「青藍様ぁ!」
誰もいない廊下で、ルチナリスは声を張り上げた。
彼《か》の主《あるじ》は結構な頻度で姿を消す。1日1回はこうして探しているのではないだろうか。
当然執務室になどいるはずもない。
村にいた時だってひとりになることは何度もあったのに。
この城に来てからもずっとひとりだったのに。
こんなふうに毎日付きまとわれて、親でもなんでもないあの人が鬱陶しく思ったって無理はない。
それはわかっているけれど、でも。
なんせ、ひとりになるとあの声が来るのだ。
姿を見せないあの声が。
町長との一件以降、その声は毎日のように話しかけてくるようになった。悪意は感じられないのだが、やはり声だけがするというのは気味が悪い。
なにもないところからいきなり現れた、あの悪魔たちを思い出してしまう。
だから探すのだろう。たった1度助けてくれただけのあの人を。
あの人ならこの見えない声からだってきっと守ってくれる、って……。
あの人にはそんな義務などないのに。
「坊《ぼん》なら屋根行ったっすよ」
そして、決まって声をかけてくるのは避けているはずの「あの声」なのだ。
ルチナリスは耳を両手で塞ぎたいのを我慢する。
いくらなんでもあからさまに「聞きたくない」という態度を見せれば、相手も気分を悪くするだろう。
ひとの心は気まぐれだ。今まで親切に話しかけてくれていた人が、手のひらを返すように冷たくなることなどいくらでもあった。
親がいないから、なんて陰口はいくらでも聞いた。
だから黙って笑って聞くことを覚えた。
そうしていれば大人は機嫌がいい。素直な子、良い子、と言ってくれる。
この見えない誰かも、きっと同じ。
「屋根はねぇ、窓から行くっすよ。執務室の窓からが一番近いかな」
そう、同じ。
素直な子を演じておけば、聞きもしないことまで教えてくれる。
ルチナリスは得た情報を頼りに執務室の窓を開け、上を見上げた。
高い。
ほとんど垂直な壁の先に、とんがり帽子のような屋根の裾だけが見える。
石で組んで作られた壁にはわずかな隆起があるだけで、手をかけるところもほとんどない。あの人はどうやって上ったのだろう。
「青、藍、様ぁ」
窓から身を乗り出すようにして何度か声をかける。
背中に、息をつめて見られているような視線を感じる。
もし、自分《あたし》が避けていることをあの声が察していたとしたら。
この視線は、嫌って逃げ回っているくせに言うことを鵜呑みにするような馬鹿な子供が、この窓から落ちる瞬間を待っているのかもしれない。いい気味だって笑うために。
青藍様だってそう。お茶ひとつまともに淹れられないメイドなんかいらないって思ってる。だから、仕事らしい仕事もくれない。
知ってる。
いらない人はお仕事をさせないようにして、その場所にいられない気持ちにさせるんだって。
自分から辞めていくようにするんだって。
あの人は領主様だもの。
こんな子供を追い出したら世間から何を言われるかわからないもの。
だからあたしが自分から出ていくように仕向けているのかもしれない。
なのに。
なのに、あたしは。
「……なに?」
黙り込んだルチナリスの頭上から声が聞こえた。
あの声ではない、別の声が。
いた。
目頭がジン、と熱いのは寂しくて泣いているわけじゃない。それができるのは甘えることが許されている子供だけだってことくらいわかっているもの。
あたしはいらない子なんだって、それだって……ちゃんとわかっているんだから。
しばらく黙ったままルチナリスを見下ろしていた青藍は1度だけ引っ込み、それから器用に屋根と壁を伝って下りてきた。
ああやって上《のぼ》ればいいのか、と思う一方で、子供の手足では絶対的にリーチが足りないという事実をも突きつけられる。
なのに。
「おいで」
恐ろしいことを簡単に口にしながら彼は片手を差し出した。
おいで、って、ここを上るんですか!?
