陽射しが弱くなって来ると冬が近い、と思う。
地球の公転と地軸の傾きで季節ごとに太陽光が届く割合が変わることは小学生のうちから知ってはいたが、気にしたことはなかった。自宅警備員になってからは太陽を拝むことなく1日が終わることもざらだった。
気がつくようになったのはあの世界に行ってからだ。今の体は光合成などできないけれど、無性《むしょう》に陽光が欲しくなる時がある。
あれから熱はあっさり引いた。
総合感冒薬の解熱成分がいい仕事をしてくれたらしい。保健所のお世話になることにでもなったら「ウイルスは死滅していなかった!」なんて見出しでトップニュースを飾ることになったかもしれないから、ただの熱でよかったと言うべきだろう。
彼に伝染《うつ》すだけではなく、マスコミに押しかけられて受験に差し障《さわ》りが出ることも、俺たちの関係を面白おかしくネタにされる可能性もあったのだから。
あの時俺の前に現れたマーレは、やはり夢だったのだろう。
以来、姿を現すことはない。
彼の体を借りて訴えかけて来ることもない。
「今日は遅くなります」
いつもと同じ口調でそう言い残し、彼は家を出て行く。
海風に簡単に煽《あお》られているリュックに、学園祭の季節か、なんて思う。
彼のクラスは定番中の定番とも言える喫茶店をやるらしい。
昨今は学園祭の出し物と言えどもメイド喫茶、執事喫茶だけではなく男装喫茶、女装喫茶とよりニッチな性癖にシフトしつつあるけれど、彼のクラスはどうなのだろう。
出迎えの一声が「いらっしゃいませ」じゃなくて「お帰りなさい」だとか。ウェイター姿なのか。まさかメイド服は着ていないだろうが。
尋ねても曖昧《あいまい》に誤魔化して教えてくれなかったのが気になる。
が、それは兎《と》も角《かく》。
彼にしてみればメインは終了後。生徒会役員は打ち上げや後夜祭以降に学校に居残ろうとする学生を追い出さないといけないので、帰るのが最後になってしまうのだとか。
それも貴重な思い出ではあるけれど、まるで雑用係だなと……監督生だからと意味不明に雑用を押し付けられていたマーレを思い出す。
学園祭は父兄や他校の学生にも門戸が開かれている。
学校公認の下《もと》、敷地内に足を踏み入れることができる貴重な機会……とは言え、娘や息子から来るなと念押しされているのか、父兄らしき姿は少ない。目につくのは他高生ばかりで、だから大人は浮いてしまう。
自分は彼の父兄ではないし、そうして浮くのも嫌だからと遠慮していたが、思えば今日は彼の学生生活が垣間見れる最後の機会ではないだろうか。
ウズ、と湧いて来るものに1度は気がつかないふりをしたものの、これが最後となると抑えることができない。
彼は学校でどうしているのか。
どんな顔で話をしているのか。
俺がいたはずの場所には今、誰がいるのか。
だが俺は彼の父兄ではない。生計を同じくしていると主張する手もあるが、言い換えればただの居候、もしくはヒモ状態の男を学校側が父兄と認識するかどうか。
昨今の凶悪犯罪などを鑑《かんが》みるに、たとえ学園祭であろうとも、いや学園祭みたいな羽目を外しやすい日だからこそ誰でもwelcomeではないだろう。父兄、そして同い年の学生がギリギリ妥協ライン……って、そうだ!
閃《ひらめ》いた。
いや、気がついた。
そんな面倒をしなくとも、俺は彼の同級生でもある”能登《のと》亜生璃《あいり》”の兄じゃないか紛《まぎ》れもなく!
今日ばかりは妹でいてくれて嬉しく思うぞ妹よ!
そうなれば、思い立ったが吉日。
掃除もそこそこに俺は服を着替えて家を出た。ユニ〇ロだから奇異の目で見られることはないはずだ。
彼の通う高校は徒歩で30分ほどのところにある。
隣接している中学とは外見がよく似ていて、一見すると巨大な学園のよう。けれども、どちらもただの公立だ。私学ではない。
アイボリーのカーディガンとグレーの上着が入り混じる学校は、ラ・エリツィーノで通ったあの学校を彷彿《ほうふつ》とさせる。学生に戻ったような錯覚すら覚える。
でも俺の隣には誰もいない。こんな時、恋愛ものなら背後から「ノクト」と声がして、でも振り返ったらいない……みたいな展開が待っているものだけれども、その声すらかからない。
そうこうしている間に学校に着き、受付で入校証を受け取ろうとした矢先のことだった。
「どう言うことよ!」
という声と共に、顔面にグーパンチが炸裂した。
このめり込み具合は確かに妹。拳《こぶし》を顔で受け止めるのは3年ぶりだが全然変わっていない。
嫌いな奴《やつ》は気配でわかると言うけれど、何処《どこ》かで見張っていたとしか言いようのない早さじゃないか妹よ。もしかして「今日は会えるといいなァ、お兄ちゃんに♡」なんて思いながら正門を見張っていたのかい?
