ガラガラと馬車が走っていく。
窓の外に見えるのは、のどかな港町ではなく切り立った崖が続く山道。
とても人など住みそうにないその先に、馬車の目的地がある。
「日中の呼び出しなど魔王役を理由にいくらでも断れますのに」
グラウスが溜息をつく。
魔王役とは、もともと勇者と呼ばれている武装した人間たちの相手をするための存在。その存在理由を蹴ってまで出かけなければならないことなどそんなにはない。
魔王の裏の顔であるノイシュタイン周辺の領主として出歩くことはあるかもしれないが、この領主だってもともとはお飾り的なものだ。どうしても出かけなければいけないものでもない。
歴代の魔王が人間の相手まではまともにしようと思わなかったので、何十年、何百年と経つうちにノイシュタイン近辺の行政はそれぞれの町で独自に行うようになった。
領主は口を出さない代わりに手も出さない。それで今まで動いてきたのだから、青藍のように領主としてまで顔を出すほうが珍しい。
が、魔王だけでなく領主としても忙しいのだと、人間に疑惑をもたれないためにはこれまでのように引き籠っているわけにはいかないのだと、くだらない集まりへの誘いを断る口実にできるので、グラウスとしては特に口を挟むつもりもない。
第一、悪魔の城に領主が住んでいる時点でおかしいと思われるのが普通だ。何百年何千年の月日の中で適当な言い訳が作られ、まかり通っているけれど、それは昔の話。
文明や知識がそれなりに発達してきた昨今、いつ疑う者が現れないともしれない。
魔王と領主の関連性を疑う者がひとりでも現れれば、それは自分たちの破滅につながる。
仏頂面の執事に、青藍はなだめるような笑みを浮かべた。
「相手はアーデルハイム侯爵だし、こうやって迎えまで寄こされちゃったらねぇ」
魔王は城に居るもの。
それは鉄則であり、暗黙の了解でもある。魔族の間でも、人間の側から見ても。
しかし魔王とて真の魔族の王というわけではない。自分たちより上の地位にいるものも当然存在するし、招待を受けて断れば波風も立つ。
それでも魔王役の重要さを知っていればこんな昼日中から呼び出す者などいなかった。青藍が魔王役に就任して10年、呼ばれるとしてもそれは悪魔の城での勤めを終えた夜――夜会が主だった。
それなのに。
「アーデルハイム侯爵と言えばヴァンパイアの一族、でしたっけ。よりにもよって真っ先に人間を捕食する方々が乗り込んでくるとは、穏やかではありませんね」
魔族は魔界に住んでいる。人間たちのいる世界とは次元すら違う場所にいる。
しかし、人間は魔族にとっては餌のひとつ。それもかなり美味な部類に入るとあって、昔から魔族による人間狩りは後を絶たなかった。
人間たちもただ黙って狩られるだけではない。武器を取り、力に自信のあるものは自ら魔族に戦いを挑んできた。それが勇者の始まりと言われる。
それに加え、力のない者たちも集団で単体の魔族に攻撃をするようになった。それは後に魔女狩り、と呼ばれるようになる。魔法が使えた「人間」までもが一緒に火あぶりにされてしまったのは不幸以外のなにものでもないが、そのために命を落とした魔族も多い。
そうして攻撃したりされたりすることを繰り返すうちに、自然と住み分けもできていったのだが……。
人間の味というものはそう簡単に手放せるものではなかったらしい。
魔族は狩りたい時にだけ、こうして出向いてくるようになった。人間界に「魔王」という標的を用意してまで。
「迷惑な話ですね。狩りに遭った人間たちの怒りは全てこちらに来ると言うのに」
狩りを終えた魔族は魔界へ帰る。
人間たちの相手をするのは魔王ただひとり。
昔から食用として狩ってきたものをいきなり止めろと言うのは酷なことかもしれない。
だが、その火の粉が自分たちに降りかかって来るとなれば悠長なことも言っていられない。それが仕事だとは言え……。
グラウスはのんびりと窓の外を眺めている主を見る。
悲壮感が全くないのが救いだ。顔に出さないようにしているだけだとしても。
「ある程度狩ったら帰るでしょ。彼らにとっては別荘に避暑に来るようなものだよ」
「その避暑で狩られる側はたまったもんじゃありませんよ」
怒りの矛先を向けられる側としても、たまったものではない。
青藍はくすりと笑う。
「お前が人間の肩持つなんて珍しい」
義妹を手元に置いていることにもあまりいい顔をしなかったこの執事にしては珍しい台詞だ、とでも思っているのだろう。