どうしよう。落ちたら絶対に助からない。
ルチナリスは窓の下を見る。真下には一応植え込みがあるけれど、この高さからならクッションにもならない。それどころか剪定した枝の切っ先に刺さって百舌鳥《モズ》の速贄《はやにえ》状態になってしまうだろう。
手を差し伸べている人は相変わらずの無表情で、何を考えているのか想像もつかない。
でも。
探していたから手を差し伸べてくれたのだろうに、その手を取らないというのは失礼だ。喋っている人の前で耳を塞ぐのと同じくらい。
だからあたしはあの声の言うことを信じなきゃいけないし、この手も取らなきゃいけない。
あたしは。
あたしは、此処にいるためには良い子でいなければ。
差し出されている手に手を伸ばす。
あとちょっと、というところで体がふわりと浮いた気がした。宙に浮いているのに誰かが支えてくれているような安心感。
手を握る。
風にスカートが翻《ひるがえ》る。
まるで空を飛んでいるみたいだ、なんて思った。
発想が子供っぽい、と思った。
どうやって辿り着いたのか全然覚えていない。
ただ握った手を離さないようにして、下を見ると怖いからぎゅっと目は瞑《つぶ》ったままで。
何処《どこ》までもふわふわと飛んでいるような、それでいてあっという間のような、そんな一瞬の後、ルチナリスは城の屋根の上に座っていた。
視線を下げると木々の枝葉の隙間から地面が見える。この屋根を毬《まり》のように転がって真っ逆さまに落ちる自分を想像し、ルチナリスは唾を飲み込んだ。
気付かれないように隣に腰掛けている人の袖をそっと掴むと、ちらりと一瞥された。
された、だけ。
よかった。ここで「無礼者!」なんて言って振り払われたら死ぬ。
「ここでなにしてたんですか?」
「空を、ね」
「空?」
高い鉄柵と鬱蒼とした木々に阻《はば》まれてついぞ見ることができなかった海が、此処からは見える。その海を紅《あか》く染めて、夕陽が沈んでいこうとしている。
あの色は夕陽の色。夕陽が溶け出した色。
そして夕陽の紅がすっかり海のほうに流れてしまったからなのだろう、空には黒みがかった紺青が広がっている。ちかり、ちかり、と星が見える。
高い場所にいるからなのだろうか。いつもより星が近い。
「空を、見てたんですか?」
「今日は特別にいいものが見られるからね」
「とくべつ?」
特別ってなんだろう。
水平線の向こうを大きな船が横切っていく。
船首から船尾にかけて、ずらりと光が灯っている。マストにも色とりどりの光が踊る。あの船のことだろうか。
「よく俺がここにいるってわかったね」
青藍の声が咎めているように聞こえて、ルチナリスは押し黙った。
「誰かに聞いた?」
「い、いえ。探してた、ら、見つけた……だけ」
あの姿の見えない声のことを言っているのだろうかとも思ったが、言うことはできなかった。
誰にも言うなと禁じられてはいないけれど、大抵こういった秘密めいた存在は他人に知られるのを嫌うもの。ついうっかり喋ってしまって、酷い目にあう物語も多い。
あの声は悪魔かもしれないけれど、違うかもしれない。
「ふぅん」
青藍はそれ以上聞いては来なかった。
その「ふぅん」に込められた意味はわからない。
「お、お星様が降ってくるみたいですねー」
気まずい空気を払拭《ふっしょく》するようにルチナリスは無邪気な笑みを浮かべた。
神父様が見たらわざとらしいって言うかしら。自分でだってわざとらしいと思うわ。
でも大人はそういうのが好きなの。かわいく見えるものなのよ。
心の中でいちいち説明を付け加えるルチナリスを、しかし青藍は見もしない。
やはり怒っているのかもしれない。自分が鬱陶しく探し回ることに。
此処にだって、本当はひとりでいたかったのかもしれない。
でも、だったら「おいで」なんて言わないわ。
きっと、
「……そういうのって、楽しい?」
視線を空に向けたまま投げられた言葉に、ルチナリスは口も思考も固まった。
あたし、本当に嫌われてる……?