なんて遠のく意識で煽《あお》りつつ、視界に広がるのは冬の気配を隠した薄青――マーレがいつも見上げていたサンドベージュではない、高すぎると馬が太るらしい、ちゃんとした秋の空の色。
BGMは「能登の兄貴?」「なんで兄貴にグーパン!?」などという戸惑いの声。
そうだぞ亜生璃《あいり》。
お前が何もアクションを起こさなければ俺は”誰かの父兄”で済んだのに、わざわざ殴りにくるから”能登《のと》亜生璃《あいり》の兄”で確定されてしまったじゃないか。
お前がいつも馬鹿にする”変文字T《変な文字のTシャツ》”じゃなくて一張羅のユニク〇を着て来た俺に感謝するがいい。
そんな呪いの言葉を紡ぎつつ、俺は意識を手放……すにはグーパンチの威力が弱かった。
俺に高熱をもたらした3年間の健康的な生活は、回復と同時に新たなスキル”グーパン程度では倒れない丈夫な体”を与えていったようだ。
って、3食食べて、適度な運動(家事と買い出し)をし、夜更かしせずに寝、さらには「お兄さん」と慕ってくれる美少年とのコミュニケーションで心まで満たされれば、自堕落な頃より健康になるのは至極当たり前。
不死鳥の如《ごと》く(要するに倒れないだけ)身を起こした俺の腕を、亜生璃《あいり》が取る。
「怪我はない? お兄ちゃん♡」ではなく「ちょっとこっち来なさいよ!」と人気《ひとけ》のないほうに引っ張られていく俺を、ギャラリーの皆様は見守っているだけで誰も助けてはくれない。
それどころか「体育館裏じゃないから大丈夫」みたいな目をしているのは何故《なぜ》だ。
まるで海でヴィヴィと一触即発バトルモードに入った時にチャルマが向けた、「ヴィヴィなら大丈夫」と全幅の信頼を寄せる視線……当事者《俺》からすれば過去も今もどのへんが大丈夫なのかさっぱりなのだが、まぁ、それは置いといて。
「あの、どう言うことって、何が」
「何しに来た」、ではなく「どう言うこと」とは?
俺はおそるおそる亜生璃《あいり》に呼びかける。
「帰れ」と言われたのに|未《いま》だにあの家に居座っていることを言っているのなら、お前にも一因はあるぞ妹よ。顔を合わせる度《たび》にキモキモ言って来る血の繋《つな》がった妹よりも、「お兄さん」と好意的な目を向けてくれる赤の他人との生活のほうがすこぶる快適だからと言わざるを得ない! と言うのは冗談だが、熱が引いたと言ってもまだ数日の病み上がりの身に、それは酷《こく》と言うものだろう!
そんな心の声が聞こえたのだろうか。亜生璃《あいり》は足を止め、ギロリと振り返る。
3年前にも思ったが、こいつは絶対に俺の心が読めるに違いない。
だがしかし。
「しらばっくれんじゃないわ。凪《なぎ》が海外行くって言い出したの、どう考えたってお兄《にい》が何かやった以外にないでしょ!?」
言うことは違った。
いや、どちらにしても彼絡みであることは間違いないのだが、ってそうではなくて。
「海外!?」
今更も今更だが、”凪《なぎ》”は彼の名前だ。苗字も海っぽくて、安直なネーミングだと呆れたことを覚えている。
父親が釣りキチだったりすると高確率で付けられる名前、凪《なぎ》。彼の父親の趣味がそうかはしらないが、海の近くに家を建てるくらいなのだから可能性は高い……と、無駄なミニ知識をひけらかしつつ。
海外って何だ?
夏休みも終わってあとは受験まで一直線のこの時期に、余裕ブチかまして海外旅行ではあるまいに。
「言ったよね? あの家を出ろって。迷惑かけるなって。
いい!? 凪《なぎ》はね、高校だってホントは東京の進学校に行くはずだったの! それを急にやめて地元の公立行くって言い出して。お兄《にい》が凪《なぎ》の家に入り浸ってからだよ!? お兄がいるから凪《なぎ》は東京に行くのやめたのに、それで今度は海外に行くって、お兄《にい》、何処《どこ》まで他人の人生無茶苦茶にする気!?」
聞いていません。とは言えないが言いたい。
東京の私学に行くはずだったなんて今初めて聞いたぞ俺は。
けれど、考えてみれば偏差値も並でしかない地元の公立より私学に行ったほうが大学進学には有利だろうし、彼の頭なら行けるはずだ。
大学にしても、国公立受験コースにいると言うからそれで安心していた。彼は進路のことなど何も言わないし、ただの居候が聞くものでもないと思って黙っていた。
彼は俺と違って頭もいい。金にも不自由していない。
順風満帆に大学に行って、就職して、結婚して……と言う”人並みの幸せ”が確約されている人種だし、それは国内にとどまらず海外でも有効だろう。
けれど何故《なぜ》、今?
大学はどうするんだ? 受験までには戻ってくるのか? それとも――
あのエアメールはやはりそうなのか?
両親が「向こうに家を建てたから親子水入らずで暮らしましょう」と言って来たのか、それともあの時に湧き上がった疑念のとおり、クルーツォが仕掛けて来たのか。
少なくとも俺には、彼が突然海外に行きたがることに心当たりなど、
『幸せにはしてくれないんですか?』
――戻って来ないつもりなのか?
まさか。
俺に振られたから、傷心のあまり海外に逃避行!?
いや待て。あいつ、そんな繊細なタマだったか!?
