロ本の影響か、どれもこれもがいかがわしい。
「え、えっと、やっぱ」
「駄目ですか?」
「いや、駄目とは……此処《ここ》はお前ん家《ち》なわけだし……」
その女は一線超えても大丈夫なのか? とはとても聞けない。
聞けないけれど、俺が高校生だった頃も”処女と童貞は夏の間に捨てる”のがステイタスみたいに言われていた(その言葉に何人が乗ったのかは不明だが)。
最近は女のほうが積極的なところがあるし、そうでなくとも中学で委員長、高校では生徒会。確か塾でも国公立大志望コースにいたはずだ。そんな優良株が体ひとつで手に入るなら、って……いや、学生の内からそんなことを考える女ってむしろ危険じゃないのか!?
「じゃあいいんですか?」
そうでなくともこいつは居座っているオッサンに合鍵渡してくるくらい危機感がないのに!
「だ、駄目だ! 泊まりは! と言うか、」
しどろもどろに焦る俺を前に、彼は箸を置く。
きちんと両手を膝の上に揃えて居住まいを正して、それで俺を直視してくる。
「前から思ってたんですけど、お兄さんはどうして此処《ここ》にいるんですか?」
「あ、えっと、お前が……幸せになるのを、だな」
「僕が幸せになるのを見届けたい、とは前に伺《うかが》いました。でもそれってお兄さんが此処《ここ》にいる必要はあるんですか? お兄さんの家はそう遠くないところにあるんだし、能登《のと》からいくらでも話は聞けるでしょう? それじゃ駄目なんですか?」
「あー……」
何故《なぜ》今日はこんなにも痛いところを突いて来るのだろう。
いや、もともと顔に出なかっただけで、見知らぬオッサンが居座ることも、何時《いつ》の間にやら家族同然の顔で家事やら何やらやっているのも不快だったのかもしれない。少しずつ蓄積されてきた不満が、たった今、ゲージを振り切っただけなのかもしれない。
「ええと」
「僕が彼女を連れて来ても、その彼女をこの家に泊めても、それでもいいんですか? その間ネカフェに行くってことは僕のことを見守れないわけですけど、そこはいいんですか? そもそもお兄さんが幸せにはしてくれないんですか?」
「いや、でも……あ? えっと…………………………………………………………今、なん、」
ちょっと待て。どさくさに紛《まぎ》れて何て言った?
だがしかし、俺の言葉が終わらないうちに彼は荒々しく立ち上がった。
手早く自分の皿を下げ、無言のまま部屋を出て行く。こんな時でも後片付けを忘れないなんて何処《どこ》まで優等生なんだか、なんて感心している場合ではない。
何て言った?
俺が?
『何時《いつ》まで此処《ここ》にいるんですか?』
は「さっさと出ていけ」ではなくて、「ずっと此処《ここ》にいるんですよね?」だったとでもいうのか!? わかりにくすぎるだろ!! ってそうじゃない!!!!
「……や、ないだろ。こんな15も離れたオッサンを捕まえて」
きっと再会した時に口走った「前世で一緒に暮らしていた」を親密な仲だったと誤解して、現世でも俺がそういう仲になりたがっていると解釈したに違いない。でも自分には記憶がないから引け目を感じて。
それなら勝手に居座る中年男を警察に突き出さないのも、同居を受け入れてしまっているのも納得がいく。
だが駄目だ。あいつだけは駄目だ。
キラキラした青春の思い出? なんて手垢がついて全然綺麗に見えない言葉だけれども、俺の中の唯一のそれを、俺が汚してどうする。
「ないだろ」
今更、「学生寮で相部屋だっただけ」なんて言えない。
もしかして毎日3食餌付けし続けたせいで胃袋を掴《つか》んでしまったとか……いや、ない。この30年、台所に立ったこともない奴《やつ》の腕でそんなミラクルは起きない。
はは、と笑った顔が卑屈に歪《ゆが》む。
生まれてこのかた女に縁がなかった俺の、何処《どこ》に気に入る要素があると言うんだ。あの頃だって、俺が何をしても頑《かたく》なにルームメイトの線を越えようとはしなかったじゃないか。
窓硝子《ガラス》に映《うつ》るのは、クソダサいTシャツの30男。
こんな日に何故《なぜ》デカデカと”自宅警備員”なんて書かれたTシャツを選んだ、12時間前の俺ーー!!!!