ぐるぐる回る自己嫌悪。
あたしは、嫌われるわけにはいかないのに。
役に立たなくちゃいけないのに。
いい子でいなきゃいけないのに。
あたし。
あたしは。
「えー? 楽しいですよー。あたし、こーんな高いところにのぼったことな、」
強張りきった「無邪気な笑顔」のまま喋ろうとするルチナリスに、青藍は目を向けた。
「そうじゃない」
蒼い目がわずかに紫がかって見えるのは夜だからだろうか。
「それは本当に言いたい言葉じゃない。だろう?」
なに? この人。
引きつる笑みをなんとか貼りつけたまま、ルチナリスは口を開く。
「え、あた、し、楽し、」
「良く見られようと演技してる」
「な、にを仰《おっしゃ》ってる、んだか」
「敬語使う子供って普通じゃないよね」
「あ、」
敬語がデフォ《デフォルト》なんですよぉ。
そう言って笑えばいいだけなのに、できない。
「あた、し、」
あたしは普通じゃない。
彼の目が「子供のくせに」と責めている気がする。
子供のくせに敬語使ったりして生意気。かわいくないのにかわい子ぶっちゃって、わざとらしい。
そんな感じ。
「流れ星が消えるまでの間に願いごとが言えると叶う、って聞いたことある?」
彼は唐突にそんなことを言った。
脈絡の全くない話題転換にルチナリスは不審な目を向けそうになるのを堪えるのが精一杯で、ただ黙ったまま目をそらす。
本当に、何この人。
子供心を抉《えぐ》るようなこと言い出したかと思えば、次はやたらとメルヘンなこと言っちゃって。
そりゃあ聞いたことくらいあるけども。
ルチナリスは自分たちを取り囲む空を見上げた。
闇に染まりつつある中に現れ始めている星は、流れ落ちるどころか自分は此処にいるのだとアピールするのに余念がない。まるで親の気を引こうとして駄々をこねる子供のように。
祈ったところで何か変わるの?
保証でもあれば祈るけれど、そんなものはないんでしょ?
叶うのなら、パパとママが帰って来るように、って祈るけれども。
悪魔なんかいなくなってしまえばいい、って祈るけれども。
でも、無駄なのよ。知っているの。
神様にも、聖女様にも叶えられやしないことくらい。
「此処にいるのが嫌だったら、町長にでも頼んで城下に住めるようにするけど」
「え?」
思いがけない申し出に、ルチナリスは目を点にした。
此処にいなくていいの? あのよくわからない声に話しかけられずに済むようになるの? 追い出されるんじゃなくて、ちゃんと住む家があるの?
だったら、どんなに……。
『あの狸は狡猾《こうかつ》っすよ』
思わず「うん」と言いそうになったルチナリスの耳に、あの声がよみがえる。
子供がひとりで暮らせるほど世の中は優しくできてはいない。
城下に住めるようにする、と言ったって、子供に一人暮らしをさせるわけではない。何処かの家に養女に入るか、少なくとも成人するまで面倒を見てもらうということだろう。
そのためにこの人は、あの狸みたいな町長に頭を下げるのだろうか。
拾っただけの、自分には何の関係もない小娘を「頼む」って。
あたしにはいいことかもしれない。でも、この人にとってはどうなの?
何の役にも立たないあたしを助けて、何の役にも立たないまま手元に置いて。
あの町長に頭を下げて。きっと代償を支払って。
とんだ貧乏くじだわ。そうじゃない?
「ここには似たような歳の子もいないし、嫌なことも思い出すだろ? そうやって大人の顔色を窺《うかが》うのは良くないって言うし」
彼はとつとつと言葉を紡《つむ》ぐ。
厄介払いなのだろうか。
わからない。
あたしがいらないのだろうか。
わからない。
顔も見たくないのだろうか。
わからない。
「此処《ここ》が子供のいるところじゃないのは確かだし」
ああ。
ルチナリスは唇を噛んだ。
あたし、やっぱりいらない子なんだ。
そうよね。「召使い0人」のほうが「役に立たない子供1人」よりずっとまし。
俯《うつむ》いたままのルチナリスの頭を、青藍が軽く小突く。
「始まった」
なにがよ?