「……その顔。やっぱり何かしたわねこの変態中年!! 凪《なぎ》に手ェ出したらどうなるか、」
亜生璃《あいり》が指をボキリと鳴らす。
ここで空気を読まずに「指を鳴らすと関節が太くなるんだぞ」なんて言った日には、形状もとどめないほどに殴られることは必至だし、俺も妹の指の太さなんぞに興味はないから言わないが。
「出してない! 出すわけないだろう!!」
出さなかったから、俺の前から消えるのか?
でも、
「出せるわけがない……」
「こんな小汚い中年を凪《なぎ》に押し付けたあたしにも責任はあるけどさぁ! でも帰って来いって言ったよね? こんなところまでホイホイ来る体力があって、何で戻って来ないわけ!? あ、でもうちに帰って来ても、お兄《にい》の部屋もうないから玄関かベランダで寝てもらうことになるけど」
実の兄を無断で他人に譲るな、とか、俺の部屋はどうした!? とか聞きたいことは幾《いく》らでもあるけれど、どちらにしろこのままでは駄目だ。
俺が居座っているせいで彼は彼女ができても家に連れて来られない。
塾がある日は塾が終わった時間に、塾がない日は放課後に、彼はきっちり定時で帰って来る。
土日だって遊びにいかないし、誰かが遊びに来ることもない。
俺は彼が幸せになるのを見届けるどころか、邪魔し続けて来たんだ。
『――僕はきみに責任を取ってほしいなんて1度も言ったことはないのに』
わかってる! これは俺のエゴだ。
お前と同じ顔をした奴《やつ》の面倒をみるふりをして、俺が満足しているだけだってことは。
彼がお前じゃないってことは。
だから、だから責めないでくれマーレ。
「あ、先生! んじゃね、そう言うことだから!」
俺を後悔の海に投げ出したまま、言いたいことを言い尽くした亜生璃《あいり》はさっさと踵《きびす》を返す。
喜々として走り去る彼女の先には、俺には見せない屈託ない笑顔で話している彼《凪》と、浅黒い肌の青年の姿。
「……ク……ルーツォ……!?」
何故《なぜ》あいつが? 先生と呼ばれたところからして、中学の時に教育実習に来ていたという”石油王の息子”だろうか。
亜生璃《あいり》と愛美《えみ》ちゃんが懐いているのもそれらしい。
クルーツォ。
チャルマ。
ヴィヴィ。
そしてマーレ。
あの世界で俺の周りにいた奴《やつ》らが、俺が欠けていることに気付きもしないで笑っていた。
朝起きて、庭木に水をやる。
ぼんやりしているうちに暗くなって、買い置きのカップ麺をすすり、寝る。
亜生璃《あいり》が言ったとおり、彼は海外に行ってしまった。
高3にもなると授業なんてあってないようなものなのか、課題を提出することで授業を受ける代わりにするのか、出席日数は既《すで》に足りているのか、兎《と》も角《かく》今の時点で休んでも留年という事態だけは回避できるらしい。
留年せずに済むと知れば、次に気になるのは大学受験だが……出立前に何とか聞き出したことと言えば、海洋学の道に進むつもりだった進路を白紙に戻したということだけ。
新たな志望先については何も言わない。
志望先が”ある”のかどうかもわからない。
もともと国公立大受験コースで5教科やっているから変更したところで大勢に影響は出ないとは言え、こんな直前になっての変更、本当に大丈夫なのか? 大学に行く気すらないんじゃないのか?
気になるものの居候の身ではそんな踏み込んだところを問えるはずもなく、モタモタしている間に彼は機上の人になってしまったと言うわけだ。
何をしに海外に行ったのか。
何処《どこ》に行ったのか。
世界の何処《どこ》かにいる両親と一緒なのか。
それとも他の誰かと会っているのか。
俺は何も知らない。教えてもらえない。勝手に居座っているだけのウザい中年(妄想癖有)でしかないのだから当然だ。
そんなモヤモヤを抱えたまま、俺はこの家で留守番をしている。
実家に俺の部屋《居場所》がなくなっていると知った彼が「此処《ここ》にいてもいい」と言ってくれた好意に甘えている、兼、空き巣防止なわけだが、出ていく準備も始めなければ。
もし拠点を海外に移したとしても彼のこと。俺の居場所がないというだけの理由で「此処《ここ》にいてもいい」と言いかねない。
何年も、何十年も。下手したら子や孫(ができるかどうかはコンマ以下の確率になりそうな年齢になりつつあるけれど)の代になっても。
ちなみに小ネタだが、民法では20年住み続けて且《か》つ、取得時に盗った盗らないなどの問題がなければ取得時効というものが成立するらしい。
土地付きの家が実質タダで手に入るなんて前世で徳を積んだとしか言いようのない棚ボタだが、俺の前世は住んでいた町を破壊し、同級生をも囮《おとり》として利用しようとしたろくでもないもの。そんな幸運は俺が手にするべきではない。
兎《と》も角《かく》、就職して安アパートを借りて。
疫病の影響で経済は低迷も低迷、倒産する企業もあれば解雇される従業員も増えている今、ブランクの長いニートがいきなり就職なんて世の中を甘く見過ぎていると怒られそうだけれども、職種を選ばなければ何かしらはあるだろう。
そして彼から離れる。そうしなければ俺は何時《いつ》までも寄生してしまう。
現にこの3年間やっていたことと言えば、あの世界を舞台にしたゲームを仕上げてコンペに出したことだけ。寄生している立場に胡坐《あぐら》をかいて、俺はそんな一銭にもならないことしかしてこなかった。
『お兄さんはどうして此処《ここ》にいるんですか?』
