3-2 籠の鳥は天空の夢を見る




 中庭を歩いていくひとりの青年の姿があった。

 ここは魔界。メフィストフェレスの城。
 ちょうど遠征に出ていた部隊が帰って来たところのようで、いかめしい姿の兵士が彼の横をぞろぞろと通り過ぎていく。



 その中庭は奇妙なことに高木が見当たらない。
 膝までの高さに刈り込まれた低い植込みには、白い花が天空の星々のように咲き乱れ、甘い香りを漂わせている。植込みに沿うように造られた花壇にも草丈の低い花が――こちらは色とりどりに――花開いている。
 見晴らしの良すぎる庭の向こうでは、数十メートルはあろうかという城壁が外の世界を遮り、その灰色の城壁の上にやっと青空が見える。


 手入れの行き届いた庭はどことなく少女趣味で、武器を手にしたままの兵士には不似合いな事この上ない。
 しかし、この庭こそが彼らのためにつくられていた。

 膝丈の植込みでは、侵入者は身を隠すこともできない。そしてもし剣を振るう事態になったとしても、その高さなら邪魔にはならない。
 可憐な花は戦いに出て行く彼らを見送り、そして戻ってきた彼らの荒んだ心を癒すためのもの。その香りには沈静効果もあるらしい。
 戦い終わったばかりの好戦的な気分のままで戻ってくれば、ほんの些細なことでも一触即発の事態になることがある。城にいる非武装の者――使用人や屋敷の者などを「ついうっかりと」傷つけてしまうこともある。
 
 この庭はそのためのもの。
 現に、兵士たちは戦いから戻ってきたばかりとは言えないほど柔和な顔をしていた。



 兵士たちの鎧姿に比べれば、青年は場違いなほどに軽装だった。
 いや、青年、と呼ぶには躊躇《ためら》う者もいるかもしれない。
 夢の世界の住人である少年期から現実世界を歩んでいく青年期へと羽化する、そのわずかな時期だけが持つ陽炎のような儚い危うさが匂い立つ。
 風を孕《はら》む白いシャツと襟元に結ばれたリボンタイ。そして男性と呼ぶには華奢な身体つきも日焼けを知らない肌も、荒ぶる兵士たちが嗜虐《しぎゃく》的な想像を掻き立てるには十分すぎる。
 だが、すれ違う男たちは彼を視界の隅に留める程度で、ちょっかいどころか声をかけようという者すらいない。
 これも中庭の花のおかげだろう。




「青藍!」

 頭上から声をかけられて青年は上を見上げた。
 北の塔が見える。ベランダでひとりの女性が手を振っている。

「……母上」

 屈託《くったく》なく笑う母を、青藍と呼ばれた彼は眩しそうに見上げた。





 彼の黒い髪と蒼い瞳は彼女に似た。顔立ちもよく似ているらしい。
 しかし母と自分とはまるで違う。

 自らを「闇の眷族《けんぞく》」などと呼んでいたとしても、実際の魔族には漆黒の髪を持つ者は少ない。多くの魔族が持つ金や銀といった神の御使いの如き髪色は、獣のように狩られる人間たちから見れば酷い皮肉だろう。
 華やかな色を持つ魔族の中では希少ではあるが地味な色。しかし、母はその誰よりも華やかな雰囲気を醸し出していた。
 漆黒の髪色ですら、他の誰も手にすることができない「彼女を引き立たせるためだけに存在する」装飾のひとつであるかのように。

 性格もその雰囲気どおりの華やかなもので、いつも笑っている。
 父は母のそんなところが気に入ったのだろう。周囲の反対を押し切って母を迎えたのだと聞いている。
 そして、その母とよく似ていると言われていても、父が自分を避けているのも明らかなこと。きっと、自分がこの母とはまるで違うものであることを、見るたびに思い知らされるからに違いない。