しぶしぶ、といった心持ちで顔を上げたルチナリスの視界は、だが、先ほどとは全く違う空が広がっていた。
濃紺の空に星が瞬いている。
ミバ村で見た夜空よりも星の数が少ないのは、まがりなりにもノイシュタインのほうが町だからなのだろう。地上を照らす光が多いと星は姿を隠してしまうのだ、と以前、聞いたことがある。
大型船は灯りを消しているのか、何処《どこ》かへ行ってしまったのか、先程までいた場所には見えない。
そして。
瞬いているだけだった星が、ひとつ、ふたつと流れ始める。
よっつ、いつつ……次々と。
「うわぁぁあ!」
ルチナリスは思わず声を上げた。
満点の星空に、いくつもの白い筋が描き出されては消えていく。
ああ。
もしかしたらあの船は海に落ちた星を拾うために海にいたのかもしれない。
町に落ちた星はクリスマスツリーのてっぺんを飾るのかもしれない。
あと。
あとは。
「お星様、なくなっちゃわないんですか!? あ、あと、ここには落ちてこないのかな? ここに落ちてくれば拾えるのに! 拾ったらね、それで髪飾りを作るの。前にメグが見せてくれたのよ。リボンの真ん中にまぁるいお星様がついて、」
一気にまくしたてると青藍はぷっ、と小さく吹き出した。
その声にルチナリスは、はた、と口を噤む。頬が火照《ほて》る。
「うん。そのほうがずっと自然だ。いつもの嘘くさい笑顔じゃない」
「……はい?」
嘘くさい。
それって、あたしがいい子に見えるようにって笑っていたことを言っているの?
でも大人はみんなそういう子供が好きなんでしょ?
「子供っていうのはそんなにいつも笑ってない」
青藍はそう言うと空に向かって手を伸ばした。
その指先をまたひとつ、星が流れ落ちていく。
「敬語は染み付いちゃってるみたいだけど」
そうよ。
子供はわがままで、泣いたり怒ったり叫んだりするものなの。そして大人に怒られて。自分の子供でも怒るんだもの、保護者のいないあたしになら何を言うかわかったもんじゃない。
だから笑うの。
そうすれば怒られなくて済むの。褒めてくれるの。だから、
「……大人を舐めるな」
ふいに投げられた低い声に、ルチナリスは身を強張らせた。
「他の奴はどうだか知らないが、俺はそういうのは好かない。ここにいる間は言いたいことがあればはっきり言え」
怒……られた。
どうして?
いつもなら褒められるのに。怒られないのに。
村にいた時は子供ではいられなかった。
親がいなかったから誰かに甘えることもない。
神父に甘えることなどあり得ない。
子供という手がかかる生き物でいるわけにはいかない。
でも、大人の前では「理想の子供」でいなくてはいけない。
そうすれば。
そう、すれば……。
「……………………青藍様」
そう言えばあの声がこの人のことを「お兄ちゃん」って呼んだっけ。
本当のお兄ちゃんだったら、言いたいことが言えるんだろうな。
毎日探し回っても嫌がられたりしないし、助けてくれる、って……そう思ってもいいんだろう、な。
褒められるばっかりじゃなくて、喧嘩したり怒られたりもして。
「……助けてくれて、ありがとうございました」
この人は本物のお兄ちゃんではない。
けれど、他の誰よりもきっと「お兄ちゃん」に近い。
「前に聞いた」
「うん」
馬車の中で一応は言ったけれど、でも、言わなきゃと思って言っただけ。
あの時も、ずっとこの先の自分のことばかり考えていた。
めまぐるしく変わる環境に付いて行くのがやっとだったから、というのは弁解にもならない。
この人に見捨てられないように。
どうして拾ってくれたのかはわからないけれど、同情だって構わない。利用できる間は利用しよう、って。そう思っていなかったと言ったら嘘になる。
ホント、子供らしくない。
こんなかわいくない子、いらないと思われたってしょうがないわ。
「また何か考えてる」
「あ、いや、あの」
……本当に言いたいことは、簡単には言えない。
でも。
ルチナリスは空を仰いだ。まだ星は流れ続けている。
流れ星は願いを叶えてくれるかもしれないけれど、今叶えてほしいのは流れ星にじゃないの。
隣の人は空を見ている。月明かりが横顔をなぞる。
今なら祈っても気づかれやしない。
あたしは。
見えないようにエプロンの下で両手を組んで。
あたし――。
「ここに、いても、いい? ……ですか?」
「いたけりゃいればいい。他にあてもないんだろ?」
一緒にいていいの?
って言うことはあたし、捨てられないの?