あの時彼に指摘されたとおり、彼の幸せを見るだけなら此処《ここ》にいる必要なんてない。
幸せになるのを見届けたい、なんて言いながら、誰よりも彼から幸せを遠ざけていたのは俺だった。
「幸せにしてくれないんですか?」と言われてちょっと分不相応な未来を見そうになってしまったけれど、俺と彼の関係は所謂《いわゆる》、ファンと推《お》しのようなもの。
そして本来オタクとは、|推《お》しの幸せを|陰《かげ》で見守るもの。
決して”自分が”叶えようと思ってはいけない。
海を隔《へだ》ててしまったら見守るのは無理だろうと思うかもしれないが、それを言うならドルオタはCDを何枚も買わなければ会話(それも数分)することもできないほど、推《お》しに会うためのハードルが高い。アニオタに至ってはリアルで出会うことすらできない。
それに比べればどれだけ遠くても2万km以下、会ったら会ったで家族同然の親しさで認識してもらえるであろう俺は恵まれている。
そう。どれだけ遠くても。
俺は学園祭の時に彼と親しげに話しをしていた褐色肌《クルーツォ似》の青年を思い出す。
奴《やつ》は、やはり中学の時に実習に来ていた”(亜生璃《あいり》曰《いわ》く)石油王の息子”であるらしい。
今何処《どこ》で教鞭を取っているかは知らないが、中学に実習に来ていた奴《やつ》があの学校《高校》にいることはないと思われる。もしかしたら出身国に帰っていて、あの日はたまたま遊びに来ていただけとも考えられる。
だがもし奴《やつ》にクルーツォの記憶が残っていたのなら、俺と同様、マーレに対して罪悪感を抱いていることだろう。直接的にマーレをレトの意思に殉《じゅん》じさせたのは奴《やつ》なのだから。
その場合、当初の俺のように目の届く範囲で見届けたいと思うはずだ。
そして厄介なことに、奴《やつ》は俺と違ってオタクの《陰で見守るしかない》星の下には生まれていないから……今回の海外行きに1枚噛《か》んでいないとは言いきれない。
あの世界の人々と同じ顔をした連中が揃ってあの世界の記憶を持っていない今、奴《やつ》に記憶がある率も限りなく低いけれど、記憶がないから動かないとどうして言える?
記憶がないと言うのは彼にも言える。
記憶がないからこそ、俺の語った前世をそのまま俺の都合がいいように理解している。
真実を知ったら彼が俺を見る目は変わるだろう。
俺はラ・エリツィーノを破壊し、親代わりだったレトを破壊しようと目論《もくろ》んだ。それだけじゃない。ヴィヴィやチャルマ、フローロが死んだのも、マーレ自身を死に向かわせたのも元を正せば俺だ。
あの世界は俺が作ったゲーム世界。「大勢死んだほうが涙を誘えるから」「ディストピアっぽいから」という安直な理由が、まさかあんなことになるとは……。
庭と公道を仕切るように植えられた桜は、風が吹く度《たび》にハラハラと葉を落とす。
桜は家に植えるものではない、と理由も知らない通説を彼に教えたことがあるが、その時は「家で花見ができるからいいんです」と返された。
けれどこの3年間、此処《ここ》で花見をしたことはない。
どうしてもあの最期《さいご》の日を思い出してしまって、直視することができない。
そんな俺を見ているからか、彼も花見をしようとは言わない。
でも。
「最後の日は、パーッと焼肉でもするか!」
景気づけに大声を張り上げる。
バーベキューセットにするか、無煙ロースターにするか。そのどちらもこの家にはないから実家から借りて来よう。
3年前の給付金がまだ少しは残っているから新しいのを買ってもよかったけれど、たった1度の焼肉のためには勿体《もったい》ない。タダで使えるものはタダで使って、その分、肉を多く買ったほうが有意義だ。
「最後に………………馬鹿みてぇ」
彼は焼肉に込められた意味を知らない。
盆や正月に焼肉をする、と教えたのはマーレにだけだし、この世界の一般常識では盆や正月に焼肉はしない。
桜の下ではすることもあるけれど、その花も咲いていない今、彼は不審に思うだろうか。
でも最後だから。
これを最後に、俺は彼の前から消えるから。
最後くらい、彼が焼肉を頬張る姿を見たっていいじゃないか。
そんなこんなで気を奮い起こしてやって来た駅前の商店街は、少し先にできたショッピングモールに客を取られて閑散としていた。
ハローワークの求人にもピンとくるものがない。
俺が学生の頃はあちこちの店舗に貼られていたアルバイト募集の貼り紙も、今は何処《どこ》にもない。
疫病の爪痕が3年経《た》った今も残っているのは予想していたが、見通しが甘かった。選り好みをしなくても結果は|芳《かんば》しくない。
買い手市場の今、就職できなかった大卒はそのあたりにゴロゴロいて、経歴:自宅警備員の30代にお呼びはかからない。
愛美《えみ》ちゃんの実家でもある雑貨屋も今年の4月からシャッターが下りたままだ。
ショッピングモールのテナントのひとつとしてやっていくことになったので、採算の取れない駅前店は閉めることにしたのだと聞いた。
とは言えファンシー雑貨多めの店にオッサンは不要だろうし、愛美《えみ》ちゃんに寄生するなんて以《もっ》ての外《ほか》。こればかりは亜生璃《あいり》の制裁を受けても文句は言えない。
実家から借りたバーベキューセットの箱を吊り下げてトボトボと歩く。
予定ではそれなりの候補を見つけて面接の約束を取りつけるところまではいくつもりだったから、尚更《なおさら》足取りも重い。
なのに傍目《はため》には週末キャンプを計画する、”人生が軌道に乗っている人”に見えているのかもしれないと思うと、皮肉すぎて涙が出そうだ。