「だってお前……最後までクルーツォだったじゃねぇか……」
今だって奴《やつ》が現れれば、きっと彼は俺に何を言ったかなんて綺麗さっぱり忘れてしまうだろう。それくらい、奴《やつ》とマーレの結びつきは強い。
奴《やつ》はアンドロイドだったが、だからと言って現世にいないとは言えない。
現にそれらしい奴《やつ》はいた。3年前、妹の学校に来ていたという教育実習生が確かアラブ出身だとか何とか……妹と同じ中学出身の彼なら面識を持っているはずだ。
実習期間を終えて何処《どこ》に行ったかは知らないが――。
そう言えば、と数日前に届いたエアメールを思い出す。
てっきり両親からの定期連絡だと思っていたが……いや、まさかそんな都合のいい話があるか。
頭の中に沸いた疑念を振り切るように、俺は首を振った。
それから何日かは平穏に過ぎた。身構えていた俺が呆気《あっけ》にとられたくらい、何もなかった。
忘れたのか、忘れたかったのか。
15歳のマーレも年齢のわりに妙に冷めたところがあったけれど、それに似ている。頭が切れるから先が読めると言うか、勝手に先を見越して勝手に結論を出して、だから無駄な足掻《あが》きをしない。
あの顔で迫られて平穏を保てる自信がないから、何ごともなく振る舞ってくれるのは有難い。
少しばかり惜しい――一世一代のモテ期をもう少し堪能したくもあったけれど、もし一線を越えてしまったら、満足や充実よりも後悔しか残らないのはわかっている。
の、だが。
「水と薬、此処《ここ》に置いておきますね。あと、お昼は冷蔵庫に入れてあるのでチンして食べて下さい。夜は帰って来てから作ります」
向こうが忘れたふりをしているからって、これじゃ俺が構ってくれって言っているみたいじゃないか!
俺は朦朧《もうろう》とする意識の中、枕元に薬を並べている彼を見上げる。
平穏に過ぎた数日後、のさらに後。
何もないと安堵した俺を嘲笑《あざわら》うかのようにいきなり高熱が出、俺は寝込む羽目になってしまった。
使わない頭を使ったせいで知恵熱でも出たのかと思っていたが、彼曰《いわ》く、台風が来ているせいで気圧がおかしいし、暑い日が続いたから夏バテ気味なのだろうとのこと。
言われてみればTVで毎日、老人が熱中症で搬送されたなんてニュースが流れていた。よもや自分がその老人枠に分類されるとは思っていなかったが……長年、自宅警備員だった俺がいきなり早起きして家事やって、と言うのは予想以上に負荷がかかっていたらしい。
「洗濯物は帰って来てから洗いますのでそのままで」
「気にすんな。受験生は勉強してろ」
「駄目です。寝ててください」
この甲斐甲斐しさは、勝手に居付いている怪しいオッサンではなく、同級生から兄を預かっているという認識なのだろうか。
ずっと独り暮らしだったから誰かの看病をするのが物珍しいのか、それとも世話好きなだけか。委員長だの生徒会だのをやっているくらいだから後者は得意分野かもしれない。
だがそれに甘えるわけにはいかない。
今週末には全国模試がある。彼が通っている塾も模試対策で特別カリキュラムを組んでいて……要するに今週はいつもより帰宅が1時間遅くなる予定だった。
彼ならそんなものに出なくともそれなりの点数は叩き出しそうではあるが、それでもやはりこの時期、居候のオッサンの晩飯を作るために塾を休むと言うのは頂けない。
「飯も、カップ麺とか適当に食うから」
「熱出して倒れてる人はカップ麺なんか受け付けません」
何をやっているのだ俺は。
いい歳した大人が15も下の子供に、それも血が繋《つな》がっているわけでもない他所《よそ》様のご子息に世話を焼かせるなんて。
自己嫌悪が甚《はなは》だしい。
「それじゃ行ってきますけど、本当に寝ててくださいね」
「わかったわかった」
「絶対ですよ」
そう言って出て行った彼の足音が遠くなっていくのを病床で聞く。
玄関を開ける音、閉める音。それを最後に静寂が訪れると、後は時計が時を刻む音しか聞こえて来ない。
今頃彼は海岸沿いの一本道を歩いているのだろうか。俺の世話で出るのが遅くなったから、きっと速足で。それから並木を通り越して、十字路を右に曲がって、商店街を過ぎて。
そんな光景をひとしきり思い浮かべて時計を見れば、まだ5分と経《た》っていない。