なんにも役に立たないけど、どこかに貰われて行かなくていいの?
「出て行きたいんならそれでもいい」
「いいです! あ、違う。行きたくないです、のほうの意味の、」
お願い。届いてください。
「あ、あのですね」
「いいんだよ」
青藍は手を伸ばした。
ルチナリスの髪をくしゃりと撫でる。
「子供のくせにずっと頑張ってきたんだろ? 誰かを恨んでもいいし、自分の運命を呪ったっていいんだ。誰もそんなことするな、なんて言えやしない。我慢してばかりじゃ壊れてしまうから」
恨んでいいの?
我慢しなくてもいいの?
子供みたいに大声で泣いてもいいの?
「いいんだ。せめてここにいる間くらいはね」
今だけじゃなくって、これから、ずっと?
ここにいる間は、ずっと?
「俺は、」
青藍は、ふ、と言葉を止めた。
少し諦めたような顔をしてかすかに笑う。
「俺は、そうやって壊れた子供を知ってる」
ルチナリスは黙ったまま青藍の次の句を待った。
壊れた子、って誰のことだろう。弟とか、幼馴染みとか?
その壊れちゃった子はどうなったんだろう。
今はどうしているんだろう。
「お前が大きくなる頃には、人間狩りなんてなくなっているといいね」
待った次の句は聞きたいことは何ひとつ含まれていなかったけれど。
明るい口調の中にどうしようもない暗さが滲んでいて。
そうか。
その子はきっと、悪魔に殺されてしまったのかもしれない。
我慢して壊れて、挙句に殺されてしまうなんて、そんなの不幸過ぎるもの。
この人はあたしがそうならないように、って……あたしにその子を見ているんだ。
「人間狩り、」
でも狩られなかったら、あたしは今頃まだひとりぼっちだったわ。
ルチナリスは記憶の奥底に封印しかかっている記憶を引っ張り出す。
火の海になった村や行方不明の神父のことを思い出すのは辛い。でも。
「でもね。狩られたから青藍様に会えたの。そこだけは悪魔に感謝しているの」
「悪魔に?」
「う……うん」
そう思いながら、また有耶無耶《うやむや》になっていた疑問が顔を出す。
そう言えば。
この人は、どうしてあんな悪魔ばかりの場所にいたのだろう。
おぼろげになりつつある記憶。
あの悪魔たち、この人のこと青藍「様」って呼んでなかったかしら。
でも人間のはずのこの人が、悪魔にそんな呼ばれ方するはずないわよ……ね。
青藍はしばらく黙っていた。
そして。
「……もし俺が悪魔の仲間だったら、どうする?」
蒼い瞳でまっすぐルチナリスを見る。
「青藍様、が?」
いつものどこを漂っているかわからないような目ではない、射るような眼差しで。
ああ、この目。
あたしを助けてくれた時の目だ。
「だって、たすけてくれた、の、に?」
脳裏にあの日の光景がよぎる。
ひいていく砂煙の中で見えた、一筋の黒い髪。
あたしを庇うようにして悪魔に相対していた人の背中。
「俺も悪魔の仲間で、あいつらから奪い取って食べるつもりだったかもしれない」
「食べないでしょ? だって言ったもの。召使いは食われるよりまし、って」
何を言っているの?