ペットボトルを手にした高校生らとすれ違った。
その姿にクリスマスの時、マーレに炭酸水を買ってやったことを思い出した。
浮かれて柄《ガラ》でもないことをしてしまったがそれは彼にも違和感として伝わったようで、奢《おご》ってもらういわれなどないと言わんばかりの態度で、その炭酸水を通りすがりの子供に譲っていた。
あの頃から俺が良かれと思ってすることは、彼にとっての”不要”でしかなかった。
『――僕はきみに責任を取ってほしいなんて1度も言ったことはないのに』
俺は消えた”ノクト”の代わり。それ以上の価値はない。
あの言葉は許してほしいと願う俺の心が言わせたものだと思っていたが……許しではなく、強い拒絶にも取れる。
”責任を取る権利すらない”と。
実家より慣れてしまった家に着き、自分なら絶対に選びそうにないメルヘン味すらある郵便受けから郵便を取り出す。
その中のひとつ、俺宛ての郵便物に目を止め……差出人を確認して俺は小さく溜息を吐《つ》いた。
庭の木々も海岸沿いの並木もすっかり葉を落とし、陽が射し込むようになったけれども、それ以上に吹き込む風が冷たい。海も薄暗く色を変え、打ち付けられる波が立てる白い飛沫《しぶき》までもが寒々しい。
”暦の上ではまだ秋”だなんてとても言えない。
そんな中、
「……これはどういうことか、説明してもらいましょうかお兄さん」
「あ、ええっと」
彼が帰ってきた。
もう海外には行かないのか、それとも一時帰国なのか。
とは言え高校に出席する必要もあるだろうし、帰ってきたその足でとんぼ返りすることはないだろう。そう思って掃除は念入りにしておいた。備蓄のカップ麺も戸棚に詰めておいた。
そしてメイン。
最後の晩餐《ばんさん》よろしく庭にバーベキューセットを据え、肉もタレに漬け込んで冷蔵庫でスタンバっている。コーラも1.5リットルを2本用意した。
風は冷たいけれど日中なら我慢できる程度だし、火の近くなら温かい。何よりテンションが上がれば寒さなど感じないだろう。
と思ったけれど、念には念を入れてカイロも買ってある。
俺側の準備も万端だ。
かねてからの準備は滞《とどこお》りなく、とは言えないが、短期の仕事は確保した。
2駅先の隣町に開店するショッピングモールの駐車場誘導員。場内で「こっちに1台空いてますよー」と誘導する人ではなく、路上で”駐車場はこちら→”の立て札を持って立っている人だ。
誰にでもできる簡単なお仕事に見えるけれど、座れないし、風が強ければ立て札と一緒に飛ばされるだろうし、1日中となれば晩秋とは言え陽射しもキツい。経歴:自宅警備員の俺が耐えられるかどうか自信がないが、やる前から弱音は吐かない。いや、吐けない。
ちなみに此処《ここ》は駅前商店街に閑古鳥を放った某ショッピングモールとは別の……要するに競合他社だ。愛美《えみ》ちゃん家《ち》の敵にはならない。と思う。
しかし短期では懐が心許《こころもと》ないので、アパートへの引っ越しは保留にしてある。その代わり実家の元・俺の部屋を半分返してもらうことにした。
寄生先が彼の家から実家に移っただけに聞こえるのは真実だから反論できないが、引っ越すつもりだけ《・・》はある。毎月家賃が払えるような安定した職に就《つ》いたらすぐにでも。
なんせ元・俺の部屋の半分は亜生璃《あいり》の物置と化し、返してもらった半分も俺の荷物で埋まってしまった。とても寝るスペースなどない。
だから彼が帰ってくるまでは、と、この家で寝るだけ寝させてもらっていたが、それも昨日まで。
彼が帰ってきたからには、俺は「住むところ? そんなもの子供に心配されなくたってちゃんとあるさ」とばかりの顔で颯爽《さっそう》と……体のほうを隙間に合わせなければ寝る場所もない部屋に去るつもりでいる。
つまらない見栄だ。
でも、最後くらい張ったっていいじゃないか。
と、まぁ。
空白期間のあらすじは此処《ここ》までとして、冒頭の台詞《セリフ》に戻る。
「就職だの引っ越しだのって聞いてないんですけど? と言うか荷物運び済ってどういうことですかお兄さん」
彼はもぬけの殻になった部屋を見回し、それから俺を見据える。
下から睨《にら》んでくるその目線があまりにもマーレで、懐かしさのあまり怒られていると言うのに口元が弛《ゆる》みそうになってしまって、俺はさりげなく手で口を押さえた。
「だ、だからな。俺もいい加減独《ひと》り立ちしないといけないなーって、ははははは」
いい歳した大人が半分の年齢の子供相手に独《ひと》り立ちと言うのも妙な話だが、俺がいたら彼は友達を家に呼ぶこともできない。進路も自由に選べない。
「いてもいい」とは言うけれど、それは俺が”前世で親密な知り合いだった”と思っているからが8割+《プラス》行き場所のない俺への同情が2割、から発せられただけの言葉だし、例の「幸せにしてくれないんですか?」発言も前世絡みの気の迷いだってことは、俺はちゃんとわかっている。
マーレの記憶を持っていないのなら、彼は”世界に3人いる同じ顔”のひとりでしかない。
だから俺は彼とは離れる。
離れるけれど、彼をマーレだと思って遠くから見守ることにする。
「突然のことだから怒るのもしょうがないけどさ。でも勝手に居座ってるのも悪いなーって思ってたんだよ前からさ」
「居座るも何も、お兄さんは能登からブ〇ック〇ック1個で買い取ってますから、此処《ここ》にいていいんです」
「買い取っ……って、安っ!!!!」
妹よ!!!!