俺は天井を見上げて息を吐く。
思えばあの世界では風邪に代表されるような、所謂《いわゆる》病気とは無縁だった。
チャルマの入院も実際のところは成長を促進させようとしただけで病気ではないし、木化もそうだ。
そもそも外界から完全に遮断された世界。悪さをするようなウイルスや病原菌などいない。なおかつ日々の健康はセルエタで管理され、腕のいい薬局店員と薬師《くすし》が揃って栄養剤だ予防薬だと先手を打って来るから病気になどなりようがない。
「こっちの世界には……栄養剤もねぇしな」
栄養ドリンク的なものはこの世界にも存在する。人間用のやつが。
ただこの家にはないし、飲んだところで彼が置いて行った総合感冒薬以上の効果を発揮するかは微妙なところだ。この体調不良が風邪かどうかもわかっていない今、総合感冒薬にも効果があるとは言い切れないのだけれども。
こんな胡散臭いものを飲むくらいなら、その分光合成する! と言い捨ててとうとう飲まなかったあの世界の薬は、何にでも効く”生命《いのち》の花”が原材料。
それがあれば今頃は全回復しているのだろうに、なんて都合のいいことを思うのは、
「やっぱ自業自得ってやつなのかな……」
身勝手な自分らしい考えなのかもしれない。
「おーい、お兄《にい》。死んでるー?」
暫《しばら》く眠っていたらしい。
目を覚ますと、視界に逆さまになった妹の顔があった。
顔半分がマスクで隠れている。さすがに今はほとんど見かけないが、3年前の一時期は行き交う誰もがマスクをしていた。あの疫病のせいで。
が、その前に何故《なぜ》、亜生璃《あいり》が此処《ここ》にいるのだろう。
「亜生《あい》ちゃん、死んでたら返事できないよー?」
「んじゃ返事がないから死んでるってことでいい?」
「目、開けてるよ?」
「でも返事してないじゃん」
亜生璃《あいり》から視線をずらせば、愛美《えみ》ちゃんもいる。同じようにマスクをしている。
「何で……?」
「お兄《にい》が熱出して倒れたって言うから来てやったんでしょうが」
腕を組んで仁王立ちしたまま俺を見下ろす亜生璃《あいり》は本当にヴィヴィによく似ている。多分に弱っているからだろうけれど、何とかしてくれそう、みたいな根拠のない安心感を感じる。
亜生璃《あいり》曰《いわ》く、いつも定時に登校する彼が遅刻ギリギリだったのを不審に思って問い詰め、そして塾がある彼の代わりに明〇のブリッ〇パッ〇1個で看病を引き受けたのだそうだ。
どうやって問い詰めたのかがとても気になる。何よりもすぐに手が出る亜生璃《あいり》のこと、暴力に訴えていなければいいのだが。
「お兄さん、ご飯食べられますか? 玉子粥《がゆ》作りましたけど」
そして無駄に偉そうな亜生璃《あいり》の横で愛美《えみ》ちゃんが天使だ。
湯気の立つ土鍋を制服のまま持って微笑《ほほえ》む姿は幼な妻的な、と言うか、ちょっといけないシチュエーションを想像してしまいそうではあるけれど……つい気が弛《ゆる》んでそんな目を向けてしまったのだろうか。亜生璃《あいり》が「笑顔で接してくれたからって、気があるなんて思いやがったら即! 絞《シ》める!」とばかりに睨《にら》みをきかせている。
「念のために保健所に電話したんだけど、熱が4日以上続いたらもう1回連絡くれ、だって。もう患者もいないんだから検査くらいしてくれたっていいのに」
粥《かゆ》を茶碗によそう愛美《えみ》ちゃんの横で、亜生璃《あいり》は電話を掛けるジェスチャーをする。
ああ、そうか。亜生璃《あいり》と愛美《えみ》ちゃんがマスクをしている意味。これは風邪予防なんかじゃない。
3年前に爆発的に流行して、夏にパタリと姿を消したあの《・・》ウイルス性疾患を警戒しているのだ。
突然消えて3年が過ぎ、世間ではすっかり忘れ去られているように見えるけれど、突然消えたせいで未《いま》だにワクチンもない。そこへきて高熱が出たと言うのだから警戒して当たり前。
ブリ〇クパ〇クひとつで看病を買って出たのも、”愚兄が他所《よそ》様のご子息に迷惑をかけている”ことへの尻拭い的な気持ちからに違いない。
「お兄《にい》、言いたかないけど此処《ここ》にいないで。迷惑だから」
苛立《いらだ》たしげな言葉の端々《はしばし》からも、それは伝わってくる。