 青藍はわずかに城の中枢部――母屋のほうに視線をやった。
 当然のことながら、ここから父の姿は見えない。



「お話があるの。上って来てくれる?」

 母は風に乱される髪を押さえながら手招きをする。

 大声を張り上げているわけでもないのに彼女の声はよく通る。今だって、すれ違う兵士の声はノイズにしか聞こえなかったのに。

 青藍は今しがたすれ違った兵士の集団を振り返った。
 後方になりつつある後ろ姿からは、金属が触れ合う耳障りな騒音と砂埃を撒き散らす足音、そしてなにを言っているのか聞き取れない がなり声が聞こえてくるだけだ。
 あの大声はただの「音」でしかないのに、何故母の声は「声」に聞こえるのだろう。


 ……どうせ母に会いに来たところだ。
 本来なら母のいる最上階の部屋へは、塔の中の入り組んだ階段を通らないと辿り着くことはできない。が、今日はショートカットしてもいいだろう。

 とん、と軽く地面を蹴る。
 ところどころに突き出した屋根や手摺りを足場にして、彼は易々とベランダに辿り着いた。
 羽根を出せば空を舞うことも可能だが、その姿を母は好まない。





「普通に歩いて来てちょうだい」

 そうしてベランダに辿り着いた息子の身軽と一言で片付けるには十分に人間離れしすぎている技を、母は苦笑まじりに諫《いさ》め、

「まぁいいわ。早くあなたに会いたかったのは私も同じ」

 いたずらっぽく小さく舌を出すと、息子を部屋に促したのだった。




 青藍の母は第二夫人、と呼ばれている。
 その呼称のとおり、当主の2番目の妻――側室、である。
 本来なら当主とその夫人は母屋と呼ばれる城の中枢部分に居を構えるのだが、彼女はわけあってこの北の塔最上階の部屋を宛がわれている。


 その部屋は母屋の部屋に比べるとかなり狭い。円錐のような塔の最上階なのだから仕方ないと言えばそうなのかもしれないが、当主の奥方が住まう部屋とは思えない狭さだ。
 が、それは壁一面に作りつけられた棚がそう見せるところもあるのだろう。本、小物、額縁。その棚にはいろんなものが雑多に置かれているようでいて、ひとつにまとまっている。

 秘密基地のようだ。

 ここに来るたびにそう思う。
 母以外の誰の手も入っていない空間はいわば母そのもの。対して、大勢のメイドの手によって整えられた母屋の部屋は整然として綺麗ではあるけれど、なんとなくよそよそしい。
 

 母は棚に並んだ雑貨の中から緑色の缶を取り出した。
 ラベルに妖精の絵が描かれている。

「あなたとお話するのも当分おあずけね」

 缶を開けると、ふわりと花の芳香が混じった茶葉の匂いがした。





「もっと寂しそうな顔してくれないの?」
「寂しいですよ」
「そうかしら」

 ティーポットにお湯を注ぎながら母は微笑む。
 息子は棚に並べられた本の背表紙を目で追いながら相槌を打つ。

「あなたって無表情だからつまらないわ。こんなにかわいく産んであげたのに」
「男がかわいくても仕方ないでしょう」
「じゃ、綺麗に産んであげた」
「……同じです」

 カップを差し出され、息子は視線を母に戻した。

 我が母親ながらどうにもよくわからない人だ。
 子を成してから彼女は身体が弱くなったそうで、自分はこの「母」に育てられた記憶はない。子育てをしたことのない彼女は母親の概念が薄いのか、言動が少女のように無邪気に見える。
 老いるのが遅い魔族は外見で歳を測るのは難しい。そのせいもあるのだろうか、接し方も母というよりは姉に近いかもしれない。


「今度、魔王役になったのでしょう?」
「はい、今夜出立します」

 その挨拶のために来た。
 就任してしまえば数年は戻って来られない。彼《か》の地でへまをすれば、数年どころか2度とここへ戻って来ることもない。

 青藍はカップを口に運ぶ。
 やたらと甘ったるい匂いのする紅茶だ。甘いのは好きじゃない。





 魔王。
 名称だけは大仰だが、実を言えば勇者と呼ばれている武装した人間の相手をするだけの仕事。王と呼ばれるだけの権限など何もない。
 ただ、反撃してくる存在へと変わりつつある人間のための生きた標的。陰で生贄などと呼ぶ者もいる。