仮にも実の兄だろう!? 小さい頃は「パパよりお兄ちゃんがいい♡」と宣言して親父を悲しみの淵に立たせたくせに、その兄を紙パックジュース1個で他人に譲るとか、扱いが酷過《ひどす》ぎやしないか!?
と言うか、やたらと出てくる”ブリ〇クパ〇ク”は本当に俺が知っている紙パックジュースと同じものか? あの学校では通貨として流通しているのか!?
「で? 話を戻しますけど就職ってどう言うことです? お兄さんはゲームを作る人なんでしょう?」
「なんだけどな。ほら、人間夢だけじゃ食べていけないって言うか、俺もこの歳になってやっと目が覚めたって言うか」
そう言って笑うと、彼は仏頂面のままスマホを取り出した。
画面をタップして出て来た画面を俺の鼻先に突きつける。
「だってお兄さん、賞取ったじゃないですか。『6月のオラシオン』ってこの間完成して応募したやつでしょう?」
「……知ってたのか」
実家からバーベキューセットを借りて来た日、俺宛てに届いていた郵便は、以前出したコンペの主催からだった。
『6月のオラシオン』とは、あの世界とマーレたちを忘れないように、と細部まで思い出しながら作り上げたゲーム。但《ただ》し主人公はマーレではなく俺にしてある。
あの1年の日々の中でマーレが何を考え、何を判断して来たのか。大半を共にしたとは言え俺の知らない部分を捏造《ねつぞう》するのは気が引けた。
選択肢で分岐するエンディングには俺が味わった”マーレを失って元の世界に戻るルート”の他に、”レトを破壊しないルート”、”あの世界に残るルート”などがある。どれも俺が暴走しなかったら現れたであろう別の未来だ。
そして結果は大賞、金賞、銀賞も逃し、ギリギリに入った”奨励賞”。
応募本数から考えれば「でも奨励賞だし」なんて言った日には後ろから刺されること間違いないし、1年前の俺なら喜び勇んで彼に自慢しただろう。
が、今は違う。
この奨励賞は彼に寄生して彼の人生を無茶苦茶にして得た結果。
犠牲に釣り合う賞だったなら無邪気に自慢しただろうけれど……俺は俺の限界を知ったと言うか、現実を見てしまったと言うか。要するに燃え尽きてしまったわけだ。
加えて、「30代ならまだ定職には就ける。歳を重ねれば書類選考すら通らないのだから」というハローワークからの助言も響いていた。
この後何十年か経《た》って年寄りになった時、その時も俺は此処《ここ》にいるのか? いないだろう?
彼が巣立つ今、俺も自分の進むべき道を……自分だけで生きていける道を探すべきだ、と。
「いい夢が見れたよ。だから、」
「何言ってるんですか。1歩踏み出したばっかりじゃないですか! 住むところもお金も、お兄さんは何も心配しなくていいんです。お兄さんは僕が面倒を見ます。だから作り続けて下さい」
1タップで画面を出したあたり、彼は結果発表のページをブクマ《ブックマーク》していたのだろう。
応募のことは隠していたのに何処《どこ》で知ったのか。
俺の名前を見つけて、一緒に喜ぼうと思って、なのに当の本人がゲームから足を洗おうとしていたら怒るのも当然だが……この歳になると現実と、そう遠くない老後を考えなければいけないんだ。
夢を見る権利があるのは子供だけなんだ。
「俺を売った亜生璃《あいり》も帰って来いって言ってるし」
「今のお兄さんの所有権は僕にあるんですが」
気持ちは嬉しいが、ブリッ〇パッ〇1個で取引された俺にそこまで責任持ってくれなくても。
面倒を見ると言い切った彼に、この3年間がこの後も続くかもしれないと淡い期待を寄せそうになって、俺は慌てて首を振る。
駄目だ。それじゃ意味がない。
思い出せ! 推《お》しの足枷《あしかせ》になるなんて、オタクの風上にも置けやしないってことを!