あなたは何処をどう見たって人間じゃない。角も、牙も、羽根もないじゃない。
ルチナリスは激しく|頭《かぶり》を振った。振って、顔を上げる。
「そんなことないです」
この人からは血の臭いがしない。悪魔たちからはぞっとするほどに漂っていたあの臭いが。
人の血を啜る悪魔は血の臭いを漂わせているものだから、もしそんな人がいたらまず何よりも先に逃げなさい、って、神父様も言っていたわ。
「断言するんだ」
「断言しちゃいます」
それに、もし100歩譲ってこの人が悪魔だったとしても。
神父様はこうも言っていた。
「その人の本質を見るようになさい」って。
「なに?」
「神父様が言ったの。見た目じゃなくてその人そのものを見なさいって。どんなに悪い仲間がいても、その人も悪いとはかぎらない」
「難しいことを言う神父様だね」
どう考えても5歳児に言う台詞《セリフ》ではないだろう。それは認める。
言っているあたしだって全然解らない。
けれど、神父様が何度も何度も繰り返して言うから、言葉だけは覚えた。
もう少し大きくなったら意味がわかるかも、と思っていたけれど、この人の反応を見る限り、大人になっても難しいようだ。
隣にいるこの人は、何処《どこ》の誰かもよくわからなくて。
気になることも、まだたくさんあるけど。
「あたし、だから青藍様のことは信じようと思う」
あの時、あたしを守ってくれたのは確かなこと。
誰かに言われたからって言っていたけれど、身を呈してくれたのは他の誰でもなくこの人。
あたしはしつこいの。
一宿一飯の恩義どころじゃない。百宿百飯のお返しをするまでは何処にもいかないわ。
「簡単に信じると痛い目に合うんだよ」
青藍は視線を空に戻した。その目には悲しそうな色が浮かんでいる。
時折、彼はこんな顔をする。
見てるだけでこっちまで悲しくなりそうな。
神父様が言っていた。
ひとは傷付いた分だけ優しくなれるんだって。
だったらあたしなんて聖女様並みに優しいんじゃないの? とその時は半分くらい疑いながら聞いていたけれど。
でも、今はなんとなくわかる。わかる気がする。
「信じる、か」
青藍は独り言のように呟く。
「お前が信じるだけの価値は、俺にはないと思うけどな」
「そんなことない!」
ルチナリスは立ち上がった。
価値なんてものは自分で決めるもんじゃないって神父様が以下略!
だが。
勢いがよすぎたのだろうか。
ずるっ、と足が滑ったのは。
「え?」
視界が反転した。暗く広がる木々が上から生えている。
ああ、この感じ。ついこの間もあったわ。扉を引っ張られて廊下に転がり出た時の、あの感じと同じ。
下にあるはずのものが上にあって、上にあるはずのものが下にあって。
それって。
何てベタな展開だろう。子供心にも恥ずかしい。
落ちる、と思った瞬間、ルチナリスは彼に抱きとめられていた。
ドキドキと鳴っているのはあたしの心臓の音? それとも?
すぐ目の前に屋根の縁《へり》が見える。
あれは、さっき座っていた時には足元のずっと下のほうにあったはず。
「いきなり立つんじゃない。危ないから」
「……ご、ごめんなさい」
無条件に守ってもらってしまった。2回目。
まずい。
このままじゃ、何時《いつ》まで経っても恩を返しきることなんてできないかもしれない。
でも、それもいいかな。当分一緒にいることは確定したんだし。
ルチナリスは空を見上げた。
星が瞬いている。
真っ暗じゃない。
悪魔は、いない。
この人の前でなら、あたしは子供でいてもいい。
子供でいい、何も気を遣《つか》わなくていい、って言ってくれた人なんて今までにひとりもいなかったのに。
「……おにい、ちゃん」
「何か言った?」
「な、なんでもありませんっっ!!」
この人は、あたしのことを妹だなんて全然思っていないだろうけれど。
ルチナリスは口の中で、その呼び名を反芻する。
「今日は流星群があるから見せてやれば、って言うのは別の奴からの助言なんだけど、正解だったみたいだな」
「りゅうせい、ぐん」
「そう。流れ星のこと」
青藍が空を指さす。
天体ショーもじきに終わるのだろう。降る星の数もかなりまばらになりつつある。
「ほら、何か願うことがあるなら今のうち」
「もう願っちゃいました」
星に願いをかけたって叶うと思ったことなどなかったけれど。
「あ。でもお星様にじゃない」
「何だそれ」
もしかしたら、こんなに星の降る夜なら、ひとつくらい奇特な星もいるかもしれない。
だから、今度はお星様に。
ルチナリスは両手を組む。
今度はエプロンの下ではなく。
どうか、青藍様がもっと笑ってくれますように。
この人が抱えている悲しみを打ち消してしまえるくらいに。
いくらなんでもパパやママを生き返らせるなんて無理だってことくらい知っているもの。あたしは非現実的なことは言わないわ。
「祈った?」
これからずっとあたしの隣にいてくれる人が笑っている。
「はい。でも内緒です」
「だろうね」
やっぱりあたしってば子供っぽくない。
でも、あたしらしい。