リボンを追って外に飛び出したルチナリスの視界に、坂道を上ってくる馬車が見えた。
思わず固まったルチナリスの横で、やっとリボンを捕まえた勇者《エリック》が同じように立ち止まり、馬車に目を向ける。
「来たね」
勇者《エリック》のそんな呟きにも、息が詰まって返事が返せない。
新しい魔王役はどんな人だろう。
町の人々に危害を加えたりしないだろうか。
そして、あたしは此処《ここ》にいられるだろうか。勝手に押しかけて来て勝手にメイドをしているけれど、あたしは勇者《エリック》と違って此処《ここ》にいることを頼まれたわけではない。いわば家宅侵入、不法占拠しているようなものだ。
「そう言えばさ」
身動きひとつしないルチナリスに聞かせるように、勇者《エリック》が口を開く。
「月から迎えが来ていたお姫様は、最後は地上での記憶を綺麗さっぱりなくして帰ってしまうんだってね」
「え?」
『――月の姫君は迎えに来た従者を断って、地上に残りました』
『東洋の昔話。そういう結末だったらその後どうなると思う?』
義兄《あに》が目を覚ます少し前。白昼夢の中であたしはクリーム色の髪をした少女からそう問われた。
彼女が言うには義兄《あに》にもそう問いかけ、義兄《あに》は「まだすることがあるから」と答えたらしい。
後で執事《グラウス》にその話をしたら険《けわ》しい顔をしていた。曰《いわ》く、彼もその問答を聞いたことがあるのだとか。
あの少女が誰かは未《いま》だもってわからないままだ。
ソロネに似ている気がしたけれど、月を背にして飛んでみせるシチュエーションを前にすれば誰だって似ていると思うだろう。
ただ、彼女は義兄《あに》を連れて行こうとしていた。
そのお伽話《とぎばなし》に無理やり当てはめれば、月からの使者は彼女。老夫婦はあたしや執事《グラウス》。そして義兄《あに》は記憶を失って……もう後は帰るだけになっていた。
『――魔力がなくなれば連れて行けるってことだわ!』
あの時、確かに彼女は自分の勝ちを信じていた。義兄《あに》を連れて行けると思っていた。
だが。
それが今この時とどういう関係が?
「……それ、どういう意味?」
勇者《エリック》はそれ以上何も言わなかった。
ただ、笑みを浮かべ、馬車に向かって顎《あご》をしゃくる。
馬車の扉が開く。
最初に下りて来たのは黒服の執事だ。冬の薄い陽射しに彼の白に近い銀髪が煌《きら》めく。
彼は馬車から降りると中に向かって手を差し伸べる。
あれは。
「どういう、こと」
「帰って来たんだよ。ルチナリスさんのところに。家族、だからね」
『――あなたは、私と青藍様の家族なんですから』
ロンダヴェルグに行くあたしに、執事《グラウス》はそう言った。
『時には離れることもあります。青藍様も私も、今はあなたと一緒にはいられませんが、でもあなたが帰って来る場所にはなれる。それが家族です。違いますか?』
「るぅチャン」
ガーゴイルが背中を押す。
「行ってください」
アドレイの声が聞こえる。
あたしはエプロンのポケットを探る。お守りと称して執事《グラウス》が貸してくれた耳飾り《イヤリング》の欠片《かけら》を握り締める。
駆け出したあたしに、馬車から降りた人が目を向けた。
花が綻《ほころ》ぶような笑みを浮かべる。
「お帰りなさい! ノイシュタインにようこそ!」
家族。
どんなに離れていても、あたしが帰る場所。彼らが帰って来る場所。
あたしが暮らしているノイシュタイン城は、海と山のある小さな町に建っている。
此処《ここ》には優しい悪魔たちが、
ううん、あたしの「家族」が住んでいるの――。