「お、推《お》しは遠くで見守るもんだ、から」
「意味がわかりません」
そりゃあ真っ当な道を歩んで来た優等生には推《お》しだの何だのと言っても通じないだろう。
俺は曖昧《あいまい》に笑う。
彼にオタクについて説くつもりはない。住む世界が違うのだから。
しかし。
「推《お》しが夢を叶えるための障害がこの手で退《しりぞ》けられるのなら、手を差し伸べるのが本当のファンでしょう? お兄さんは見守るだけなんですか?」
「いやあの、障害は取り除《のぞ》くとも。だから俺は」
その障害が俺なんだ、と改めて言うと悲しくなって来るけれど、どうも彼はそう認識できていないような……いや違う。彼の言い方は、まるで俺のことを推《お》しと言っているような。
いや。
いやいやいや。
彼は「意味がわからない」と言ったじゃないか。
彼は”推《お》し”という単語が指す意味を知らない。だから――。
彼はひとつ息を吐くと、リュックから紙束を引っ張り出した。
オール英語だが、college《(大学)》だけはわかる。
大学に行くのか? 海外の。
彼が此処《ここ》からいなくなるかもしれない。拠点を海外に移すかもしれないと覚悟していたはずなのに、それでも目の前に突きつけられると胸が痛む。
そうか。やっぱり今回の渡航は……。
「ええ。お兄さんが思っているとおり、外国の大学を受けました。再来月に合否が出ます」
「受けたぁあ!?」
だがしかし。
予想は斜め上を飛び越えた。
「待て! 過去形なのか!? 何で一言もなく、って俺に相談したってどうしようもないことはわかってるけど、でも」
「ごめんなさい。でも海外の大学に行くって偉そうに言って、失敗したら恥ずかしいじゃないですか。だから確信できるまで黙ってたんです」
恥ずかしいって。
だがしかし、合否が出る前にこうして喋ると言うことは、彼が口にした通り、それ相応の手ごたえを感じているということだ。
海外の大学は入るのは簡単だが出るのが難しいと聞く。
簡単と言ってもそれなりの頭はいるだろう。けれど彼ならきっと。
「僕、医学に進むことにしたんです。この間みたいな疫病がまた流行《はや》るかもしれないでしょう? そもそも今だって単なる小康《しょうこう》状態かもしれない。冬になったらまた流行するかもしれない。だから何かあった時にすぐワクチンを作れるように、作るだけの力を持っておきたいって」
『――そうだよ! 生命《いのち》の花があれば、能登大地の世界の人は死ななくて済むかもしれないんだ!』
ああ。
お前は……記憶がなくたって同じことを思うんだな。マーレ《・・・》。
「一番研究が進んでいるのが海外だったものですから……お兄さん、泣いてるんですか? 心配しなくても大丈夫ですよ多分。先生もいけるって言ってたし」
クルーツォが来ていたのは彼の受験を助けるためだったのだろうか。
それを俺は薄汚い嫉妬《しっと》に塗《まみ》れた目で見ていたのか。
「もし駄目でも来年受けるって手もあるし」
「そうだな。うん、そうだ。偉いよお前、いつも俺が考える以上のところにいるんだ」
俺は拳《こぶし》を握る。
だからこそ俺はお前の足を引っ張るわけにはいかない。
俺なんか忘れて、お前はお前の夢を叶えろ。2万km離れた地球の裏側に行ったって、俺はお前を応援してやる。障害も全部ぶっ壊してやる。
何て言ったって俺は、町ひとつ破壊した男なんだから。
そして最初の障害は、俺自身だ。
俺の心の中など聞こえていないであろう彼は、庭に広げられたバーベキューセットを見ながら続ける。
「お兄さんはずっと夢を追ってた。だから僕もやりたいことをすることにしたんです。海洋学の道に進むことは先輩からの勧めであって僕の意思じゃない。向いてるって言うからそうかな、って思っていただけで、別にお兄さんが此処《ここ》にいるから進路を変えたわけじゃ、」
そこまで一気に言い、彼は少し言い淀《よど》むように俺を見上げた。
何だそれ、ちょっとかわいい。
「違う、お兄さんが此処《ここ》にいたから進路を変えたんです。お兄さんが熱を出した時、すごく怖かった。あの病気は……お年寄りのほうが重篤《じゅうとく》になるって聞いたから」
「…………………………俺を年寄り扱いするんじゃない」
待て!!
もの凄くいい感じにエンディングに向かってまっしぐら! って感じだったのに、笑いを混ぜるんじゃない!!
いや、彼自身は全く笑いを取るつもりなどないのだろう。
医学に進むことを決めたのも、本当に俺があのウイルス性疾患に罹患《りかん》していたら、と思ったからだ。そう思うに至った根拠が心を抉《えぐ》ってきただけで、彼は悪くない。
「なのにお兄さん、出ていくとか、そんなの酷《ひど》いです」
「あ、いや、でも」
俺は彼の障害でしかない。
だから俺を彼から排除する。
そのつもりだったのに、
「此処《ここ》にいてくれますよね?」
だーかーらー!!
その顔で迫るな! 俺の罪悪感に火をつけるな!