 魔族は人間を襲う。餌として狩る。
 しかし人間側の文明が発達して来た昨今、彼らはただ狩られるだけの存在ではなくなった。
 武器を持ち、反撃し、そして自ら攻撃をしかけてくるようにもなった。
 そんな人間たちが魔族を闇雲に襲わないよう、魔族は「魔王」というわかりやすい標的をつくって目立つところに置いた。この仮初めの王を倒せば全てが良くなる、と騙すだけのために。

 人間たちは「魔王」を倒す。
 しかし、倒しても、倒しても「魔王」は新たに現れる。
 彼らが表立って攻防を繰り広げている裏で、魔族は人間狩りを続ける。

 「魔王」とは、そういうもの。





「……推薦したの、私」

 母の声に、青藍は口に運びかけたカップの手を止めた。

「母上が?」
「だってあなたが一番適任だもの。魔力じゃ紅竜様だって敵わない、私の自慢の息子よ」

 テーブルの向かい側に立つ母は笑みを浮かべている。

 紅竜と呼ばれている青藍の腹違いの兄は、今やこの家の当主に座している。その彼より自分の息子が勝っているというのは、母親としては嬉しいものなのだろうか。
 魔王としてその力を誇示させたいほどに? 
 兄を押し退けて当主になる気も、対立する気もないのだけれど……青藍はそう思いながら母を見上げた。




「紅竜様は良くして下さる?」

 笑みを浮かべたまま母は問う。

「……はい」

 母の真意をはかりかねたまま、息子はカチャリ、と小さい音を立ててカップを置いた。
 城で使われている揃いのカップではなく市井《しせい》の小間物屋で売られていたという小花柄は、手描きなのだろう、色も形も歪《いびつ》だ。
 そしてこの部屋はカップに限らず、彼女の趣味の品で埋め尽くされている。

 母はこの小さな部屋で、小間使いのひとりも置かずに暮らしている。
 本人は気楽だと言うが本当のところはどうだろう。貴族のしきたりや伝統に見張られながら過ごすことのほうが、この自由奔放な母には辛いのかもしれないが。

 母そのものといった部屋を眺めながら、青藍はひとつ、息を吐いた。

 そのかすかな息に母は一瞬だけ真顔に戻りかけ、また取り繕《つくろ》ったように笑みを浮かべ直した。

「あなた、紅竜様と何かあったでしょう?」
「いいえ、なにも」
「嘘ばっかり」

 ポットを置き、彼女は椅子に腰かけた。
 目の前の息子は見るともなしにカップを見つめている。
 幼い頃はくるくるとよく動いた瞳も、今ではなにを映しているのかわからないほどに暗い。



「……紅竜様にも困ったものね。あなたにこんな顔をさせて」

 この息子を、腹違いの兄が溺愛しているのは知っている。
 歳の離れた、たったひとりの弟という立場のせいだろうか。見た目が頼りなく見えたことや、髪や瞳の色があの兄の持たざる色だったと言うことも興味を惹いたのかもしれない。

 目の届くところに置くことができない息子を大事にしてくれる誰かがいる。
 それがこの家の中でも絶対的な権力を持っている、と言うのは、力の無い母にとってはむしろ有難いこと。幼少の時分から次期当主と言われ、今まさにその椅子に座っている兄が後ろ盾になってくれるのなら、それに越したことはない。
 溺愛の度が過ぎていると言われていることは人づてに聞いていたが、それでも、嫌われて迫害されるよりは。