「肩を持っているわけではありません。ただ上級貴族の方々の場合、生きるために狩るのではなく半分は娯楽でしょう? それ……が、」
グラウスは口籠った。目の前の主《あるじ》も、その「上級貴族」のひとり。人間の娘を拾って10年も食べずに育てているような変わり種ではあるが。
彼らを身分のくくりで批判することは主をも批判すること。それは違う。
「……私も、人間に関わりすぎたのでしょうか」
初めてルチナリスを紹介された時、何故人間などをそばに置いているのだろうと思った。
魔王として人間の敵でいなければいけないのに。
人間はただの餌だったはずなのに。
「いいんじゃない? 案外、人間の生活も楽しいでしょ」
「いろいろ考えさせられるところはありますが。しかし、私は魔族です」
「そう、だね」
「あなたもですよ?」
その声に、窓の外に顔を向けたままだった青藍が、つい、と視線を向けた。
蒼い瞳の中にわずかに溶け込んだ紫が濡れたように光る。
「お前は俺の味方だよね」
「はい」
「るぅの味方にもなってくれるね」
酷い人だ。グラウスは顔を背《そむ》けた。
自分が彼の頼みを断れないことまで知っていて、そんなことを言ってくる。
「……ルチナリスのために?」
「そう。かわいい義妹《いもうと》のために」
背《そむ》けて、目だけを青藍に向ける。
じっと返事を待っている。
その蒼い瞳は心の中まで見透かしているようで。1度絡めとられてしまったら離すこともできなくて。
わかっているのだ。
この人は主人として命令して来ない。いつもこうして頼んでくる。自分に、選ばせる。
命令してくれれば何も考えずにもっと楽に動けるものを、「自分の意思で、あの人間の娘を守れ」と言ってくる。
「何その顔。やきもち?」
「なっ!? 違います!」
やきもちと言われれば、本当はそうなのかもしれない。
何故《なぜ》ただの人間の娘を。|何処《どこ》にでもいるような平凡な、平凡なくせにやたらと不器用な、しかも人間の中ですら何の後ろ盾もない弱い娘を、上級貴族であるこの人はこんなに気にかけるのだろう。
ただ押しつけられて育てているだけ、と言うわりには彼女のことを気に入っているのはわかる。わかるけれど。
「最近構ってあげてないから妬《や》いてるんでしょ?」
「違います」
「だってすっごい顔で睨《にら》んでるよ? るぅのこと」
睨《にら》んでいる私にその義妹《いもうと》の味方になれ、と、そう言うのですね? あなたは。
沈黙のままどれほど経《た》っただろう。
青藍はくしゃり、と破顔した。そのまま両手を取られる。
不意を突かれてグラウスは固まった。
「かわいいねぇ、ポチ」
……かわいい!?
無邪気に笑っている顔から邪念は感じない。感じないけれど、それがこの人の厄介なところだ。
何を考えている?
グラウスは黙ったまま目の前の人を窺う。
そりゃあ自分はこの人の執事だし、忠誠を誓っているつもりだし、まぁその他諸々《もろもろ》をとって見ても犬と呼ばれても仕方ない。
でも、今まで彼が自分を犬扱いしてくることなどなかったのに。
――何を、考えている?
グラウスは取られたままの両手に視線を落とし、そのまま目線を上に上げる。邪気のない、天使の|微笑《ほほえ》みなんて称してしまいそうな顔。背後にたんぽぽ飛んでいますよ、あなた。
しかし他の者ならあっさり落ちるだろうが、これでも毎日顔を突き合わせているのだ。耐性はある。
この顔は……言うことを聞け、と思っている時の顔だ。
「ね、お願い」
そこまでして言うことを聞かせたいなら、命令すればいいのに。
手を取られた時からずっと止まっていた息を、グラウスは大きく吐き出した。
「グラウス、聞いてる?」
声が聞こえる。
しかしそれに返事を返さないまま、グラウスはただ手だけを見て相手の指を1本ずつ外す作業に没頭する。没頭するふりをする。作業の間に息を整えながら。
執事としてその態度はどうよ、と我ながら思うが仕方ない。
この人が悪い。
いくら忠犬でも聞けないことはあるのです。
「ねえ」
「……昔はそんなことを言う人じゃありませんでしたのに」
指を全部外し、相手の膝の上に乗せる。
2度と不意を突かれることがないように、自分の両の手も指を組んで握る。
そう! この邪険な態度を取らせるこの人が! 悪い。
「どんな人だった?」
先ほど自分をポチと呼んだ時とは全く違う暗い口調で、青藍が問いかけてくる。
「どんな人だった? お前の知っている俺は」
知らないよ、そんなことは。とでも言いたげな、そんな声で。
覚えていないとでも仰るんですか?