俺は。
俺は。
俺は……
「俺は、此処《ここ》にい………………………………いや! 腹減ったろ!? まずは飯《メシ》だ! 俺が世界一美味いカルビを焼いてやる!」
雰囲気に飲まれて口走りそうになった台詞《セリフ》を寸《すん》でのところで飲み込み、はぐらかすように俺は彼を庭に|促《うなが》す。
バーベキューセットに火を入れて、冷蔵庫から肉とコーラを出して。
「お兄さん、まだ終わって、」
「わかった! わかったからそれ以上言うな」
話は終わっていないと言い募《つの》る彼を、宥《なだ》めながら椅子に座らせる。
「ちょっと脳内がヤバいことになってるんだ」
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫。これはオタクなら全員感染してる病気みたいなもんだから」
「病気なんですか!?」
こうしている間にも前後左右のあちこちから「おめでとう」「おめでとう」と言う幻聴が聞こえる。拍手まで聞こえる。
わかっている。俺がつい口走りそうになった台詞《セリフ》のせいだ。
ロボットアニメの見過ぎだと嘲笑《わら》われるだろうけれど、その|台詞《セリフ》は「おめでとう」と拍手がセット。耳と脳内がエンドレス再生してしまうのはオタクの性《さが》というものだ。
ジュウ、と肉が焼ける音と、焦げる寸前のタレの香ばしい匂いがあたりに充満していく。
俺の向かい側で、彼が不安げな顔で俺を見上げている。”脳内がヤバい病気”のせいだろう。しかし肉が焼けるにつれ、関心は網の上に移行しつつある。
「……いきなり引っ越しだの最後の晩餐《ばんさん》だの言い出すから」
彼は網の端にピーマンを並べる。
「すまん」
「僕はね、てっきりこれはお兄さんが賞をとったお祝いだとばかり思ってました」
「自分の祝いを自分でするほど悲しいことってなくないか?」
そこは普通、自分の帰国祝いだとは思わないのか? とツッコミたかったけれど、彼がそれを言うと”自分の祝いを自分でする”ことと同義になってしまう、と踏み止《とど》まる。
「3年前お兄さんが来た時、てっきり約束を果たしに来たんだと思ったのに」
「約束? 何の?」
焼肉か? それなら今こうして果たそうとしているわけだが……しかしマーレの記憶がない彼があの約束を覚えているはずもない。
「何の?」
「だから一緒に暮らしてるんだと思ったのに」
「だから何の?」
「……言いません」
「おい」
3年前、彼に再会して有頂天になっていた時の何かを指しているのだろうか。
それとも、此処《ここ》に居付くためにいろいろ言ったことの中の何かだろうか。
「あの時、果たせなかったから」
「あ……あ、そうか」
どうも俺は以前、彼と何かを約束していたらしい。
そしてどうやら1度は反故《ほご》にされたらしい。
しかし再会してから一緒に暮らしてはいるけれど、反故《ほご》にされた覚えはない。むしろ一歩的に言いくるめて転がり込んで、こんなに簡単に入り込めるなんて危険じゃないのかと心配するレベルだった。
彼の言う約束とは何なのか。
でもそれを問い質《ただ》すと、牛肉様のおかげでせっかく戻りかけた機嫌がまた悪くなる気がする。
俺の苦悩をよそに、彼は輪切りの玉ねぎをひっくり返している。
赤《肉》と緑《ピーマン》と白《玉ねぎ》のコントラストに、黄色《とうもろこし》もあればよかったな、なんて現実逃避した思いが通り過ぎていく。
「でも焼肉って盆とか正月とか、要するに晴れの日にするんでしょう? だったらおかしくないじゃないですか。これはお兄さんの受賞記念です」
彼の言葉に、俺は肉を注視していた視線を上げた。
『――あ、美味《うま》いものを食うんだ。冬は特に1月1日に食べる伝統料理があるんだけど、作るの面倒だし買うと高いしで、だから俺ん家《ち》は焼肉やってた。いや、夏もやってたな、焼肉』
この世界で焼肉は決して盆と正月に食べる料理ではない。
精進料理でもおせちでもなく焼肉を食べるのは俺の家だけ。
そのことを教えたのはマーレにだけ。
お前は。
「……お前の帰国祝いと合格祝いもしないとな」
「次は刺身がいいです。トロって脂《あぶら》が乗っていて美味しいですよね」
「そうだな……俺もトロだな」
『何時《いつ》か、僕にも食べる機会があるかな』
『ああ、食おうな。焼肉も刺身も』
お前は、やっぱりお前《・・》なのか?
「お兄さん、焦げてます」
「あ? これっくらいがいいんだよ。ほれ、若者は食べるほうに口を動かす!」
指摘されたロースを彼の皿に投げ込む。
肉を白米の上に乗せて口に運ぶのをひとしきり眺め、さらに他の肉も投げ込む。あっと言う間に空《から》になっていく皿が清々しい。
そして。
網が空いたらいよいよ主役、300g1万円の特上カルビ様の登場だ。
俺は目の前に座る彼を見る。
彼の言う約束と俺が思っていた約束は別のものだろうけれど……期せずして彼の言う約束は果たせているようだし、俺の約束も今果たせる。それでいいじゃないか。
「いいか? 特上カルビは強火で焼くんだ。ひっくり返してからは中火で――」