 しかし。
 兄弟の間で何があったのかは知らないが、十数年前、目の前の息子は姿を消した。
 流れて来た噂では、兄の逆鱗に触れて幽閉されたという。


 前当主の第二夫人という肩書きは与えられているものの、有力な家の出ですらない彼女には、継子――血のつながりを持たない紅竜に何かを言う権利などない。
 なによりも血筋を重んじる魔族の中では、自分は上級貴族の奥方であるよりも先に、隠居した前当主が愛玩している人形、という目で見る者のほうが多い。
 そして、そんな立ち位置にいる継母の意見を聞くような紅竜でないことも承知している。

 しかし、幽閉されたというのは誰でもない。実の息子だ。 
 なにがあったのだろう。
 気性の激しい紅竜のことだ。下手に怒らせて青藍を害されるようなことになっては元も子もない。機嫌を損なうことなく解放してもらうには、どうすればいいのだろう。

 そう悩んでいた時に耳に入ったのが「魔王役交代」の5文字。
 なんでも、それまで人間界で魔王をしていた者が倒され、早急に代役を立てなければならなくなったと言う。



 魔王は人間界に存在する者。
 魔王役になってしまえば、紅竜も幽閉を解かざるを得なくなる。



 そして前当主を介して何度か働きかけた甲斐あって、青藍は魔王役に就くことが決まった。
 明日には彼はここからいなくなる。今日にも幽閉は解かれるだろう。
 会いに来てくれるだろうか、来られなければ自分が押しかけてみようか、なとど思いつつ朝からベランダで待っていたのだが、いざ本人を目の前にすると罪悪感に押し潰されそうになる。





 黙っている息子を、同じように黙ったまま母は見つめる。
 魔王になることなど彼は望んではいないだろう。彼《か》の地に送り出したのが自分の母だと知って、どう思っているだろう。

 敵ばかりの世界に送り込んで、武装した人間の相手をさせる。
 いくら魔力が高いとは言え、実戦経験のない青藍には荷が重いのではないだろうか。死期を早めるだけではないのだろうか。
 それなら、たとえ籠の鳥のまま一生を終えることになったとしても、生きていてくれたほうが。

 自分は間違った選択をしてしまったのではないか。そんな思いがよぎる。

 でも。



 第二夫人は息子から視線を外し、窓の外に目を向けた。
 部屋の中の重い空気など微塵も感じさせない、抜けるような薄青の空が広がっている。


 昔は自分もあの空の下にいた。
 どこまでも自由を感じられたあの空の。



 ああ。
 自分にもっと力があればこんな顔をさせることもなかった。
 せめてこの身が上級貴族の城に迎え入れられるに相応しい血でも引いていれば、まだ違っていたものを。




「あなた、好きな人とかいないの?」

 唐突な話題転換に青藍は胡乱《うろん》な目を向ける。

「その調子じゃいないわねぇ。せっかく可愛く、」
「それはもういいです」

 四角く切り取られた窓の外を白い小鳥が一羽、遠ざかって行く。

「あなたが魔王役に決まって良かったわ。魔王になればここから出て行けるでしょ?」
「……母上?」

 外を見たままぽつりと呟かれた言葉に青藍は眉をひそめた。
 母の表情は見えない。
 やはり魔王に推挙したのは力を誇示したい、などという理由以外にもっと深いわけが……と思っていると、母はくるりと振り返った。
 先ほどの台詞を口走ったようにはとても思えない明るい顔で。

「勇者に顔傷つけられないように気をつけてね。お嫁にいけなくなるから」
「……あのぅ」

 この母にシリアス展開を求めるのが間違いなのだろうか。
 下手に女顔に生まれついたのが恨めしい。産んだのは彼女だが。

「外に出て、好きな人でもみつけて、もうちょっと笑ってちょうだい。見たことの無い世界に行くんですもの、出会いはくらでもあるわ!」
「私は付き合う相手を探しに行くのではないのですが」
「その疎《うと》いところがあなたの悪いところよ。ほら、こうやって相手の目を見てにこーって笑えばどんな男だって簡単に落ちるでしょ!」

 彼女は両指を絡め、目を輝かせて宙に視線を向けたポーズを取る。
 そんな視線を向けられれば放っておく男のほうが少ないだろうけれど、しかしそれをやっていいのは女性だけではないのだろうか。
 それよりなにより、男を落とすつもりはない。