あなたにとってはその程度の過去なのですか?
グラウスは握る手に力を込める。
指先が食い込んでいく手の甲が、白く変色している。
ガタガタッ、と馬車が揺れた。
そのまま強めの振動が続く。窓の外に、ごつごつとした岩場が見える。
「ねぇ。もし俺が倒された時はさ、るぅが人間界で生きて行く手助けだけでもしてくれると助かるんだけど。そんなお願いは聞いてくれるのかな」
車輪が道の凹凸を拾う音にかき消されながら、青藍の声が聞こえる。
「そういうことを仰るのはやめて頂けませんか」
いっそのこと聞こえないふりをしたほうがよかっただろうか。
そう思いながらもグラウスは返事を返す。
「あの子には身寄りがないから。ひとりで生きて行くにはまだ、」
「もっと小さくたってひとりで生きている子供はいくらでもいます」
顔は見ない。
こんなことを言いだす時の彼の顔は見たくない。
「パンひとつ買うために体を売るようなことをして?」
青藍の声にかすかに笑い声が混じる。
違う。笑っていない。
目を閉じて。心を閉ざして。私がどうしてこんなに頑《かたく》ななのか、そんなこともわからないのでしょう? あなたは。
「グラウ、」
「あなたは!」
青藍がなおも畳みかけようとするのを、グラウスは遮《さえぎ》った。
身寄りがないと知って10年手元に置いて育てた。そればかりかこの先のことも案じている。
なんの関係もないあの娘を。
昔からそうだった。この人は、そういう人。
最近やたらとふざけた言動が多いけれど、本質はちっとも変ってやしない。
「……どうしてそこまでルチナリスのことを」
変わっていないから、この人の頼みを断ることができない。
「似てる。から、かな?」
青藍の呟きに、グラウスは少しだけ顔を上げる。
かすかに微笑んでいるような口元が視界に入った。
似ている? あの人間の娘が、この人と?
どこが。種族も違えば性別も違う。髪の色だって目の色だって違う。境遇だって、
「お館《やかた》様も母君も、……兄君だってご健在でしょう?」
「どうだろう。10年会ってないとなんとも言えないな」
……似ているはずがない。
「とにかくそう言うことだから、お願い。いい?」
「あなたは、昔からそうでした」
重いところを突いてくるのはなし、とばかりに話を切り上げようとする青藍に、グラウスはなおも続ける。
「何故《なぜ》ご自分を犠牲にしようとなさるんです。それの何処《どこ》に得があるんです」
「さっき昔と違うって言わなかった?」
「そうやって同情して自分を切り売りしていくんです。その子にパンを与えるために」
割り込まれた茶々はそのまま流してグラウスは言い募る。
流してはいけない。ここで終わらせてはいけない。曖昧《あいまい》に誤魔化《ごまか》されて……それで後悔するのはあの夜だけで十分だ。だから、
「あの日も、」
「意味わかんないな」
喉まで出かかっていた言葉は、目の前の顔を見た途端に腹の底に滑り落ちた。
窓の外に映るのは蒼とオレンジが混ざり合う空。
その空にうっすらと浮かぶ白い月。
あの夜よりずっと小さい月だけれど……その月を背にして微笑んでいるあなた。
『――どうか、ご無事で』
言えない。
断る言葉なんて、何ひとつ。
「あなたは……ルチナリスのために、私に尽力しろと仰る」
「うん」
「それなら、私のためには何をして下さいますか?」
そう。これはただのやきもちでしかない。
無条件にこの人に想われるあの義妹への。降り注がれる想いを享受することを、あたりまえのように思っているあの娘への。
もちろんこの人は自分にも同じように信頼を寄せてくれている。
義妹だけを贔屓目《ひいきめ》に見ているわけではない。
でも。
「なら、私のために……生きていて下さいますか?」
これが、ただのわがままだとわかっていても。
くすり、とかすかに笑い声が聞こえた。
「善処する」
青藍はそう言うとグラウスの頭をぽんぽん、と叩く。
それはとても、小さい義妹《いもうと》をなだめる時に、似ていた。