「伝染《うつ》った後遺症で受験に失敗でもしたら、どう責任取るつもり!?」
もしこれがただの風邪や熱中症ではなかったら。
あの疫病が消えていなかったら。
もし彼に伝染《うつ》してしまったら。
『――ありがとう。ええと……能登、さん』
俺は、また俺の手であいつを死なせていたのかもしれなくて――。
「……馬鹿だな。僕はきみに責任を取ってほしいなんて1度も言ったことはないのに」
懐かしい声に目を開けると、枕元に少年が座っている。
彼よりもずっと幼い顔立ちをした……ああ、これは。
「マー……レ」
夢かと思って周囲を見回すも、朝からいた部屋だ。夜の帳《とばり》が下《お》り、すっかり暗くなって彼の顔もはっきりとは見えないが、それでもあの世界で1年過ごした学生寮だったりはしない。
なのにマーレがいる。これを夢と言わずして何と言おう。
今さっきまでいた亜生璃《あいり》や愛美《えみ》ちゃんがいないのも、これが夢だからだ。
「僕はただのデータだよ? きみの世界にいけるはずがない」
過去を引き摺《ず》って他人に迷惑をかける俺を、俺の潜在意識が咎《とが》めているのだろうか。マーレの姿を借りて諫《いさ》めているのだろうか。
「知ってる? 世界には同じ顔をした人間が3人はいるんだ。きみとノクトのようにね。だからきみが僕だと思っている彼もそんなひとりかもしれない」
「違う。彼は海にいたんだ。お前が夢で見たって言うのとまるっきり一緒の海に。彼とお前は魂の何処《どこ》かで繋《つな》がってる。俺はそう思う」
しかしマーレは首を横に振る。
「どうして今になって僕に執着するのさ。きみにとっての僕は煩《わずら》わしいルームメイトで、レトに遭《あ》うための鍵でしかなかったはずでしょ? ああ、ゲームの主人公だから特別な思い入れでもある?」
「違う! 俺は、」
「僕の最期は必然でしかなかった。きみのせいじゃない。クルーツォやレトのせいでもない。だからもう、」
忘れて、と音を立てずに口が動く。
「マーレ、違うんだ、俺は!」
生きていてほしかった。
あんな別れ方をするとわかっていたらもっと優しくできた。反発もしなかったし、ちゃんと話も聞いた。
「俺は、」
手を伸ばして。両肩を掴《つか》んで。
そうしないと、夢の中ですら彼は消えてしまいそうで。
だったら何だ? と、もうひとりの俺が頭の中で囁く。
罪悪感を、謝罪を、いい歳をして15も下の子供に執着する理由にしているだけじゃないのか?
償《つぐな》うふりをして、自分を満足させているだけじゃないのか?
顔が似ているだけの赤の他人を巻き込んで。それは彼《・》のためでもマーレのためでもないじゃないか、と。
「俺は、」
「……お兄さん?」
マーレの口が不思議そうな声を発する。
その声に、改めて目の前の少年を見る。
彼だ。マーレではない。
帰って来たばかりなのか、制服を――グレーの上下と赤いベストという”レトの学徒”のいで立ちではない、すぐ近くにある公立高校の制服を着ている。青白い月明りの中で、白いシャツが殊更《ことさら》白く浮き上がって見える。
「今日は能登《のと》たちが来てくれて助かりました。薬は飲みました?」
空《から》になった土鍋と茶碗を片付けながら、彼は目も合わせずにそんなことを聞いて来る。
突然両肩を掴《つか》まれたであろうことについては何も言わない。
「あ、いや、まだ……」
「駄目ですよ。ちゃんと飲んで下さいね」
あれは夢だったのか?
何処《どこ》までが夢だったのか。
暗かったから、マーレと見間違えたのか?
いや。
あの言葉は彼が言ったものではない。
彼はマーレの記憶を持たない。
それじゃあ、あれは。
「でも朝よりは元気そうです。熱は下がったみたいですね」
呆然とする俺の前に水の入ったコップと1回分の薬を乗せた盆を置き、彼は宥《なだ》めるような笑みを向ける。
俺が此処《ここ》に転がり込んでから何度も見せる、”目上に対して”の笑みを。
『僕はきみに責任を取ってほしいなんて1度も言ったことはないのに』
あれは俺の願望なのだろうか。
『言いたかないけど此処《ここ》にいないで。迷惑だから』
亜生璃《あいり》に言われるまでもなく、俺は俺が此処《ここ》にいるべきではないと、此処《ここ》にいたって迷惑をかけるだけだとわかっている。
1ミリも彼のためになどならない、と。