 母は何を期待して魔王役などを押し付けてきたのだろう。
 死なないでね、生きて帰って来てね、と涙ながらに送り出されるのも気が重いが、ここまで浮かれたことを言われると余計なことを勘繰りそうになる。
 この母にとって、自分はなんなのだろう。


 開け放たれた窓から風が吹き込んだ。
 その風は窓辺に吊るされた金属製の風鈴を鳴らす。

 チリン、リリ……ン。
 その音は遠く遠く、空に吸い込まれていく。





「そういえば、」

 青藍の口から言葉が漏れた。
 似たような音をどこかで聞いた。その時に、なにか言われた気がする。 
 しかし、その記憶はぼやけていて思い出すことができない。

「好きだと言われたことなら……あったような」

 あれは……そう、あれは幽閉される少し前。
 自分は誰かに会った。
 誰だっただろう。


「誰に!? またどこかのエロ爺じゃないでしょうね!?」

 母は両手をテーブルに突くと身を乗り出した。その勢いに息子のほうが引く。

「……さあ?」
「なんで忘れるのよ! いい? あなたみたいにぼんやりしてる子には騎士のひとりやふたり必要なの。ほら! どこの誰!?」
「知りません」


 言われたような気がする、だけだ。本当に言われたのかすら怪しい。
 もし本当だったとしても顔も思い出せないような相手なんだから、その程度の関心しか惹かなかったのだろう。母が期待するようなことは何もない。
 こんなところでひとりで暮らしていれば退屈なのはわかるが、他人の恋バナに食いつかないでほしい。もういい歳なんだし。
 と言うかぼんやりしているってなんだ。
 そんなぼんやりしたのに魔王をやらせるつもりなのか、この母は。


 そんな冷めきった視線を投げてくる息子に母は溜息をついた。
 いかにも落胆した、とばかりの肩の落としようは演技にしか見えない。


「あなた、ちょっと会わない間に性格変わったわね」
「そうですか?」

 恨めしげな声に青藍は首を傾げた。
 自分としては変わったつもりはないが、そりゃあ20年近く経てば性格も変わるだろう。
 その間、会う機会がなかったから余計にそう感じるだけのことで……。

「そっかー。それで紅竜様に妬かれて閉じ込められちゃったのね。で長く幽閉されている間に性格まで歪んじゃって」

 だからと言って……もう少し違う言い方はできないものだろうか。
 こめかみの痛みは決して気のせいなどではないだろう。

 兄は別に自分に恋愛感情を持っているわけではない。もし母が言うように、自分がその誰かに会ったことが長きにわたる幽閉の原因なのだとしても、それはただ単に自分の持ち物をしまい込んだ、というだけの意味しかない。
 兄は自分を所有物だと思っているし、自分はいずれ兄の片腕としてこの家のために生きることが決められている。それだけだ。魔王として外の世界に行ったところで、職務を全うして戻って来るだけ。戻って来られなければ、それまでのこと。

 母の言う「誰か」も、過去に出会ったかもしれない「誰か」も、自分には必要ない。




 揺れていたカーテンが動きを止めた。風鈴も静かに眠りにつく。

「少しお庭を散歩しない?」

 母は唐突に席を立つと、息子に向かって手を差し出した。
 言われるままにその手を取り、青藍も席を立つ。
 一瞬だけ、ふたりの視線が交差した。

「生きて、帰っていらっしゃいね」
「……異なことを仰る。推薦したのは母上なのでしょう?」

 視線と共にするりと手が離れた。
 置いて行かれた手を、母はただ胸に抱く。



 あの手に触れることはもうないかもしれない。彼は戻って来ないかもしれない。
 その時は、母を怨むだろうか。

 でも。
 最期に怨まれたとしても。
 第二夫人は四角い空を見上げた。



 鳥は自由でいなければ鳥ではない。
 生きる時も、死ぬ時も。